第4話 巣立ち
地に落ちた果実を啄む二羽の小鳥。
ミカエラからこれまでより特別に与えられた課題で、私が一ヶ月丸ごとかけて造り上げたのがそれだった。
習得してきた彫刻技法が存分に発揮されている、生きた作品を。
彼女はそう頼んだ。早い話がこの四年余りの集大成としての逸品を私に求めた。追い求めてきた狼こそがそれに合致するはずだったが、今や打ち砕かれ、戒められた。諦めきれないと口では言えても、取り憑いたおぞましい諦念を跡形もなく拭えはしない。
そんな心境にあって、題材として鳥を選んだのは、ミカエラの技に私が初めて触れたのが木彫りの野鳥であったからだ。
原点回帰。あの時は雲の上、憧憬でしかなかった手の動き、刃の道筋。そうした技を、もしかしたらほんの一部かもしれないが、ものにした自負がある。
ちなみに、出来上がったあの野鳥を彼女は私にくれ、今は私の部屋に置かれていた。
今までにも数度、鳥を彫った経験はあった。狼はもちろん、他の森の動物たちと比較しても、鳥というのは実際に目にすることが容易い。現に、森の深くへと入らずともミカエラの家から少し歩いたところで餌を用意して待っていれば、彼らのほうからやってきてくれた。
鳥を彫ると決めて最初の八日間は、どの鳥のどんな姿を彫るかの候補を絞り込むのに費やした。どれが悪いということがなく、描いてみて、想像してみて、どれも皆よく思えたから、一つに踏み切れなかった。
そうだったはずなのに、九日目に二羽の小鳥と出会って、これを待っていたのだと悟った。きょうだいのような彼らが果実をつつき、突き破る様を見守った。彼らが去った後に、その残滓を拾い上げて熟れ具合を確かめもした。そうやって自分の中に落とし込んでいったのだ。
息を潜めて対象を観察し、視点を変えつつ何枚かのスケッチを手早く済ませ、それを立体としてなるべく詳細にイメージし直す。それがうまくいかなければ、スケッチの枚数を増やして質を変える、例えばもっと接近してみたりあるいは敢えて離れたり、上から下から、あらゆる角度を試して、頭の中で組み立てる。
そのイメージどおりに木を彫り刻める境地は遥かに遠く、確固たる形を成さない、抜け落ちる部分はどうにか補完しなければならない。しかし、それが甚だ歪であったり下手な誤魔化しであったりしたなら、鑑賞者に看破され、そもそも自分自身が出来上がった後に悔いと恐れを残してしまう。
最終的には向き合っている木そのものが、そして握りしめている刃がどう彫るかを雄弁に教えてくれるのだと言う。あのミカエラが大真面目にそう言ったのだから、信じるしかあるまい。
件の鳥たちを彫ると決め、こうしたことを、つまりはミカエラに教わってきた精神と技術の両方を結集させて、一つずつ作業を進めていったのだ。
自然の事物を題材にするのが好きだ。ふとしたときにそう自覚する。
それは例の狼のことを抜きにしても、胸を張って言えるし、ずっと変わらない気がしている。彫刻の意義や価値というのが、人や動物の瞬間あるいは永遠を切り取る試みに決して限定されないと理解していてもなお、私はそこに命の輝きを欲する。
「わるかないね。これなら勝負になる」
完成した彫刻を見せた時、ミカエラはそう呟いた。私たちは彼女の家で、古ぼけた円卓を挟んで座っている。
元々痩せていた彼女はこの一ヶ月でさらに痩せこけてしまった。骨と皮だけになるのが時間の問題といった風貌だ。時間について言うなら、おそらく十年後はやってこないのだと私でもわかるほどだった。
「何との勝ち負け?」
「しかめっ面するんじゃないよ。褒めたつもりさ。こちとら、どんなもんを彫ってくるかと、この一ヶ月生きた心地がしなかったんだからね」
冗談でもそういう言い方をしてほしくない。私は無言で抗議したが、ミカエラはおかまいなしに話を続ける。
「リラ、よくお聞きよ――――神樹の彫り人を目指す気はないかい」
「女神像を彫るってこと……?」
「ああ、そうさ。そのためには行かなければならない場所がある」
神彫院。
そう呼ばれる施設が神樹の森の中にあるらしい。仰々しい名だ。神樹の女神像を彫る乙女すなわち神樹の彫り人を、養成して選出するための施設だそうだ。
「お前さんにもっと木彫りの奥深い部分を、このスクルトラが千年かけて蓄積してきた真髄ってのを学び得たい気があるんなら……こいつを持って行き、試験に臨むんだ」
「ちょっと待って。いきなりすぎて何がなんだか」
あの日、ミカエラは神樹の彫り人について口にしたくせに多くを説明しなかった。
急に今、それを目指すのを提案されても戸惑うばかりだ。そんな私をよそにミカエラは再び、彫刻に視線を落とす。
「瑞々しく傷ひとつない実を彫ることもできただろうに、わざわざよく熟れている実をこうも生々しく造りあげるだなんてね。果実と小鳥ではなく、果実を啄む小鳥というのがよく表されているよ」
「一体感」
「そう、それさ」
複数のモチーフを入れ込んで一つの景色を成そうとするとき、それを意識する必要がある。バラバラだと感じさせてしまえば、それで終わりだ。舞台袖からのこのこ出てきた役者たちが指定の位置にわざとらしく立っているふうではいけない。
「それに何と言っても羽だよ。羽の表現法にはいくつかあるが……挑戦したね。一番面倒で、大失敗しやすいやつを選んでいる。こうも細かく刻みを入れて、しかも柔らかさを出すのは今のあたしじゃ無理さ」
「でもミカエラに教えてもらった方法だよ」
「知ってる。そこまでボケちゃいないさ」
「ねぇ……その神彫院ってところに行けば、どんなものでも彫れるようになるの?」
半信半疑、いや疑念に傾いている。
「この国の守り神を彫る人間を選出するとこなんだ、あたし以上の木彫り師どもがいるだろうよ。お前さんの心にまだ引っかかっている狼だって、そこで学べば新たな答えが得られるかもしれないね」
「本気でそう思っている?」
「じゃなきゃ、こんな課題は出さなかったよ。リラ、わかるだろう。お前さんの師匠は技を授けるには老いすぎたんだ。もう無責任に課題を出せもしない」
暗に今回の課題が最後であったのをミカエラは宣言した。
「……あたしは悪知恵が回るからね、お前さんの両親には半年ほど前に、こんな日が来るのをそれとなく伝えていたんだよ。そのときは充分な賛同こそ得られなかったがね……お前さんが造ったこいつを見せりゃ、旅立ちに首を縦に振るだろうよ」
「私は行くなんて、行きたいだなんて言っていない!」
ぐっと拳を握った。そうしないとそのまま流されてしまう予感があった。どこまでも。私の反応にミカエラは「へぇ?」と片眉をくいっと上げる。
「この辺鄙な村をこよなく愛し、家族と共にいるのが何より大切で、広い世界に出るのを怖がっている、いたいけな少女。それがお前さんかい? はっ、嘘をつくんじゃないよ」
驚き、狼狽えた。ミカエラがかつての、私が出会った時の彼女のようにまくし立ててきたから。
刹那、気づいた。じわっと目頭が熱くなる。彼女の真意は非難ではなく激励であり、私のことを私以上に理解してくれているのだ……。
「今日この日までただの一度も不服を口にせず課題に打ち込んできたのは、気弱さだったり従順さだったりを証明しているんじゃない。そうだろ?」
木を彫り刻むこと。
そこに他にはない、自分の明日を見出したからだ。たかだか十数年しか生きていないのに、一生を捧げる覚悟はまだない。ないというのに、鑿を振るう手は止められない。止めたくない。
「……一つ約束して」
「なんだい。言うだけ言ってみな」
「もしそこへ行くにしても、私は三十年も離れるつもりはない。つらい旅路でも、必ず帰ってくる。ここは私の帰る場所だから」
「好きにしな」
「ちがう、そうじゃない。どうか私が一人前になるまでは生きていてほしいの」
ミカエラは私の約束、というより願いを笑い飛ばそうとした。
少なくともまずはそうしようと精一杯努めたのがその顔の動きでわかった。皺の一本一本が死から遠ざかりたいとがむしゃらだった。瞳の奥にはまだ職人としての誇りが燃えていた。
けれど、それらは急速に弱まり、やがて非情な運命を受け入れる素ぶりすらある。
「弟子入りしてすぐのお前さんが、そんなことを頼んできたら、頬をひっぱたいてやったんだけどね…………」
ミカエラが息を漏らす。哀しげに、でも一縷の喜びもまたそこにあるような。
五日後、私は村を後にした。実りの秋の真っ只中で、私は冬が急いで来ないのを、できる限り遅れてやって来るのを祈った。
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