叶わぬ恋に乱される

紫鳥コウ

叶わぬ恋に乱される

 沈香じんこうの匂いが漂う仏間に面した縁側に座ると、颱風たいふうのあとに磨き直された窓に床の間の楊柳観音ようりゅうかんのんの掛軸がうっすらと映った。まるで自分が、旧套きゅうとうな考えを持ち世の進歩を忌み嫌い擺脱はいだつできぬ身の上にいる者のように感じる。が、その寸評は間違いではない気もしなくはない。


 可菜子の話によると、昨晩この仏間を通り過ぎるときに糸鬢奴いとびんやっこを見たという。あの漆のような純な黒色の髪が右腕にさらりと触れたときのこそばゆさが思いだされる。ウヰスキーの瓶の口と接吻して酔いを深めようと試みる。


 筆削のない恋ほど苦しいものはない。どんな滑稽な言動も恋愛の一変種いちへんしゅと相成る。無駄なことが一つとして見いだせない。あの尫弱おうじゃくな靖史とは違い壮健な身体を持っている以上、可菜子は自分に振り向くことはないかもしれぬ。松に叩きつける直瀉ちょくしゃは、乱鴉らんあのように落ち着かぬ騒擾そうじょうを庭に与えている。


 縁の下には猫が一匹いるのかしらん。可菜子が背中越しに振り向き艶然えんぜんと微笑む姿が蜃気楼かいやぐらの如く見える。ウヰスキーが口の端を濡らしてこそばゆい。たるきに支えられた階段の裏側がみしみしと鳴っているのは気のせいかしら。板塀の向こうのちまたからあかい傘がちらちらと見える。


「そんな所で呑んではるん」と、背中から呼びかける可菜子の姿が窓に映っている。「そんなに靖史が好きかね」と、はっきりと呟いて見せた。


 竹矢来たけやぎに囲まれた刑場で自らの宿命を待つ心持ちがする。「なんや知らへんけど、酔ってはるのは分かりますわ」などとひらりとかわして可菜子は向こうへと去っていく。ふところからマドロスパイプを出して右の掌で何度も握る。


 万斛ばんこくの涙のように雨は降り続けている。ウヰスキーの瓶は底を尽きそうになっている。明日の昼、中央停車場まで見送りに行く気などさらさらない。帰るならば勝手に帰ればよい。そう強がって見せる。毛脛けずねはすっかりと冷えている。「可菜子」と小さく声に出すと、もう引き返せなくなるに違いない。黙ってマドロスパイプで瓶を小刻みに叩く。

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