儀式
聖堂の中には誰もいない。私だけだ。
いや、正確には老魔術師がいる。祭壇に安置され、蓋の閉じられた
魔術師は死なない。不死身だ。だが、老いる。老いて、最終的には深い眠りにつく。そのまま何もしなければ、彼は眠ったまま起きることはない。彼を起こすためには
儀式には、サマイノと呼ばれる役割があり、サマイノが儀式を主導する。サマイノは王族でかつ成人前の少女のみ務めることができる。そして今回のサマイノが他でもなく私だった。
私は棺の前に跪き、祈りを唱えた。
古代の言葉で紡がれた祈りの
長い祈りの詩の最後の節を唱え終えた。目を開けると、すでにステンドグラスは光を失っていた。私は大きく息を吐くと、再び目をぎゅっと瞑り、再び最初から祈りを唱え始めた。
始めの章を唱え終わらないうちに背後で扉が開かれる気配があった。
(いよいよだ……)
私は唇をぎゅっと噛んだ。足音は私の背後で止まった。
「ヴォレト、立ちなさい」
そっと肩に手が添えられる。振り返らずとも、私の傍らに立つのが誰か分かった。――王だ。私の父、モナルカントだ。
私は何も言わず静かに立ち上がった。顔を上げると、王はすでに私に背を向け、出口に向かって歩いていた。私は王の背中をそっと追いかけた。
聖堂の扉をくぐるとき、セルヴピエダと目があった。彼女の目は泣き腫らしたように真っ赤だった。私は彼女に微笑み、頷いた。セルヴピエダはの目から涙が一筋、こぼれ落ちた。
外に出ると百人あまりの兵士たちが待ち構えていた。王はそれらを率い、聖堂の庭を抜け、そして城塞都市の街道を進んだ。街はひっそりとしていた。住民は皆すでに儀式が行われる場に移動したに違いない。
間もなく巨大な城門が眼前に迫った。門番が城門がゆっくりと開いた。私たちは一様に押し黙って門をくぐり抜けた。
私はちらりと背後を見た。小高い丘の上にそびえ立つ城が沈む太陽の光を受け、黄金色に光っていた。私はその美しい姿を目に焼き付けた。
王国の住民達が押し合い圧し合いして集まっている。ざわざわと賑やかだった。
彼らは王の到着に気がつくと、水を打ったようにしんと静まり返った。
誰に命じられる訳でもなく、自然と脇に避け、王の一行が湖のすぐそばにたどり着けるように道を作った。
王は堂々と威厳に満ちた足取りで、その道を進んだ。私は顔を伏せ、それに従った。兵士たちはまるで私たちと王国民の間に壁を作るように道の両端に整列した。
湖岸にたどり着いた。
顔を上げると目の前には門があった。扉は開かれ、その向こうに橋が見えた。橋の幅は狭く、大人が一人、かろうじて通れるほどだった。
橋の先は見えない。視界は霧に阻まれていた。この湖は常に霧で覆われていた。
開かれた門の前で私と王は立ち止まり、そして向かいあった。私はその場に跪いた。
太陽が沈んだ。
松明が炊かれ、その光が私の頬を優しく撫でた。私はその温もりを感じながら、幼い日々を思い返した。
不意にその明かりを遮るものがあった。横を見ると六人の王の従者が老魔術師の棺を担ぎ、立っていた。
王は口を開いた。
「サマイノ」
「はい」
「行って、神の導くままに汝の務めを果たせ」
「はい」
私は静かに立ち上がった。顔を上げ王の目をまっすぐ見つめる。王の瞳がわずかに揺れた。私は強張る頬を無理やり動かし、にこりと微笑んだ。
「行って参ります」
私の声は震えていた。
王は小さく頷くと、傍らに立つ従者からお面を受け取り、それを私の顔にそっとあてがった。そして誰かが私の背後に立ち、頭の後ろで紐を結んだ。その手早くも丁寧な手付きからセルヴピエダだと分かった。
お面が固定される。口の穴しかないので、前が見えない。私は王に手を引かれるまま、門の向こうに移動した。
王は私の手を闌干にそっと誘導した。そして私の手の上に自分の手を重ねた。王の温もりが緊張で冷え固まっていた私の手を少しだけ溶かした。
どれくらいそうしていただろうか。
ついに王は私の手から自分の手を離した。
「行って、汝の務めを果たせ」
王は再び厳かにそう言うと、優しく私の背中を押した。
私はゆっくりと一歩を踏み出した。
すぐ後ろで足音が聞こえる。老魔術師の棺を運ぶ
しばらく進んだところで橋の門が閉じられる音が聞こえた。
✳
私の足取りは重かった。何も見えない。手と足の感覚で進んで行かなければならない。一方で進めば進むほど、空気は重く冷たくなり、身体の感覚は麻痺してきた。
私は恐怖に押しつぶされそうだった。次の瞬間に何が起こるか分からない。
今まさに
橋は空を意味する〝チエロ〟という名の湖に掛けられている。
老魔術師の棺とともに、橋を渡り終えたサマイノはそこで、
一方で、サマイノはそのまま湖の対岸にとどまる。伝説では、サマイノは
ところで、
その場合、老魔術師は眠ったままであり、橋を戻るのはサマイノである。
歴史を振り返ると
私は幼い頃、
なぜなら、彼女の顔は仮面で覆われていたからだ。
私が今被っているものと同じ形の仮面だ。
私は老女の姿にぞっとした。
それまでは、
(なんとしてでも成功させ無ければ……)
そう決心したところで、結果を左右する要因は私が担うものではない。しかし私は繰り返し、そう自分に言い聞かせた。
どれくらい、橋を歩いただろうか。
不意に欄干が途切れた。地面の感じも大きく変わった。さらさらとした砂地の感触がつま先を包んだ。
(とうとう、対岸に辿りついた……)
私は深く息を吐いた。吐いた息は私の肺を離れたそばからさらさらした氷の粒へと変容した。
私は手を前に突き出し、辺りを探った。何も触れるものがない。王国側の岸とは異なり、門などはないようだ。私は慎重に
橋から離れて間もなく、伸ばした手に何かが触れた。石柱だ。その表面はとても滑らかだった。幅はひと抱えほどで、高さは分からない。私の背よりも高いことは確実だった。
私はその場に立ち止まった。
私の横を老魔術師の棺持ちが通り過ぎて行った。少し進んだところで止まったのが足音から察せられた。棺を下ろしたようだ。そしてそのまま私を横を通り過ぎ、橋の方に引き返して行った。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
湖は凪いでいた。沈黙が辺りを支配した。
私はしばらく呆然とその場に立ち尽くした。王の言葉を思い出す。
――行って、神の導くままに汝の務めを果たせ。
(神のお導きはいつ
私は焦る気持ちを抑え、周囲に意識をめぐらした。
そのとき、棺が下ろされたあたりから金具が触れ合う音がした。
私は息を飲んだ。棺の蓋が開かれたのが、気配でわかった。
(魔術師が蘇った……?)
ということはもう
再び沈黙が訪れる。私は呼吸を押し殺し、様子を探った。
沈黙が不意に破られた。
「――プレタ」
魔術師がそう呟いた。その声は老人から想像されるしわがれ声ではなく、青年のよく通るはっきりとした声音だった。
私の戸惑いが大きくなる。その要因は魔術師の声質もだが、なによりその発せられた掛け声だった。
(『プレタ』……? ――エタ・ロンドをするということ?)
「プレタ」
魔術師が再びその掛け声を繰り返した。私は意を決して、「プレタ」と答えた。
一瞬の間があった。
「「パペロ」」
私と魔術師の声が重なって響く。
(間違いない。エタ・ロンドだ……)
私は確信した。子どものころ無邪気に遊んだエタ・ロンドのその実態は
しかしまごまごしてはいられない。エタ・ロンドのテンポを崩す訳にはいかない。
初手は二人とも〝パペロ〟で、あいこだった。私は両腕を前に突き出し、おぼつかない足取りで左側前方に移動した。すると伸ばしていた手にもといたのとは別の石柱が触れた。その表面はざらざらとしていた。
「「セクヴァンタ」」
二人の掛け声が重なる。私はさらに時計回りに移動した。柱と柱の距離感を掴めたので、今回の移動はスムーズだった。次の石柱もその表面はざらざらしていた。
「「ハルティス」」
再び、声が重なった。ワンターン目の終了だ。
「プレタ」
すかさず、魔術師が掛け声を上げた。私はテンポを崩さないよう適切なタイミングで「プレタ」と答えた――――
✳
(――何周目だろうか?)
エタ・ロンドはなかなか終わらなかった。
私の意識は朦朧としていた。自分が今何時の位置に居るかを把握できていたのは始めのうちだけだった。今では、滑らかな石柱に触れても、それが自分が最初に立っていた石柱なのか、それともその反対側の石柱――すなわち魔術師がもともと立っていた石柱なのかすら分からなかった。
表面が滑らかな石柱で停止するたびに、私の心臓は期待と恐怖で激しく脈打った。早く終わって欲しいと願う一方で、結果が出てしまう事を恐れた。
その瞬間は不意に訪れた。
「フィノ」
私は石柱の表面の滑らかさを確かめると、そう言葉を発した。同じタイミングで魔術師は「セクヴァンタ」と掛け声を上げた。
「セクヴァンタ」
魔術師が再びそう唱えた。私はぼんやりとした頭でそれを聞いた。
「――フィノ」
魔術師の発したその言葉は私の頭を通り過ぎて行った。私の思考は完全に停止していた。
少しの時間が経過した。
魔術師はもちろん「プレタ」とは言わない。なぜならエタ・ロンドは終わったのだから。私の頭は徐々にそのことを理解し始める。ぞわっと全身の毛が逆立った。
(とうとう……)
魔術師が踵を返す鋭い音が聞こえた。
私もゆっくりと石柱を背にした。ふらふらと一歩踏み出す。
(この先は……?)
呼吸が上手く出来ない。胸が締め付けらる。しかし私は足を前に進めた。地面の感触は変わらない。私はさらにもう一歩を踏み出した。私の足は相変わらず、柔らかな地面を捕らえた。
私は自分のつま先が石畳に――つまり、橋に触れることを期待しているのをはっきりと自覚した。
私は王国に戻りたかった。
両手を伸ばした。しかし両手はただ
「――…………」
不意に背後で魔術師が何かを唱える声が聞こえた。もう去ってしまったのかと思ったが、そうではないようだ。
私は振り向こうとした。しかし身体が上手く動かせない。上げようとした足が地面に吸い寄せられる。身体のバランスが崩れた。私は両手をついて受け身を取ろうとしたが、腕が上げらない。
全身が硬化していた。
意識が遠のいていく。薄れゆく意識の中、私の頭に幼いときの思い出が蘇った。
(怪我をした小鳥……)
あの小鳥は今はどうしているだろうか。少年の手の中で硬直したあの小鳥は―――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます