エピローグ これからの日々、君と一緒に

「さて、誰が読むんだっけ……」

 先生は溜息交じりに教室を歩き回っている。

 一週間も経ったというのに、まだ同じ小説を朗読している。まあ、声に出して読むと読書速度が下がるので、一冊を読むには二週間もかかるかもしれない。

 幸いなことに、先生は私が何も読まずに保健室に行ったことを忘れたようだ。だから、魚のように泳ぐ彼の視線は決して私のほうを見ない。

「さて、次は小向こなたさんが読んでください」

 先生に呼ばれて、恵梨華はすかさず立ち上がった。

「はい」

 繊細な指でページをめくり、深呼吸をする。

 生徒会役員らしき彼女の朗々とした声が静まり返った教室に響く。

 朗読のことを考えていると、後藤ごとうさんが読んだ印象的な一行がふと脳裏に蘇った。


『彼岸花は不吉なだけではない。奇跡を起こすこともあるのだ』


 その言葉を初めて聞いたとき、さもありなんと思った。奈波に出会えたばかりだし、人生が楽しくなったし、てっきりそれが彼岸花の奇跡だと思っていた。

 しかし、今は別の解釈もできる。

 私が奈波と恵梨華に救われたことは、彼岸花が起こしてくれた奇跡だっただろう。

 私を裏切り、呪い、それでいて最後まで私の味方でいてくれたかもしれない。

 もちろん、彼岸花が消えてしまった以上、もう真実を知る術はないだろう。それでも、そうだと信じたい。

 気がつくと、恵梨華が座っており、違う人が読んでいた。

 過去を振り返ったせいでその朗々とした声を聞き流したのは少し残念に思った。

 とはいえ、これが最後の朗読ではなさそうなので、聞く機会はまだたくさんある。

 そういえば、最近の席替えで後藤さんが私の隣に座ることになった。

 私が復学して以来、クラスメイトはもっと私と話すようになり、友達の人数が急上昇した。

 おかげで私はようやくみんなと仲良くできて、一人ぼっちでいるのを卒業できたのだった。


 次に読む人が選ばれたとたん、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。

 先生は時間に気づいていなかったのか、かなり驚いたようだ。

 私たちは立ち上がり、本を学生鞄に詰める。

 みんなが解散している中、私は後藤さんに目を向けた。

「ね、後藤さん。料理が好きだったりする?」

「あ、料理、ですか……。あんまりしたことがないんです……」

 後藤さんはうつむいたまま頬を染めた。

「楽しいと思ったの?」

「私にはちょっと難しかったけど、うん、楽しかったかな」

「それなら、私と一緒に料理部に行こうか! 入部するの簡単だし、超楽しいよ!」

「え、そんな部あったんですか? 全然知らなかった……」

 奈波がポスターを剥がした結果、今や誰も料理部の存在を知らないだろう。

 私は虹色の順番に寂しげに吊られた七つのエプロンを見たとき、みんなに逃げられた奈波を可哀想に思わずにはいられなかった。

 だから、全てのエプロンが誰かの身体に着けられるまで、新しいメンバーを勧誘していきたいと思う。

「じゃあ、入ってくれる?」

「か、考えておきます……」

 かなり強引なやり方なのはわかっているが、そうではなけらば成果が出ないだろう。

 私は、料理の楽しさをもっと多くの人に知ってほしいのだ。

「ありがとう! じゃあ、私は今料理部に行くから、またね!」

 廊下に出ると、私は後藤さんがついてきているか確認するために後ろを振り向いた。

 やはり、顔を隠そうとしながらゆっくりと歩いているのは彼女だった。

「もう決めたのか? 判断が早いね」

「あの、ちょっと様子を見に行こうかと思ったんだけど、いいですか?」

「もちろん!」

 一緒に廊下を進んでいると、私はエプロンを着けている後藤さんの姿を思い浮かべてみた。どの色が一番似合うのかな?

「ところで、後藤さんは好きな色あるの?」

「好きな色……? んー、強いて言えば青かな」

 確かに、青は爽やかで涼しい色が故に後藤さんによく似合う気がする。

 料理部に着いたら、青色のエプロンを着けさせてみよう。絶対に。


 数分後、私たちは料理部についた。

 私が先頭を切って入ると、後藤さんが遅れてついてきた。

 部室の真ん中に奈波の後ろ姿がある。

 彼女は料理に気を取られているせいか、まだ私が来たことに気づいていないようだ。

 私はタイミングを見計らって、挨拶する。

「来たよ、奈波!」

 奈波は私の声にぐるりとこちらを振り返ってきた。

「あ、彩夏だ! そして、もう一人は……?」

 いきなり奈波に誰何すいかされて、後藤さんはかなり慌てているようだ。

「あ、えっと、後藤あずかです。彩夏の、クラスメイト」

 そう言って、後藤さんは私のほうを指差す。

 名前はあずか、か。なかなか聞かない名前なのではないだろうか?

「まさか、入部希望とか?」 

 奈波は口をポカンと開けて、月光に照らされる水面みなものごとく目を輝かせた。

「いえ、ただ様子を見に行きたいと思って……」

 さらに動揺しているのか、後藤さんはまた頬を紅潮させた。

「つまり、料理に興味があるって解釈していいよね? それなら問題無し! あとは、このあたしの見様見真似をするだけでいい!」

 ついさっき強引に勧誘しようとした私が言えた義理ではないが、奈波は少し気合を入れすぎている気がする。

 入部希望の人を怖がらせてしまえば元も子もないので、私は念のため後藤さんに事情を説明することにした。

「あの、奈波はすごく料理好きな人なので、気にしなくていいよ」

 奈波と口喧嘩にならないように、私は声をひそめておいた。

 後藤さんは軽く頷き、薄笑いを浮かべた。

 亜光速と言ってもいいような速さで、すでにここに馴染んでいるようだ。

「ちなみに、私は部長のことをなんて呼べばいいんですか?」

「気軽に奈波って呼んで。あたしも君のことをあずかって呼ぶからね」

「あ、でも様子を見る程度で来たので……」

「自分に嘘を吐かなくていいのよ。どうせ入りたいからここに来たんでしょ?」

「大丈夫よ」

 と、私は後藤さんの背中を文字通り押した。

 彼女はつまづいて前のめりになったが、運良く倒れなかった。

 エプロンを着けている奈波を眼前に、かなり狼狽うろたえているようだが。

「そ、そうです! わ、私は、料理下手ながらも、料理部に入りたいという風に思います!」

「料理下手な方でも大歓迎! というポスターを作っておけばよかったのかな……。えへへ」

 言いながら、奈波は照れくさそうに頭を掻いた。

「そういえば、私にポスターの作り方を見せると言ってたっけ? それなら、新しいポスターを一緒に作ってみようね」

「ああ、そう言ったかもしれないね。でも、その前に料理しないとね! 彩夏が頼んだように、美味しいレシピをたくさん調べておいたよ」

 気のせいか、突然誰かの足音が聞こえてきた気がした。

 振り返ると、まさかの顔が視線に入った。

「結構賑わっているみたいね」

「へー、恵梨華も料理が好きだったのか?」

 きょうがくする私に、恵梨華はただ優雅に笑った。

「まあ、好きというか……興味本位で来たんだけど」

「じゃあ、恵梨華も入部希望なのね」

「そう言えるかもね」

「イエスかノーかだよもう! 言葉を濁している場合じゃない!」

 奈波の怒鳴り声とは裏腹に、部室はみんなの笑い声に包まれた。


 ――奈波が私に出会うまで、彼女の黒歴史のひとつに過ぎなかった料理部。


 ――奈波が私を救ってくれるまで、彼女が一人ぼっちで待つ料理部。


 とはいえ、蛾が豆電球にさえも引き寄せられるのと同じように、知名度のない部にもメンバーがいずれ集まってくるはずだ。

 そう信じて、私は残りのエプロンが誰に着けられるのか、言葉にできないほど楽しみにしている。

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【完結】赤き花の呪いと奇跡 私雨 @dogtopius

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