第4夜 DNAで親子を調べたら嫁が出て行きました


「久しぶりだな。健人けんと。忙しいのに呼び出して、すまなかった」


 松田龍樹たつきに電話で呼び出されていた。


 小学校の時からの腐れ縁だ。妻となった郁美を含めた三人は幼馴染みとして上手くやってきたはずだったが、あの事件以来、まだ許せる気持ちにはなれなかった。


以来、3年ぶりだな。生憎と、オレはちっとも忙しくないぞ」

「そうなのか?」

「あぁ。幼馴染みだって言うのに、お前は悩みが無さそうで良いな」

「いや、オレだっていろいろと悩みはあるぞ」


 会社を辞めて以来の主夫生活も一年以上続いている。再就職の見込みなどない。たまにバイトするのが精一杯。ただでさえうっぷんがたまっている。


『ましてコイツ相手だと、イヤミの一つも言いたくなるぜ』


 一方で龍樹には苦笑する余裕があるのを見て、胸がチクッとする。


『考えてみると、コイツには負け続けだったよなぁ』


 健人が勝てたのは郁美のことだけだった。


 昔、郁美に恋をしたのは龍樹が先だった。郁美も龍樹のことが好きだったのは薄々気付いていた。


 勉強しか取り柄の無い貧乏農家の小せがれと、町一番の資産家の一人息子だ。大人の恋であれば、健人に勝ち目は無かっただろう。


 けれども中学時代なんて、その程度は「告白」でひっくり返せる。龍樹を出し抜いて、いち早く告白した健人の勝ち。以来、彼女から恋人へ、そして妻へと関係を深めてきた。


 告白にOKをもらったことを、すぐ龍樹にも話した。あの時は、幼馴染みとして笑顔で祝福してくれた。それは良い。だが、親友ポジのまま、郁美を密かに奪うチャンスを狙っていたに違いない。その証拠に、あれだけモテるはずの龍樹は決まった彼女を作ろうとしなかったのだ。


 そして3年前のこと。


 健人達は東京の大学に通うため同棲していたのだが、そこで初めての大ゲンカをした。郁美は部屋を飛び出した。


 心当たりを探し回っても見つからない。実家にも戻ってこない。龍樹にもメッセージを送って探すのを手伝ってもらおうとしたら、珍しく「圏外」が続いて連絡が取れなかった。


 飛び出して6日目。郁美は、申し訳ないと言う表情で帰ってきた。龍樹に連れられてだ。


 龍樹の実家が東京に持っている物件に住まわせていたと説明されたが、そのまま信じられるわけが無い。案の定、追求したら一緒に暮らしていたと認めた。


 危うく寝取られるところだった。いや、実際問題としてのだろう。


 どっちかと言えば警戒心が強い郁美が、男の部屋に転がり込めたのも、幼馴染みだからだ。なんだかんだで心を許している相手だ。


 心の隙間につけ込まれて、肉体関係があったんだろうという疑いは健人の心に根強くへばりついたまま。


 とは言え、もともとケンカになったのは健人のワガママに端を発したのは明白だった。だから、それは反省して詫び、郁美も肉体関係は最後まで否定しつつも、キスはしてしまったと告白して許しを請うてきた。


 無性にモヤモヤしたが、何日も掛けた話し合いの末、結局、元サヤに収まった。愛し合っているってことを再確認して、なんとか収まった感じだった。


 あの時、郁美を許せたのは10年以上にもなる信頼関係があったからだと健人は思った。ただし、雨降って地固まるってのはホントらしく、あれ以来、前以上に仲良くなったのは間違いないし、信頼関係も「あの時のこと」以外はガッチリした気がした。


 もしも、あの事件がなければ、失業して荒れ気味だった健人のことなんて、とっくに見捨てていたかもしれないと思いさえする。


 ただ、あの時に気になったのは龍樹との関係だった。


 郁美は「自分が弱かったから」と言い張ったし、関係は「キスまで」だと何度聞いても強情に言い張った。


 あの時の言葉を今でも覚えてる。


「いくら幼馴染みでも男の人の部屋に何日も泊まったんだもん。あなたが疑うのは当然だと思う。それは、これからの行動で信じてもらうしかないわ。ただ、これ以上、あなたに疑いを持たせて苦しめるようなコトなんてしたくない。だから自分は二度とタッちゃんに連絡を取らないし、道で会っても挨拶もしないことにするよ。だけど、あなたにとっても大事な友達だったはずでしょ? 以前と同じようにとはいかなくても、絶交はしない方が良いと思うの」


 郁美の言い分は身勝手だとは思ったが、友人が少ない健人を心配しての言葉だという気持ちは伝わった。あの時の目には、健人を心配する気持ちしか感じられなかったからだ。


 それでも結局「寝取った」龍樹を、許す気になれなかった。形としては許したが、あれ以来、連絡を取ってない。


 そして、今、目の前にいる。


「何を今さら」

「本当に悪かったと思う。だけどな?」

「だけどって何だよ、今さら蒸し返すつもりかよ」

「いや違うんだよ。ほら、まだ郁美と寝たと思ってるだろ? まあ、証明しようが無いし、うたぐられても仕方ないと思う。だけど彼女はそんなうわついた女じゃないってことを証明するのがオレの責任だと思ってるんだ」

「証明? あの時、さんざん言ってたじゃないか。無いことの証明なんて悪魔の証明だ、できませんってな」


 心がスキだらけとなった女と何日も過ごしたんだ。何かあって当然、というシチュだろう。


 あの晩、郁美のソコをそれこそ指でほじくるようにしたって何も出て来なかったしゴムのニオイもしなかった。恥ずかしがるのを無視して、身体の隅から隅まで見ても、キスマークひとつなかった。そのままの勢いで抱いたが、今までとの違いは分からなかった。


 いや、あの時はかつて無いほどが良かった。


 郁美は恥ずかしそうにしながらも「捨てられると思ったから、嬉しくて」と言い訳した。


 ヤツに調教されたからだろうと直感したが、郁美の言い訳を否定する方法などありはしなかった。かと言って「何もなかった」ということにはならないと、今でも思ってる。あれ以来、信頼関係は最高になったが、就活も難航し、せっかく入った会社も心が折れて退職した。そのドタバタのおかげでED気味となった健人を心配したのか、かねてからの願いを叶えてくれた。お陰で一時的には回復したが、すぐに元通り。「効果が無かったね」とガッカリした郁美だったが、間もなく妊娠が分かったので、結果オーライ。


 つかのま可能となったことで子どもができたことは喜べたが、健人が心を病んだせいで、今では立派なセックスレス夫婦だった。


 しかし、そのあたりのことは、実は、もうどうでも良い気持ちになりかけているせいで、あの時のことを思い出してモヤモヤすることもなくなっていた。


 投げやりな健人の様子を見て、龍樹は困った顔をしながら続けた。


「普通なら悪魔の証明だ。ただ、それガラミで、頼みがあるんだ」

「なんだよ、お前がオレに何か頼める立場だと思ってるのかよ」


 思わず突き放してしまった。かつては、龍樹の頼みだったら、どんなことでも聞くのが当然だと思っいた。龍樹だって何かを頼まれれば、拒否するなんて思いもしない関係だったのに。


『全てを壊したのはコイツだろ』


 イラだつ気持ちを無視するように龍樹が名刺を出してきた。


「新しい事業に乗り出した」

「研究所?」


 名刺には親子関係鑑定研究所と書いてあった。


「ネットで申し込んでもらって、家にいながらDNA検査による親子鑑定ができるってビジネスだ。今のところは私的鑑定しかできないが、サンプル数を増やして法的鑑定までいければって考えているんだ」


 龍樹の親は東京にまでマンションを持っている資産家だ。その不動産の管理業務を手伝うという名目で普通の会社員では届かないほどの収入がある。だから、まともに就職してこなかったのを知っていた。


「そんな仕事、やっていけるのか?」

「分からんよ。何事もこれからだ。で、さ、去年同窓会があっただろ?」

「あぁ、オレは行かなかったけどな」


 失業中だ。どの顔をして出られるのかと思ったのだ。郁美も「あなたが行かないなら」と参加してない。おそらく「龍樹が出席してると心配を掛ける」と思ったのは想像の内だった。


「そこで聞いたんだ。お前に子どもが生まれたって」

「あぁ、そうか女テニの子あたりからか?」


 女テニの仲間達と郁美は今でも頻繁に連絡を取っているし、そのやりとりは、全て見せてもらっていた。もちろん子どもが生まれたことは話題にしていた。だから同窓会で彼女達から話題が出ても不思議はなかった。


「う~ん、誰からだったかは忘れた。まあ、林か、山岸あたりだったかなぁ」


 やはり女テニつながりか。


「ま、そのどちらかであっても不思議はないけど、で? オレの子が何か?」

「実はさ、お前と子どものDNA鑑定をやらせてもらえないか」


 再び頭を下げてきた。


「お前なあ! 明日香が浮気相手との子どもだって言うつもりかよ! 郁美は浮気なんてするヤツじゃないぞ」


 お前を除けばな、と付け足したくなる言葉を飲み込んだのは、来月で2歳になった娘の笑顔を思い出したからだ。


「そうか、明日香ちゃんって言うのか。えっと、逆だ。彼女が浮気なんてしないことは、それこそ身をもって分かってるさ」


 龍樹は苦笑いをしてみせる。


「あの時、どれだけ頼んでも断られたって言っただろ? 彼女はそういう女性だ。他の男なんて絶対にありえないよ。お前に惚れてた。明日香ちゃんはお前の子どもに間違いない。だからこそ、サンプルがほしいんだよ」

「どういうことだ?」

「親子鑑定が正確に出るって証明をするには、親子関係を疑いようのない父子からサンプルをもらわないと技術が証明できないのは分かるか? あ、これ。オレが自分の親とやった分だ」


 龍樹は、そう言いながら「父子関係に関する証明書」という書類を見せてきた。なるほど、本人と龍樹の父親の名前が検体提出者となっている。真ん中の枠の中には99,9のあとに9が6つも並ぶ数字とともに「遺伝的な親子関係が認められる」と書かれていた。


「お前と、子どものDNAサンプルをもらって親子関係を数字で証明する。それで何か分かるのかと言われると、それまでなんだけど、実際問題としてランダム抽出した父子でやると20パーセントほどが否定する結果ネガティブが出るんだぜ? まあ、その数字を公開すると社会問題になるんで関係者の間の公然たる秘密だけどな」

「え? 20パーセントも?」


 5人に1人だと? そんなの、ありえないだろ。


「あぁ。妻の同意を得ず、父親だけに頼んで調査した数字だ。世の中、わりとカッコウが多いんだなってのが感想だ。その点、彼女なら心配ないからな。どうだ? ちなみに検査の方法は簡単だ。このキットの綿棒で頬の内側を3回軽くこするだけだ。そのままこの袋に入れて、ポストに入れてくれ。それと、これがオレの検体だ。何もなかったけど、どうせ気になってなっているんだろうから、一緒に検査する。当然、オレの分は「否定する《ネガティブ》」って返ってくるのは分かっているけど、これはせてものオレの気持ちだ」


 宛先の印刷してある封筒が入っていた。


「確かに簡単ではあるけど……」


 何ともモヤモヤしたものがあったのは事実だ。けれども、何度も何度も頭を下げる龍樹を見て、検査キットを受け取ってしまった。たぶん、心の奥には「あの時、こいつとやってきたんじゃないよな」って思いたい気持ちがあったからだろう。


『何かにすがりたいってことなのかな』


 結局、数日悩んだ末、寝る前の歯磨きのタイミングで明日香の口の中を拭ってしまった。もちろん郁美には言えなかった。言えばきっと傷付けるからだ。


 検体を送って10日後。オレはまたも呼び出された。


「今日の彼女は?」

「あぁ。娘を連れて買い物だと思う。1時間くらいは帰ってこない」

「そうか……」


 何か話しづらそうだが、いくぶん、ムッとした顔をしていた。


「先に言わせてもらうぞ。悪い冗談は止めてくれ」

「ん?」

「ちゃんとしたサンプルが欲しい。いくらオレのことが許せないとしても、こんなことで騙すようなマネをして欲しくない」

「待て。いったいどういうことだ?」


 その時、龍樹もオレの表情を見てハッとしたらしい。突然、なだめるかのような態度に変わった。


「あ、えっと、ひょっとしたら取り方が悪かったのかもしれないな。たまに素人にやってもらうとって話は聞いたことがある。うん。良い勉強をさせてもらった」

「おい、その口ぶりだと、親子関係が否定された結果が出たみたいじゃないか」

「あ、いや、えっと、たぶん、サンプルが悪かったんだよ。だから、きっと、お前がわざとやっているのかと思って」

「見せてくれ」

「いや、その前に、もう一回検査をさせてもらってから」


 「見せろ」と「もう一回」を何度もやり合ったあげく、見せられたのは「親子である可能性を否定する」という言葉と、親子である確率が0.0のあとにゼロが9個並ぶ鑑定書だった。ついでに龍樹の分も見せられたが、やはり否定されている。


 茫然とした。


「オレは、ちゃんとやった。マニュアル通りに」


 しばらく無言だった龍樹は「ひょっとしたら、間違いかもしれない」と言いだした。


「ちゃんとやったのにこの結果だとしたら、ウチの間違いの可能性がある。良かったら、オレが健人の目の前で直接検体を取って、それを既に信用のあるところで鑑定してもらうのはどうだ? それならたぶん正確に出るし、お前も納得できるだろ?」

「あ、あぁ……」

「いろいろと思うところはあるだろうけど、頑張ってにバレないようにしておけよ。確かなことが分からないんだからな?」

「あぁ……」

「ほら、気を張れってば。まだ確実かどうか分からないんだ。ショックを受けるのはまだ早い。じゃあ、郁美ちゃんが外出する時を教えてくれ。それか、明日香ちゃんを公園かどこかに連れてきてくれてもいい」

「そ、そうだな。じゃあ、明日、公園に連れてくるよ」

「わかった。くれぐれもヘンな気を起こすなよ?」


 翌日、公園に連れ出した娘の口を綿棒でこすり、健人からも検体を採取した。家に帰ってから、娘が何か言うんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたが、採種した後に歯磨きをさせた分、誤魔化せたのだろう。それは問題なかった。


 検体は、龍樹の教えてくれた、日本で一番権威があると言われる研究所に送った。10万近い費用は健人が出してくれた。


 結果は一週間後、直接送られてきた。


 「否定する《ネガティブ》」


 やむなく、健人は妻と向き合うことにした。 



・・・・・・・・・・・


 健人が驚いたのは、郁美があまり驚かなかったこと。むしろ「とうとう」という諦めに近い表情に見えた。


「たぶん、あの時だと思う」

「あの時?」

「ほら、私達がケンカした原因よ。あなたがEDで、しかたなく1回だけ受け入れたじゃない」

「あの時の夫婦か!」


 元々は、無理やりスワッピングを計画したことに郁美が怒ったのが昔のケンカの原意だった。それ以来ずっと「封印」されていたのに、健人のEDを治すためならとOKしてくれたのだ。


 その時のことを言っているんだろう。


「だけど、あのご主人は、パイプカットしているって言ってたじゃん!」


 だからゴム無しでOKにした。健人自身も相手の奥さんに生で出してみたいって気持ちが大きかったからだ。


「だけど、それしか思い当たることないよ? そもそも、あれ以来、病的なほど拘束してきたもん」

「それはお前が、そうしてくれって」

「うん。別に辛くなかったし、普通の生活をしていただけだから不満はなかったわ。でも、こうなってみると、監視してくれていてよかったと思う」

「良かった?」

「うん。だって、あれだけ監視されていたら、たとえその気になっても男の人と会うなんて不可能だと思うよ?」

「それは、そうかも」


 スマホの位置情報で常に居場所を監視していた。家出事件以来、どう考えても家と大学の往復しかしてなったし、卒業後はビル管理の小さな会社に就職して、家と会社の往復だけ。昼休みに会社から出たこともない。せいぜい帰りにスーパーで買い物くらいしか寄り道をしてないのだ。遊びに行くのは、たまに女テニの仲間とだけ。それだって、一緒の写真を必ず送ってきたし、教えてくれた店でおしゃべりしているのか位置はずっと動かないのがいつものことだった。


 明日香を妊娠した頃、どう考えても郁美に浮気しているヒマなどなかったのだ。


「あのね、今になって言うのはあれかもしれないけど……」

「ん?」

「あなたも、あちらの奥さんと避妊無しでしたんだよね?」

「あぁ。念のためにリングを入れてるって話だった」

「そう、それよ。ねぇ、おかしくない? プレイのためだけにリングを入れるの? ご主人がパイプカットしてるのに」

「まさか、ウソ?」

「実はタイミング的に、その可能性はずっと考えてたの。でも、言い出せば、あなたを傷付けるかもしれないって思ったら黙っているしかなかったわ」

「そ、そんな……」

「一応、あの時だってモーニングアフターピルは飲んだけど、あれだって100パーセントってわけじゃないんだもん」

「じゃあ、ダマされたのが当たった?」

「それ以外考えられないよ。それに、あの相手って、すぐに連絡取れなくなったって言ってなかった?」

「確かに」

 プレイの後、メールが返ってこなくなった。そういうものかなとは思っていた。だが、それなら、理解できる。


「オレがダマされてたってわけか」


 オレの趣味に付き合わせたあげく、騙されて妊娠していた。全部オレが悪かったってことかよ……


「仕方ないと思う。こっそりDNA鑑定なんてされたことには、考えるところが無いとは言わないわ。でも、あの事件もあったし、それは責めない。ただ、明日香があなたの子どもじゃない以上、この後の私達が上手く行かなくなるのは見えてるよ?」

「いや! そんなことはない。オレ、頑張るから!」

「でもね、3年前のことを、まだ飲み込めてないのは知ってるわ。私がどんなに否定しても、まだエッチしたって思ってるんでしょ? 傷つきやすいあなたのことだもん。これから、明日香を見る度に自分を責めるに決まってるわ。私はそんなあなたを見ていたくない」

「そんな、郁美、大丈夫だ、大丈夫だから!」

「別れましょ? まだ3歳になってないから、法的にもあなたの子どもじゃないことは認めてもらえるわ」


 女というのは、子どもが生まれると強くなるのだろうか? 3年前、龍樹のところから戻ってきた時の心配する表情など思い出せないほど、サバサバしていた。


 むしろ、オレがオロオロしているウチに、勝手に弁護士を雇って、勝手に手続きをして、最後にオレが何枚かの書類にサインするだけだった。


 手続きは、あっと言う間。家を出る日まで一週間もなかった。とりあえず、会社の社員寮に入れてもらえるらしい。場所は教えてくれなかった。スマホのGPSも検索できないようにされてしまった。この辺りは徹底していた。だが、それも仕方ないのだろう。全てはオレの責任だ。


「すまなかった。郁美。オレのせいだ」

「ううん。結果的に、あなたをずっと騙していたことになるんだもん。もう謝らないで? それと、私達を探したりしないでね。今なら明日香の記憶もリセットできるはずだから。あなたは早く誰か良い人を見つけて幸せになって」

「ホントに、金はいらないのか?」

「結果的に、私の浮気みたいなものでしょ?」


 皮肉な笑いを浮かべる郁美が哀しすぎた。


「すまない!」

「ううん。じゃ、今までありがとう。早く幸せになってね」


 そう言うと、涙ひとつこぼさずに、タクシーに乗ってしまった。

 交差点を曲がるまで、オレは車の姿を見つめることしかできなかった健人は、何とも惨めな気持ちになってしまった。


『ただなぁ、たとえ血のつながりは無くても、明日香に会えなくなるのだけはダメだ。遠くからこっそり見るだけでも良いんだ』


 仕事も喪い、妻をも喪った健人にとっては、もはや、それだけが心の拠り所だったからなのかもしれない。なんとしても居所だけは確かめたいという気持ちが、健人を少しだけ行動的にさせていたのだった。



・・・・・・・・・・・


「やっと、結婚できるね! 愛してるタッちゃん!」


 私は通い慣れた「職場」にやって来ると、愛する人に抱きついた。


「明日香ちゃんが驚くといけない」


 タッちゃんは明日香の目を気にして、私を押し戻した。


 もう、隠さなくても良いのにと、ちょっと不満。だけど、確かにいきなり、お家が変わって「この人がホントのパパですよ~」なんて言ったら頭がパンクしちゃうだろう。


 この家に連れてきたのは初めてだからキョロキョロしている。とりあえず、おやつをあげて落ち着くのを待とう。


「お待たせしちゃってごめんね」


 珈琲を入れる。


 いつになく、タッちゃんは緊張気味だ。私も明日香が目の前にいて、これから「本当の家庭」が作れるのだと思ったら、なんだか新鮮な気持ちになる。


「やっと、ここまで来たね」


 3年前、あの人からスワッピングを無理やりさせられそうになって、私は怒った。初めての大げんかになって家を飛び出した私が一番に相談したのはタッちゃんだった。

 

 オレの部屋に来いって男らしく言ってくれて、いっぱいお話を聞いてくれて。そこで2人は初めて結ばれた。中学時代の「間違い」を、やっと正せた気分だった。


 でも、デリケートなあの人が「タッちゃんに取られた」って分かっちゃったら、絶対に自殺しちゃうと思った。だから、少しだけ我慢して、我慢して、我慢して…… そこでさらに想定外だったのが、就職早々に、あの人が心を病んで失業しちゃったこと。


 だから、もう少しだけ様子を見ることになった。幸い、明日香がお腹にできて以来エッチを拒否しても文句を言われなくなっていたし、そこはタッちゃんも理解してくれた。


「これからは夜も一緒だね」


 タッちゃんが専用のスマホをくれたのは最初の時だった。だから、今までのスマホの位置情報を利用して「私の居場所をいつも確かめて」とあの人にお願いしたのは私の方からだった。


 元々、過拘束気味だったあの人から、私はようやく自由になれた。大学のロッカーにスマホをポイッと入れておけば、どこでも自由に遊びに行けたし、アルバイト先はタッちゃんの会社にした。「時給」まで付けてくれたから、あの人は全く気付かない。


 GPSで居場所を証明しながら、大学と家を往復するだけの「真面目な女」を誰に対しても演じることができたのは、タッちゃんのおかげだった。


 お陰で大学生活の最後は思いっきり楽しめた。たった1人に拘束されてきた私が、人生で味わう初めての自由時間という感じだった。楽しかったな。


 妊娠しちゃったのは計算外だったけど、タッちゃんの会社に「就職」する形にしておいたのは、今思い返しても、最高のアイディアだった。明日香を保育園に預けられるようになれば、二人っきりの愛の日々を再開できた。


 もちろん出勤するのは彼のお部屋。ポイッと「家用のスマホ」を置いて、後は2人で自由に過ごせる。夜、彼と連絡できないのは辛かったけど、その分、昼間は濃密な時間が過ごせた。


 明日香が3歳になってしまうと、後で親子関係が変えられなくなる。だから、このタイミングで「カミングアウト」したのが今回のお芝居だった。


 結果的に、ショックを受けたあの人をしばらく監視できたし、これなら大丈夫そうだなって、私もようやく安心できる。


 あれ? タッちゃんの様子が変だ。


「あのさ、これを見て」

「あぁ、これ? 親子関係の証明書でしょ? これが何か?」


 あの時、あの人の検体を送った先は、タッちゃんの持ってるマンションの一つだ。そこで私が受け取って、明日香の検体を私の分とすり替えて、ちゃんとした研究所に送った。当然、親子関係なんて出るわけがない。


「実はさ、オレの分も、マジで出したんだよ」

「え? どうやって?」

「ほら、念のためにって、公園でオレが二度目の採取をしたじゃん? あの時、実は、綿棒を2本使ったんだ。それで、オレのとの証明書を作ってもらったんだ」

「ウソっ! だ、だって、明日香は、あなたの子どもだよ? そんなはず無い」

「だけど、それ見てよ。オレの可能性は、ゼロの後にゼロが9個も並んでるぜ? あの子どもはオレの子じゃない。もちろん、健人の子どもでも無い。じゃあ、誰のだ?」

「そ、それは、その、でも違うの! 私、あなただけしか」

「オレとだけ付き合ったと言いたいんだろ? でも、同窓会で聞いたぜ? おまえ、オレのところに来ない時は、女テニの子たちと遊びまくったんだってな? まさかって思ってたけど、検査して良かったわ、マジで」


 確かに、あの頃、人生で一番遊びまくった。お金が無い分、声をかけてくる男の子持ちで遊びまくって、最後ホテルが定番で……


「行く当てがないなら、しばらく他のアパートでも世話するよ。3ヶ月で出て行ってもらうけどな」

「そんな!」

「どうしても無理なら、健人のところに戻れば良いじゃん」

「そ、そんなの無理だよ!」


 その時、明日香が「パパ!」と窓に駆け寄った。


 え?


 ベランダに立っているのは、鬼のような表情をした健人だった。とっさに「なんで?」と思ったけど、荷物の中にGPSかなんかを入れられたんだろうっていうのは、何となく理解できた。


「パパぁ、はいってぇ」


 明日香、ダメ、鍵を開けたら!


 遅かった。


 ゆっくりと入って来た健人の右手には鈍く光る包丁が見えていた。


 心を病んだ男が、元妻と交際中の男性を、という記事が新聞に小さく載ったのは翌日のことだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

「托卵」の逆バージョンみたいな話を描きたかったんです。4時間くらいで書き上げたので、時間的な整合性が(たぶん)取れてないのですが、そんなものだと思ってお許しください。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 





  

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