第3話 受け入れ難き答え

 一体目の狼を彫り上げたのは、十二歳の春の終わりだった。つまりミカエラに木彫りを習い始めて一年が経とうとしていた頃だ。


 いちおうは誰が見ても狼を模していると察しがつく品となったが、全体的かつどの一部分をとってみても完成度が低く、洗練されていない。ようするに失敗作だった。夢の中でさえも足音一つ聞こえず、どこかの大地を駆ける姿を想像するのはあまりに荒唐無稽だと感じるような。


 とはいえ、その一体目の狼を私は記念に、言い換えれば一つの軌跡として大切に保管しておくかどうかで迷った。ミカエラからは好きにしろと言われ、悩んだ末に、私は燃やすことにした。

 ミカエラから聞いた女神像の話、古い女神を火に投じ、新しい女神が次の十年を護るというのが頭をよぎったからだ。


 私は燃やす前にその狼の頭を、叩き鑿で力一杯に割ってみた。その内側に神秘を、私が木の表にはついぞ浮かび上がらせられなかった何かを探し当てようとしたのだ。

 残念ながら何も見つからなかった。


 けれど、その罪なき狼もどきが、ゆらめく炎の中でじっくり時間をかけて崩れ去っていくのを、一心に見つめていると、ようやくその木の生命を感じ取った気がした。それは私に次の狼を彫らせる力となった。


 ところで両親は私が弟子入りしてから三ヶ月もすると、私の才能に関してはともかく、木彫りに対する熱意はしかと認めてくれたらしかった。

 ミカエラのもとに通うことにとやかく口を挟まず、時折、手土産を持たせもした。

 兄はというと、私がミカエラと知り合った夏の終わりに、最寄りの町へと働きに出ており、手紙では「売り物になるのを早く彫れるようになってくれよ」と書いていた。

 それを読んだ時初めて、自作を売って稼ぐという在り方に考えが至ったが、それは自分の未来とはどうにも結びつかなかった。




 二体目の狼の制作に、すぐさまとりかかれたわけではない。

 ミカエラがそれを許さなかった。彼女は立体の制作がある程度できるようになった私に、次々と課題を与え、その成果物に対しては短いながらも核心をつく講評をし、それからまた別の課題に移らせた。

 道具はすべて、彼女の工房からの借り物であったから、どこかを作業場にしてミカエラに知らせず私一人で何か彫り進めるのは無理だった。

 普段からミカエラは道具を我が子のように扱い、手入れを欠かさない。一つ一つに思い入れがあると前に話していた。それらを無断で借用する度胸は私になかった。


 そうこうしているうちに私は十三歳となり、弟子入りから丸二年を迎えようとしていた。

 そんなある日、それは今度こそ納得のいく狼を彫りたいとミカエラに直訴する決意を固めていた日であったけれど、なんと彼女のほうから狼について話を振ってきた。


 工房の出入り口付近で脈絡なく始まった立ち話で、虚をつかれた。


「なぁ、リラ。いまだにお前さんのところの狼のために、別の一匹をあてがおうとしているのかい」

「……今だったら前よりも、もっと相応しいのが彫れそうだから」

「前のあれよりも上出来な彫刻になるのは、あたしが保証してあげるよ。お前さんの上達ぶりは一番知っているつもりだからね」

「それってつまり……」

「最後まで聞きな。あたしが思うに、どうもお前さんは心の成長が追いついていない。その純真さは良くもあり、悪くもある」


 私は唇を噛んだ。

 心の成長だなんてぼやけた語句がミカエラの口から出てくるのが意外であり、じれったくもあった。彼女はきっと、直接的な答えを避けているに違いない。それを私自身で明らかにするのが道理だとみなしているのだろう。


 あの軒下の狼を番わせることが、その寂しさを打ち消すもう一匹を彫るというのがそうまで難しく、迂闊に取り組んでいけないと私には思えなかった。


「ねぇ、ミカエラ。あの狼を含めて、村にある木彫りの動物の多くは、ミカエラのおばあさんの作品だって前に話していたよね」

「ああ、そうだよ。あたしの最初の師匠さ。町に出たのは見聞を広めたかっただけじゃなく、あの人と価値観が合わなかったからだよ」


 破門を言い渡されたそうだ。それは実質上の絶縁でもあった。

 そして時を経て、ミカエラが村に帰ってきた時には他の親族諸共に土の下だった。


「けどね、あたしはその狼があの人の彫ったものだから、よく考えろと言っているんじゃないよ。誰が彫ったかなんてどうでもいい」


 吐き捨てるように言うミカエラに、私は姿勢を改めて正すと、続きを待った。


「教えておくれ。お前さんは、どんな狼を彫る気なんだい」

「どんなって……あの狼の傍らに並べて違和感がない、ううん、そこに調和が生まれるような、誰からも番であると認められるそんな狼だよ」


 具体性に欠くのは承知している。

 でも、言葉で完璧に伝えられるのなら、とっくに彫ってみせている。真に意味をなす彫刻は彫刻でしか表せられないはずだ。このことを私よりも熟知しているであろうミカエラは、首を横に小さく振った。


「できっこないよ」

「何年かかることになってもいい、諦めない。諦めたくない」


 私は語気を強めた。強がりだった。

 ミカエラから不可能を告げられ、あっさりと傷ついた。自分の弱さを隠しきれなかった。それが小馬鹿にするような口振りでもなければ、戒める調子でもなく、どことなく同情的な色を帯びていたのが、さらに心をかき乱したのだ。


「……わかった、明日からまた狼を彫ってみな。だけどいいかい、リラ。彫る前に必ず、今一度、例の狼をよく知ることだよ」


 私は黙って肯いた。

 弟子入りしてから、軒下の狼に毎日触れてはそのすべてを頭に、肌に、そして指先に記憶しようとしているつもりだとわざわざ言わなかった。




 六体目の狼が物静かに炎の餌食になっていくのを私は涙を堪えて見つめていた。

 あと数日で十五歳になろうとしていた。


 この一年余りでミカエラの足腰、それに目と耳が急速に不自由になりつつあった。ついにはその数々の作品を生み出してきた手にも抗いようのない老いが侵食している。

 そんな彼女のそばで私はまだ満足のいく狼を彫れずにいるのだった。


 何年かかってもいいと啖呵を切ったのを恥じ入るほどに焦燥感を募らせていた。

 これは私とあの狼との宿命なのだと建前があっても、事を成し遂げる前にミカエラに死なれてしまっては、いったい誰が私の貫き通した意志と意地を褒めてくれるのだろう。

 木と向き合い、彫り刻んでいるのは賛辞を得るためではない。そんなのいくらでも言えるが、かけがえのない師を失う未来は想像するだけでひどくつらい。


 六体目の狼を灰塵にした翌日。

 作業台について三十分もしないうちに、手を止めて工房から出たがったミカエラに私は肩を貸し、居間の揺り椅子に座らせた。


「いいかげん、お前さんならわかっているはずだよ。どうして狼を彫れないか」


 瞼を閉じた彼女が消え入りそうな声でそう言った。そしてすぐ近くに立つ私の腕を弱々しく掴む。私はそれを優しく振りほどくと、代わりに固く握手をした。

 思えば、そんなふうにミカエラの、職人の利き手を肌で感じたのは初めてだった。もっと早くこうしていれば、と悔やんだ。


「さぁ、答え合わせをしておくれよ」


 そう促されて、私は単純明快な事実を口にする。当然過ぎて、答えにならないと信じてきたことだ。


「……いくら頑張って彫ろうと、新しく生まれる狼は風も雨も知らないから?」


 あの軒下の狼は風も雨も知っている。

 その身に文字通り刻まれている。それも一日分や一年分ではなく百年近くの分量だ。時の流れは急くこともなければ緩むこともなく、超然としていながらも森羅万象に影響を与える。その隔たりは決して超えられない。


 ミカエラは私の震えた声に、微かに頷いてみせた。


 ――――何十年も前に造られた彫刻の隣に、新しく彫った作品を添えても釣り合うことは絶対にないから。


 そんな答えだったら、木彫りに出会う前でも、いや、たとえ一生出会わずとも導き出せたはずだ。

 

 木目を読み、刃を研ぎ澄まし、本来そこにあるはずのない姿形を造る、その一連の静と動を肌で学び、究めようとする者がたったそれだけで諦めるなんてあり得ない。あってはならない。


「だって、神様だって彫ることができるんでしょ……?」


 だったら、初めから歳月をその身に宿す彫刻の一つぐらい造れるのではないか。


 嵐が削った毛並みを再現して、大雨が洗い流してしまった香りをつけ、あの狼と同じ時間を生きるもう一匹を造りだせるのではないか。木彫り職人ならば。木を彫り刻むことを生業とする者なら!


 ミカエラが咳と共に目を開き、私を見やって笑いかけてくる。


「リラ、お前さんは諦めが悪いね。そんなお前さんに頼みがある」

「遺言だったら聞かない」

「ふん、馬鹿言うんじゃないよ。いいかい、これから話すものをお前さんなりに彫ってみるんだ。全身全霊を込めてね。うまくいけばそれが……」


 終わりが聞き取れなくて、私は耳を近づける。そしてミカエラは繰り返した。


「お前さんを神樹の彫り人へ導く」

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