Alptraum〜バレンタインの夜に

正保院 左京

第一章 2月14日 朝

「ゴンッ」という鈍い音を立てて、僕は机上に頭を打ち付けた。

 憂鬱だ。

 あぁ…帰りたい。

 今日の予報は雪。灰色の空からは、ハラリ、ハラリと、白き雪が降り注いでいる。


 いつもより増して騒ぐ男子生徒達がとんでもなくうるさいから、こいつら全員インフルエンザで帰っちまえばいい。こんな狂ったような陽気に満ち溢れた雰囲気に僕は絶えられず、とうとうそのまま机に突っ伏してしまった。

 なにを隠そう今日は二月十四日。バレンタインデーとか云うやつだ。皆が浮足立っているそんな中で一人、教室の隅の席で黙って俯いている僕はさぞ浮いていることだろう。

 そんな事はどうだっていいし、僕は一向に興味もわかなかった。


「五瀬ェェ!どがしたァ?辛気臭い顔しやがって。」


 どこの誰が朝っぱらからこんな元気でいられるのだろうか。放課後のカラオケのようなテンションで、僕の背中をバシバシと叩いてくる。痛い。

 彼の名は武内利通たけのうち としみち。かれこれ保育園からの付き合いになる幼馴染みで、同じB組の生徒だ。僕の数少ない友人であり悪友である。


「やめろや…痛いって。」


 彼は野球部員で、華奢もやしな僕とは違って体格も良いし筋肉も隆々としている。そんな彼のことだ。あの木のこぶの様なゴツゴツした大きな手で叩かれたら…と思うと考えるだけでも痛い。

 実際まだ背中はジーンと傷んでいる。


「今日はアレだ。何の日か分るわな?」

「ああ。聖バレンチヌスが処刑された日だな。ローマ皇帝クラディウスの基督キリスト教迫害の最中、基督教の信仰を捨てなかったバレンチヌスは―」

「あー!違う違う!今日は誰もお前のトリビアにへーへーボタンは押さんぞ。」


 正直真面目に答える気は無かった。


「ばっかやろう!お前、世の中の恋人達を恨み過ぎて、馬鹿になっとらんか?アホか?バレンタインデーは女子が好きな男子にチョコレートをあげる日だろ?クリスマスと並ぶ夢のあるビッグイベントだぜ?」

 武内はそう云って丸めたノートでバシッと僕の頭を叩いた。痛い。

 そんな彼に僕は大きく溜息をついた。


「くっだらねえ…他人の恋愛なんぞ興味ないわ。よそでやれや。」

「…そうか。仕方ないよな。七花がといとう本命相手にチョコレートを渡すってもっぱらの噂だ。もっともらしく、屁理屈をつけて目を叛けたくなるよな。そりゃぁ流石に世間は許してくれると思うぜ。」


「七花が?」


 玉依たまより七花ななか。A組。誰しもが憧れる可憐なる美少女。愛嬌があって、面倒見も良い、家庭的なその様はまさしく大和撫子。まぁとにかく僕の中では一番の理想の女性だ。そんな彼女に心惹かれる男は数え切れないだろう。その気持ち、分かる。まさしく学校のアイドル的存在だ。

 そんな彼女が幼馴染みで、しかも家が隣なのは、人生に於いてほとんど良い事がない僕の中で一番の幸運だと自負している。


「知らんかったんか?そうか。残念だったな…お前の七花への片思いはたった今崩れ去った。まぁ…元気出せや。可愛い子なんぞ、そこらに山ほど居る。そのうち良い子が見つかるさ。」


 あまり喜べる話じゃない。僕はこの十年間、七花に思いを寄せてきたのだ。そんな僕を笑う武内。爆笑している。そんな彼に心底腹が立つ。流石は悪友と云ったところか。

 森鴎外『舞姫』の一説を流用するならこうだ。


『嗚呼、武内利通がごとき良友は世にまた得がたるべし。されどわが脳裏に一点の彼を憎む心今日まで残りけり。』


 …もういいや。気分が悪いし寝てしまおう。そういえば徹夜だったし。僕は笑っている武内をそのままにして、深い眠りへと誘われていった。


「あぁ…七花…」


 僕はボソッと呟いた。

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