第二章 失恋した日

 あれからどの位経っただろうか。


「…五瀬。おい五瀬。起きろ。」


 ものぐさそうな低い声が聞こえる。僕は何か固い物で頭をコツコツ叩かれていた。


「煙草クサッ。」


 僕は咄嗟とっさに起き上った。目の前に立っていたのは担任・国語教師の中筒なかづつだった。

 彼は手に持った現国のぶ厚い教科書で僕の頭を叩いていた。


「やぁおはよう。作家センセ。悪かったなぁ。煙草臭くて。」


 僕を見下ろして、中筒はニヤリと笑った。口元は笑っているが、目は笑っていない。むしろ、僕を見下すが如く、嘲るが如く、僕を見ている。


「な、中筒…」

「先生だコラ。」


 中筒は教科書の背表紙で僕の頭を叩いた。


「す、すみません…」


 周りのクラスメイトは僕を見てクスクス笑っている。

 濁ったお茶のように渋く、ヤニ臭い声。

 枯れ枝のような痩せ形で、櫛も通りそうにないボサボサの頭、生気のない目。横になってテレビを見ながら酒をあおっている男のようなイメージで、教師にはまるで見えない。胸ポケットにはいつもマイルド・セブン。

 ヘビースモーカーなのだ。一日に何箱吸うだろうか。高校生の僕には想像もつかない。彼の給料は湯水の如く煙草の煙と消えてゆくのだろう。

 しかし実力は相当なもので、若い頃一流の物書きとして、かの有名な文藝夏冬に連載を持ったこともあるそうだ。


「なぁ五瀬。将来の夢はなんだっけ?」

「作家です…」

「俺の授業を真面目に受けん奴は、立派な作家にはなれんぞ。いつまでお遊びで書いて生きて行くつもりだ?それで女を幸せにできるのか?」


 中筒は僕の頭を何度も教科書でコツコツコツコツ。木魚か僕は。


「はい…すみません。」


 云い返したくとも、云い返せない複雑な心境の中、僕は溜息をついて、机の中から教科書を取りだした。


「畜生。あんな奴らなんて、消えちまえ。」


 僕はボソッと呟いて席に着いた。


 ◯


 気がつくと早くも放課後になっていた。今日一日まるで記憶がない。今日は僕の大好きな『舞姫』の授業だったにも関わらず、何も覚えていない。今日一日何があったのかもわからない。まるで夢の世界にいるような。

 どうせ夢ならば、七花と一緒にいさせてくれればいいのにと思うが、現実はそう上手くは行かない。

 教室では案の定カップルが仲よさげに話している。僕は見せつけられている様な気がして嫌だったので、足早に教室を出た。

 武内は…部活か?あぁ…そうかあいつも…

 A組の前を通るも七花の姿は見えない。彼女もきっとどこかで…

 空は相変わらず灰色で、真っ白な雪が降り注いでいる。


 とにかく嫌なことを忘れたかった僕は、自販機の缶コーヒーのボタンを押した。

 あったかいを押すたびに心に火が灯るのであれば、つめたいを押すたびに心が冷えていくのだろうか。つめたいコーヒーをひと思いに飲み干した。

「苦っ…」

 口一杯に広がる苦み。どうやら間違ってブラックを買ってしまったらしい。僕はブラックは苦手だ。それでも少しばかり目が覚めた気がしたけれど、頭から七花の事が消えることはなかった。

 もう何も考えたくはない。

 わかっている。これが失恋なのだ。生まれて初めて経験した失恋は酸味の効いた苦い味だった。

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