第2話 弟子入り
弟子入りを許されたのは、工房に通い始めて一ヶ月してからだった。
それまでの期間、一日も空けることなく私が毎日通ったのは、ミカエラに師事してどうしても木彫りを教わりたいのに彼女から拒まれ続けたから……ではない。
たしかに彼女が木に刃を入れ、彫り刻むことで、まるで生命を産み出すその技巧は私を魅了した。
かつて村に立ち寄ったらしい著名な画家が村役場に贈った水彩画であったり、教会で司祭が白と黒の鍵盤で紡ぐ旋律であったりを見聞きした際に、あまり心を動かされることのなかった私の目を釘付けにし、その彫る音にすら重要な価値があると錯覚させた。
その衝撃はあの軒下の狼、その番の件を半ば忘れてしまうほどだった。それゆえにまずは、彼女の技を自分のものにしたいという気持ちではなく、一瞬足りとも見逃したくないという欲求が湧き上がったのだ。
最初の日、疲労を理由に一時間足らずで作業を中断したミカエラに、私はついつい続きをせがんでしまい、睨まれてきつく怒られたのをよく覚えている。
いよいよ鼓動を打ち始めようとしている木彫りの鳥を指差し、彼女は言ったのだ。
「お前さんは、あたしとこいつの両方を殺す気かい」
私はぶんぶんと首を横に振り、謝るほかなかった。
どうやらミカエラは年をとって体力が衰えて以来、朝昼晩を合わせてもほんの二、三時間しか彫っていないらしかった。
職人としての仕事は、村の行事や村人たちの記念日に合わせてぽつぽつとあるだけで、言ってしまえば彼女は残された時間をひとり静かに過ごしていたのだった。
また明日来るからその時に続きを見せてほしい。
初日、去り際に私は彼女にそんなふうに頼んだ。さらには、遠回しに今日はもう彫り進めないでとも言った。我ながら図々しい要求であったが、結果的にミカエラはそれを守ってくれた。
私にとっては幸いなことに、彼女が彫っている鳥はどこかの誰かに頼まれた品ではないそうで、いわゆる納入期限がなかったのだ。
その木彫りの鳥が見事な翼や嘴を与えられ、羽ばたき囀るようになるまでの一部始終を目に焼き付けたかった。
ミカエラに直接そんなふうに話してみたが「大袈裟だね、おとぎ話じゃないんだよ」と窘められた。でも、魔法のようであっても魔法でないと理解しているからこそ、その職人技に迫力を感じたのだった。
そしてその感動はしだいに、私自身の手で成し遂げたいという意気へと回帰、むしろ昇華を果たした。
「リラ。狼を彫りたい、彫れるって気持ちはまだあるのかい」
一ヶ月が経ったその日、一羽の野鳥がもう少しでできあがるという段階まできたとき、ミカエラはそう訊ねた。
作業台の前から立ち上がり、道具を片付けた後、背筋を伸ばして私を真正面から見据えて言ったのだ。その不意打ちに私は声を詰まらせ、しかし彼女は決して逃すまいと言わんばかりに視線を突き刺してくる。
私はどうにか深く息を吸ってゆっくりと吐くと、うつむき気味ではあったが、心の内をありのまま伝えた。それしかできなかった。
「わからない……。でも……修行すれば私にもできるのなら、木に新しい命を吹き込みたい。それはずっと見ているだけじゃできるようにならないよね」
「当たり前さ。技は目で盗めとも言うが、お前さんは鑿一本持った経験がないだろう」
容赦なくそう返され、私はとうとう床とにらめっこをしかけたが、心を奮い立たせて顔を上げると「ミカエラ」と目の前に立つ職人の名を口にした。
「どうか私に木の彫り方を、その技を教えて、ください」
やっとのことで、真っ向から見返してそう頼んだ私に、ふっとミカエラは笑った。それは嘲りではなかった。
「そうだねぇ、ひと月の間あれだけ馬鹿みたいに、飽きもせず熱心に見ていたんだ。何もさせずに帰らせるのは惜しいと考えていたんだよ、あたしは」
「それじゃあ……?」
「手取り足取りなんぞ御免だけど、基本を教えてやってもいい。それが身につく頃には、お前さんの気持ちも変わっているかもしれんがね」
こうして私はミカエラの弟子となった。
両親に何をどう説明するかなんてこの時は少しも考えていなかった。
ミカエラは道具置き場から数本の鑿を選び取ると、まずはしてはいけない持ち方と動かし方を教えた。怪我を避けるためだ。
そして工房内の木箱に無造作に投げ込まれていた板材を取り出したかと思えば、そこに線を何本か彫ってみせた。それから棚から数枚の図案を引っ張り出して私に渡した。
そんなふうに私に最初に課せられたのは、何種類かの仕上げ鑿を使って、平面に規則的な模様をなるべく精確に彫っていくというものだった。刃を動かす上での基礎的な練習と言える。槌と叩き鑿を操り、立体をどうこうするなんてのは遠い先の話だった。
私が弟子入りする前のミカエラは作業中、息を止めているのではないかと勘違いするぐらいに終始無言で、作業後も短いやり取りだけで私を追い払うように帰路につかせていた。
けれど、弟子入りしてから数日のうちに、彼女が身の上話を問わず語りするようになり、私の足を止めた。
もとより掠れている声のせいで聞き取りにくい部分も多く、子供の私にとって意味が捉え難い語彙も平然と使った。
私が理解するかしないかは瑣末で、聞き手がいる状況自体にある種の安心感を抱き、あれこれ思い出しては言葉にしている様子だった。
ミカエラはこの村にずっと住んでいるのではなかった。若い頃に一度離れ、大きな町のそれなりに名のある木彫り工房に三十年近くもいたそうだった。
弟子入りして一週間ほどしたある日のこと。その日の作業が終わって、私たちは工房から居間らしき部屋に移り、ミカエラは揺り椅子に身を預けて話した。私はというと、手頃な椅子がないので支柱を背もたれに床に座って聞くのが常だった。
「リラ、お前さんはこの村を出たことがないんだったね」
「うん」
「なら、石彫り職人は知らないだろう。この村にはずいぶんの間いないからね」
「石を彫る人ってことでしょ?」
「もちろんそうさ。ただね、スクルトラじゃ、石を彫るのは男の仕事で木を彫るのは女の仕事だって決められているんだよ」
「へぇ、そうなんだ」
ミカエラは話しながら、利き手である右手の指先を丹念に揉んでいた。私もそれに倣った。
「建国以来、千年余りその棲み分けが続いているんだよ。おかしなもんさ。石に魅入られる女もいれば、木に恋する男だっているだろうにねぇ」
「石を彫りたくなることがあるの?」
「実は昔、何度か彫ってみたんだよ。あたしのいた工房はけっこうゼンエイテキな気質があったもんだから、隠れて試しにやってみたのさ。まぁ、道具も違えば彫り心地ってのも全然違くてうまくいかなかったけどね」
そしてこの村に戻ってきてからは試す気も起こらないのだと言う。
ちなみに、村の教会の内外には数体の宗教的な石像があるのは私も知っていたが、どれも薄汚れていて、さして生気も感じられず惹かれなかった。
「やっぱり女神像の存在が大きいのさ。お前さんも聞いたことはあるだろう?」
「えっと、たしか王様たちが住むお城にあるっていう……」
「そうだ。王宮の女神の間にある、神樹の女神像のことだよ」
スクルトラ王国の安寧と繁栄の象徴であり、如何なる厄災からも民と土地を守護すると信じられている木像だ。
王族の管理下にある神聖な森に自生している神樹を素材に造られていると教会で習った。ただ、その女神というのは国教の中に登場する神とはまた別らしく、詳しくは教えてもらっていない。
「女神像が十年に一度、取り替えられるのは知らないのかい」
「取り替えられる?」
「そうさ。古い像は火にくべられ、新しい像が次の十年を護る……これを繰り返してきたんだよ。もっとも、年数は時代で多少違ったそうだがね」
「誰が彫るの?女王様やお姫様?」
「そうだったときもあるとかないとか。はっきりしているのは、誰もが神樹を彫っていいわけじゃないってことだよ。資格がある者だけなのさ」
――――純潔で清廉たる乙女。
神樹の彫り人として許される者、その資格についてミカエラはそう教えてくれた。
「よくわからない」
素直な感想を口にすると、ミカエラは苦笑した。
「ああ、みんなそうだよ。何をもって純潔と認め、清廉であるかなんて、人や時代によって解釈が違うのさ。それでも国が決めた掟に違いないらしいけどね」
「とりあえず大切な像だってのはわかった」
スクルトラという国の起源や原点の一端を担う木彫りの像。それを造るのが一部の女性しか許されていないことが、石彫りと木彫りが性別で棲み分けられる結果に繋がったということだろう。
「神樹の女神像はね、ある意味でスクルトラの歴史そのものなのさ」
枯れた声で厳かにそう口にしたミカエラの目つきはいつになく険しくも、そこには興奮があった。
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