第8話 歌に畏れる
ユウとダフネが寝泊まりした部屋にお邪魔する。ダフネの姿がなかった。ユウが「あれ、どこ行ったんだろう」と呟き、今しがた押して開けた扉の後ろを覗き込むが、当然いない。
二人に手配されたそこは私の部屋と比べると広く、ベッドも二つありはしたが、飾りのついた調度品類が並んでいるわけではなかった。ただ、私の部屋と違ってその窓辺には作業台と丸椅子が置かれていた。
その作業台の上に、後始末がされているオイルランプ、そしてこれから彫っていくと思しき木材が置かれていた。直方体に切り出されているそのサイズは、せいぜい頭蓋骨がすっぽりと納まるほど――いつかそんなふうにミカエラが木材を喩えたのをちょうどその時思い出したのだ――だった。
その木材の表面はやや赤みがかった茶色で重さのある質感をしていた。高級感を出しやすい色合いとも言える。また、くっきりしている木目が活かせそうだ。私の村では流通していなかった種類の木なので彫った経験はなく、硬さや割れやすさまでは定かでない。
私は木材知識を、実際に触れて彫り刻んだ以外だと、ミカエラが蔵書として持っている木材図鑑から得た。
とある有名な木彫り職人の覚え書きに、弟子たちが手を加えて著した書だ。ミカエラがいた工房に務めていた人は皆持っていたそうである。
それによれば、スクルトラで彫刻に適した木は神樹を除くと主に四種類で、それらを使い分ければどんな彫刻でもできる。
その上で、彫る作品によっては四種以外の木を選び取るのが最良で最高の結果をもたらす場合もあると付記されていた。その四種が古くから国内で彫刻以外にも多岐にわたって用いられ、人々の生活と密接であるからこそ代表的に選出されているのだろう。ちなみに神樹の詳細は記されていなかった。
出入り口から作業台へと数歩寄ると、木材のことがもっとよくわかる。
下絵が既に正面、背面、左右の四方向に木炭で転写されていた。
これは……?
「来たのね」
ユウに何を彫ろうとしているかを確認しようとした時、冷ややかな声が背中に刺さる。振り向くと、そこに立っていたのは果たしてダフネだった。ユウが引き寄せられるように彼女の側へと行き、訊ねる。
「どこ行っていたの?」
「散歩。それよりほら、彫り始めなさい。お友達に教えてあげなさいな」
「ええっ? わたしに師匠になれってこと? ないない! リラはとっても上手だよ!」
「ちがうわ。あなたの彫り方を示してあげなさいってことよ。せっかく来てくれたんだからね」
ね、の音と共に私へとその視線が向けられる。口許に浮かんだ笑みが妖しい。
どうもダフネは私を好意的に迎え入れていないふうだ。それが私の思い込みでないなら、部屋へと誘ってユウの彫る様を見せるのは決して友好の証ではない。
私は彼女に会釈をしてから、ユウに声をかける。
「彫ろうとしているのは、蛇?」
「うん。里に入ってすぐに道端で会った時からね、彫りたいって思っていたんだ」
「ええと、この絵だと……蛇は何に巻きついているの?」
「まだちゃんと決めてないの。たぶん山かな。ほら、ここからだと窓の外、ずーっと遠くに見えるよね」
私が三日かけて超えてきた山脈だ。と言っても、頂を登り詰めはしていない。
同行してもらっていた商人からは山賊が出るかもしれないと脅され、夜は怖くてまともに眠れなかった。
いや、それよりも……山?
山に蛇が巻きつくだなんて神話の世界だ。
「あれ、もしかしてリラって蛇が苦手?」
「得意ではないかな」
「わたしも食べるほうはあんまり」
「そ、そうなんだ」
スクルトラの北方地域の一部では蛇食文化があると本で読んだ覚えがあるけれど、ユウはそこの生まれ育ちなのだろうか。
私の村は、毒蛇の見分け方や対処法を知る人のほうが少数派である程度に蛇とは縁遠い。とはいえ、無縁に等しい都市部暮らしの人よりは耐性があるとは思う。
「さあて、それじゃ彫るね。あ、でも椅子はこれしかないし……。じゃあ、そこ。わたしのベッドを椅子代わりにしていいよ」
「大丈夫、立って見ているから」
「隣に座って」
ダフネが彼女側のベッドに腰掛け、手招く。欠けていない左手で。
たしかにその位置からでも作業するユウの手元は見える。同じ断り文句を繰り返そうとする私に「さぁ、早く」とダフネが催促してきた。諍いたくはなかったので従う。
ユウが作業台に並べた道具は少ない。そして模型もないみたいだ。
果実を啄む小鳥たちの制作に私が一ヶ月要した理由の一つは、彫り進める前に粘土で納得のいく模型を作るのに手間取ったからだ。それまで立体を彫る際に必ず模型をこねていたのではなく、特別な課題であったから万全を期して挑んだのだ。
それは功を奏した。そのはずだ。
「よく見て、よく聞いて」
ダフネが私にそう囁く。
角ばった木材の状態から、まずは叩き鑿と木槌とでおおまかに蛇をその木に象る、それが巧みであればあるほどに聞こえる音も特別だろう。
だからダフネが聴覚に関しても研ぎ澄ますように言ったのは何らおかしくない。
――――しかし私のこの解釈はまるで見当違いだった。
はじめの数分間、聞こえたのは木槌で叩かれた鑿が木を削る音だった。
袖を捲り上げて露わになったユウの腕はなかなかに筋肉質で、道具にそして木へと伝わっていく力の強さがうかがえた。彼女の手つきは豪快で、迷いがない。それが音にも現れている。
慎重に木目を読み、最適な角度をよくよく調べてから鑿を打ち込む、そんな私のやり方とは異なる。あたかも木材が彼女の鳴らす太鼓に合わせて自然に変形していくみたいだ。
そんなふうにユウの技量をその目と耳で測り、私とは別のスタイルだが木彫り師としては五分五分……と思っているところに、彼女に変化があった。
彫りながら、歌い始めたのだ。
その口遊みは最初は微かなものであったからまずは気のせい、もしくは幻聴なのだと判断した。
けれど彼女の手元から口許へと視線を移してみると、そこには紛れもなく動きがあった。きれいな形をした唇、その封は切られて、そこから歌声が溢れ出している。
ありふれた少女の歌でなければ、狼の遠吠えや鳥の囀りとも違う、人智の及ばない森が呼吸するような……歌声だ。
そして手は大胆不敵な動きというよりも、少女の歌に合わせて演舞するかの如く有様だった。その舞を受けた木材がどうなるか、私はそれを間近で目にしようとベッドから身を乗り出し、そしてダフネに止められた。
言葉は不要だった。彼女はただ私の腕を引き、ベッドに座ったままでいるようにと睨みを利かせた。
こうするために彼女は私を左側に座らせたのだろう。
私は身震いした。すぐ傍で見ずとも、ユウの彫りっぷりが卓越した領域に到達しているのを肌で感じたのだ。
神樹の彫り人、咄嗟に脳裏によぎったのがそれだった。
歌詞は上手く聞き取れなかった。
手、槌、鑿の動きに集中している頭をわずかにその歌へ、単なる音の並びではなく、含まれる言葉をどうにか知ろうとしてわかったのは、それがおそらく古語だということだった。
なぜ彼女は歌い始めたのだろう?
歌っている自覚はあるの?
本当に遥か古のスクルトラ語で紡がれている歌……?
疑問が次々に生まれては解消できずにいた私はやがて、ユウが彫るのを見ることだけに集中し始めた。
五分五分なんて……まさか、とんだ大間違いだ。私は唇を噛み締めた。
この子は私の何歩先にいるんだ?
不意に室内が暗くなった。厚い雲が流れてきたのだろうか。影が落ち、そして私はひたすらにユウが彫るのを眺めていた自分を発見した。
ユウが手を止める。明かりがなければ彫り続けられないから……ではなく、彼女が道具を変える時が来たからだ。
つまり、彼女は荒削りを終えた。それを直視するのが怖かった。
「一旦止まりなさい」
ユウが仕上げ鑿の一本を道具入れから掴み取る、その直前にダフネが制止した。
「ほら、お友達に感想を聞いたらどう」
薄暗がりの中で見えたダフネの顔は笑っていた気がした。
私はさっきは自ら離れられたはずなのに、ベッドから立ち上がれなかった。そしてユウが近づいて来るのを止められない。
「ねぇ、リラ。どうだった? まだここからが本番だけど、とりあえず蛇っぽくなったでしょ。あのね、わたしね、実は……年が近い友達ってリラが初めてなんだ! だから、いいとこ見せたくて頑張っちゃった!」
口の中がひどく乾いていた。でも喉は何も飲みたくないと訴えかけている。
この子が、荒削り段階は達人の域であるのに対して、仕上げ鑿で細部を彫り上げるのが苦手という可能性はあるだろうか。そうであるのを私が望むのはあまりに愚かだ。
「歌…………」
やっとのことで私が返せたのはそんな一語だった。
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