神樹の彫り人

よなが

第1部 夢想狼編

第1話 軒下の狼

 遠吠えを耳にした。

 悲しく、痛ましい声だ。


 幼い頃の私にとって、その木彫りの獣は魔除けではなく魔そのものだった。玄関口を出てすぐのところ、軒下にそれは陣取っている。狼の全身を象った彫刻。本物と比べると幾分か小さく、大人であれば両手で抱えて持ち上げられるほどの代物だ。

 父曰く、私の曾祖父にあたる人物が家を建てる際に、村の木彫り職人に頼んで彫ってもらった品らしい。


 その顔立ちと骨格は実によく造られており、村にいる犬と見間違えることはない。頭から尾にかけての毛並みも細やかに彫られていた。ただ、屋根があっても横から長年にわたり風雨を受け続けてきたせいで、全体的に角が落ちて丸みを帯びている。撫でられることが多かったのか、その鼻先は特につるりとしているのだった。

 口は閉じられており、牙を剥くのは夢の中でだけ。それにその虚ろな瞳は前方を見やっており、天を仰いでなどいない。

 だから、あの遠吠えもまた夢想でしかないと頭ではわかっていたはずだ。


 それでもあの頃の私は、その狼が夜毎にそろりと動き出しては村を彷徨さまよい、夜空に向かって吠える様を鮮やかに思い描いた。そうやって一人で勝手に怯えているのを、年の離れた兄から「リラは怖がりだな」とよく笑われたものだった。


 私の暮らす村は、スクルトラ王国の南端に位置しており、その家々には木彫りの動物が必ず一体は置かれている。

 狼に限らず鳥や鹿、それに猪や熊など。それらは西方の森で狩人が出くわすことのある動物たちだった。

 森は深部への立ち入りが固く禁じられており、私を含めてほとんどの村人たちにとって畏怖する場所だ。


 私が初めて自分からその軒下の狼に触れたのは、十一歳の夏だった。

 雲ひとつない澄み切った青空の下、教会から家へと帰ってきた私は玄関扉を開ける手を止め、わけもなくその彫刻をぼんやりと眺めた。額に汗を滲ませている私と違って、狼は涼しげにいつもどおりの姿でそこにいた。

 

 しばらく眺めた後、思い切って近づくと、その頭に手をそっと伸ばした。返ってきたその硬く静かな手触りはそれが生き物でないのをすぐに教えてくれた。微動だにせず、もちろん吠えもしないそれは、されるがままだ。私はその揺るぎない事実にいくらか驚きながらも、全身にくまなく触れてみた。それから試しにその体表を嗅ぎもした。獣の匂いも当然なければ、生きた木の香りもそこからしなかった。

 

 すっかり乾ききった木彫りの狼は、時の流れにひたすら身を委ねている。

 私は寂寥感を見出した。私自身のではない。木彫りの狼がその身に宿し、これまでの歳月で蓄えてきたものだった。

 それは、聞こえるはずのない遠吠えに感じた悲しみよりも、ずっと確かな感覚だった。

 

 どうにかしたいと私は思った。いや、どうにかできると思ってしまったのだ、おごりとは知らずに。


「あの狼につがいの相手っていないの?」


 その日の夕食の席で私は家族にそう訊ねた。首を傾げる母と兄に、家の前にいるあの狼のことだと伝えると、ぽかんとされた。

 それに対して父は「いない」とすんなり答えた。興味を大してそそられていないふうだった。もしもそこで話が終わっていれば、何も始まりはしなかっただろう。


 けれど父は続けた。

 おそらく、日頃は物静か過ぎる娘が突然自分から話し始めたのを、一蹴して話を終えてしまうのは気が咎めたのだろう。


「リラは番となるもう一体がほしいのか」

「いたら、寂しくなくなるかなって」

「言われてみればたしかに、あれはどこか寂しげだな」


 父の言葉に母も兄もどちらかと言えば同意する面持ちをしていた。そうして父はさらにこう言った。


「ひょっとして自分で彫ってみたいのか?」


 父がその時の私の表情をどう読み、どんな気持ちで訊いたかはわからない。不器用な彼なりの冗談だった可能性もある。

 ただし、たとえば私の瞳の奥にでも彫刻への意欲を見たわけではないはずだ。

 なぜなら、父に問われるまで、その木彫りの獣を自分の手で造り出すなんて発想は私の頭に一切なかったのだから。


 教会では教義と絡めてスクルトラの歴史や地理、文字の読み書き、生活していく上で必要なことなどを教えてもらってはいた。でもそこに彫刻というのはなかった。

 知識として、村にいる物言わぬ動物たちが皆、誰かしらの手で木を彫り刻んで造られたのはわかっていた。だが、それだけだ。どんなふうにその人物が道具を動かしたのか、そんなのまったく想像しなかった。


 結局、私はその場で肯くことも、ちがうとも口にできなかった。曖昧な返事をよこすと、兄が何か別の話をし始めて、それで狼の件は途切れた。


 しかしその夜、私は眠りに落ちる前には心を決めていた。

 すなわち、自分であの狼と番になる片割れを彫ろうと。それは自分のなすべきことだと信じたのだった。わずかに時間を置いて、父から言われたことをあたかも啓示のように受け取ったわけだ。


 そして翌朝にさっそく、村で唯一の木彫り職人のもとへと出向いた。名をミカエラと言い、村のはずれの森の近くに一人で住んでいるというのを聞いたことがあったのだ。

 小さな村だ、子供だってどこに誰が住んでいるかはおおよそ把握している。


 ミカエラは、年老いて腰の曲がっている痩身の女性だった。

 彼女はいきなり訪ねてきた私を歓迎しなかった。戸口の前に立つ小柄な私の栗色頭の天辺から足のつま先をその双眸でぎょろりと見てから「誰だい」としわがれた声で言った。私が名乗ると「何の用だい」といっそう不機嫌そうに返してきた。


 狼を彫りたいから彫り方を教えてほしい。私がたどたどしくそう話すと、ミカエラは鼻で笑った。


「不恰好な子犬ができあがる頃には、お前さんの指は全部残らず刃に噛みつかれ、何本かは喰われちまっているかもしれないよ。それでもいいのかい」

「よくない」

「なんで狼なんか彫りたがる? お前さん、本物の狼に会ったことは?」

「……ない」

「なのに、彫ろうってのかい」

「ほしいのは今いる狼の、番の相手なの」


 私はミカエラに、あの軒下の狼について知っていること、そして感じたことを一からすべて話し始めた。

 拙い話ぶりだったはずだが、彼女は今度は笑わなかった。眉根を寄せて、唇をへの字にした厄介そうに言う。


「そいつは難しいよ。かなりね。少なくともあたしは彫れる自信がないね」

「どうして?」

「ちっとは自分で考えてみな」


 口を噤んで、言われたとおりに考えを巡らしたが、答えが出てくる気配がまるでなかった。この職人が本物の狼を知っているか否かの問題でないのはなんとなく察した。


 二人の間で深まる沈黙を破ったのはミカエラだった。


「あたしが彫るところを見てみるかい。そうすりゃ、いろいろと諦めがつくだろうよ」


 半ば呆れた調子で彼女はそう言い、溜息をついた。

 

 投げやりに手招きした彼女の後ろを、おずおずとついて行き、小さな工房へと足を踏み入れる。そこは天窓から差し込む陽光によって明るく照らし出され、嗅いだことのない独特な匂いで満ちていた。


「置いてあるものに、むやみに触るんじゃないよ。いいね」

「わかった。……これは鳥?」


 工房の中央、作業台の上に置かれていたのは、まだ鳥と思しき形をしているだけの、細部や表情というのをまるっきり持たない材木だった。

 ようは荒削りを終えた直後のもので、手では覆い隠せない大きさだったが何の鳥かまでは定かでなかった。

 これからどう彫っていくかを示す線もその表面に書き込まれていない。


 ミカエラは道具置き場に並んだ数十本ののみから二本だけ取り出し、作業台の前にある質素な椅子にのそっと腰を下ろした。


「まぁ、見てな。これぐらいできなきゃ、お前さんの言う狼なんて到底彫れないよ」


 背後に突っ立ている私にそう声をかけると、ミカエラは木に刃を入れ始めた。


 しだいに私はその手の動きをもっとよく見ようと真横まで接近し、身を屈め、息をするのも忘れて、木に命が宿っていく様を目の当たりにした――――これが私と木彫りとの本当の意味での出会いだった。

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