第10話
☆☆☆
空中を渡っている歩道を歩き、どこまでも続いているような石段を上がり、ビルの隙間を抜けて、英也はようやく足を止めた。
さっきまでいた学校を眼下に見るその場所はビルの屋上だった。
と言ってもここよりも高い建物はいくらでもある。
「ここは?」
貯水槽の影に身を隠して、良介は小さな声で稲荷に聞いた。
「ここは……」
稲荷はそれっきり黙りこんでしまった。
後ろにいる稲荷に視線を向けると、稲荷は大きな目を更に大きく見開き、口をポカンと開けて英也の様子を見つめている。
ひどく、なにかに驚いている様子だ。
「どうしたの?」
稲荷の肩を叩いて聞くと、ハッと我に返って瞬きをした。
「こ、ここは裏鬼門ですね」
「裏鬼門?」
「そうです。あらゆることを避けたほうがいい方角のことを言います」
それは良介も聞いたことがあった。
「だから鳥居が建ってるのか」
ここはビルの屋上なのに小さな鳥居があり、その横には注連縄が巻かれた大きな岩が鎮座していた。
英也は今その岩の前に立っている。
「だけど、裏鬼門なども忘れ去られる存在のひとつです。こんな風にわざわざ拝みに来る人がいるなんて」
「でも、それは別に不思議じゃないだろ? こっちの世界の俺だって、お稲荷さんをお供えに来てるんだから」
「えぇ、それは、まぁ」
それでも稲荷は煮え切らない表情を浮かべている。
「なにがそんなに気になるんだよ?」
「あの岩です」
稲荷は注連縄が巻かれている大きな岩を指差した。
その岩は真ん中あたりがパックリと割れてしまっている。
「あの岩、割れていなかったはずなんですが……」
稲荷が眉を寄せてそう言った次の瞬間だった。
まさに噂をしていた岩の割れ目から黒いモヤが出てきたのだ。
モヤは空中でぐるぐるととぐろを巻き、やがて人間の形になって行った。
「なんだよあれ!」
人間の何倍もありそうな人型のモヤに良介は後ずさる。
モヤの目の前にいる英也はひるむことなくその場に膝を着き、モヤを見上げた。
「今度こそ殺せ」
モヤが低い声で言った。
それは何人もの声が積み重なってひとつの声になったような、腹に響く奇妙な声色をしている。
「はい。わかりました」
英也はなにかに取り付かれているように、抑揚のない声で返事をして、うなづいた。
その時、モヤの色と英也たちの目の色が同であることに気がついて良介は息を飲んだ。
まさか、英也たちがおかしくなったのはこのモヤのせいか?
「このモヤは人を操ってるんだわ! このままじゃまた君が狙われてしまう!」
稲荷の言葉に良介は背筋が寒くなった。
さっきモヤが言った『今度こそ殺せ』は、こっちの世界の自分を殺し損ねてしまったことを指摘していたのだ。
やっぱり、ただのイジメなんかじゃなかった!
「英也がこっちに来る!」
非常階段へ向かって歩いてくる英也をやり過ごして、2人はその後を追いかけたのだった。
☆☆☆
英也はどうやら来た道を戻っているらしい。
長い石段を降りて、空中に浮かんでいる歩道を歩く。
どこかのマンションへ繋がっている道を歩いていたとき、横道からもう一人の良介が出てくるのが見えて、良介と稲荷は同時に足を止めて背中を向けた。
まさか自分が突然出てくるとは思っていなかったので、心臓がバクバクとうるさく跳ねはじめる。
稲荷がすぐにキツネのお面を差し出してくれた。
良介はそれをつけて振り向いた。
こっちの自分は家に帰るところなのだろう、良介たちには背中を向ける形で歩いていく。
その後を英也がついて歩いていた。
しかし、後ろから英也がついてきていることには気がついていないみたいだ。
良介と稲荷の2人は息を殺して2人の後を追いかけた。
ここで振り返られても隠れられる場所はない。
キツネのお面がなければこうして追いかけることもままならなかったことだろう。
そう思っていたときだった。
突然英也が早足になり、前を歩いていた自分と距離を縮めたのだ。
人の気配に驚いて歩調がゆるむ良介。
その隙を見計らったように英也は良介の体を羽交い絞めにして、手すりから突き落とそうとしたのだ。
「なにするんだ!」
ちからづくで持ち上げられた良介が真っ青になって叫ぶ。
しかし英也は力を緩めず、ジリジリと手すりの向こうへと良介の体を落とそうとしている。
その光景は信じられないものだった。
だって、良介も英也も大して力は変わらない。
身長も体重も似ているし、学校の体力測定だって同じような数値が並んでいて、2人して笑い会ったことがあるくらいだ。
その英也が、今まさにこっちの世界の自分を突き落とそうとしているのだ。
全身の毛穴が逆立っていくのを感じた。
こんなことありえない。
ここまでの力が出るなんて信じられない。
でももしも、英也自身の命が関わっているとしたら?
それとも、あのモヤに操られているとしたら?
これくらいのバカ力が出るかもしれない。
英也はあのモヤに言われたことを実行しようとしている。
俺を、殺そうとしている……!
「やめろ!!」
咄嗟に叫び声を上げて、走っていた。
英也が驚いた表情をこちらへ向ける。
それでも腕の力は緩めていないようで、良介が必死にもがいている。
「離せ!」
自分の体を両腕で持ち上げている英也に思いっきり体当たりをした。
その瞬間英也は体のバランスを崩して、腕の力が抜けた。
自分が歩道に倒れこみ、同時に英也も倒れこんだ。
「ひぃっ!」
こっちの世界の良介が悲鳴を上げて逃げ出していく。
それを見て軽く舌打ちをした。
「お前、なんでこんなことするんだよ!」
良介は英也が逃げ出してしまわなよう、腕をきつく掴んで問いただした。
「さっきのモヤは一体なんなんだ? どうしてモヤは俺を殺そうとしてるんだ?」
次から次へと出てくる質問に、英也は答えない。
灰色の目で良介を睨みつけているだけだ。
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