第12話 彼岸花の世界①

 本来ならば、あたしは今、廊下の冷たい床か学校の保健室にいるはずだった。

 それなのに、目が覚めると、あたしの視線が赤色で埋め尽くされている。

 ――これはまさか、自分の血なのか?

 そう思って少し身体を起こし上げようとすると、そうでもないことに気づいた。

 血と見間違えたものは、実は赤い絨毯じゅうたんのような数多あまたの彼岸花だったのだ。

 廊下で倒れたときにうつむきになったせいか、あたしの顔はさっきまで彼岸花に埋まっていた。

 あたしは立ち上がり、制服にところどころくっついた花弁を両手で払う。

 そのとき、すごくたわいもない思いがふと脳裏によぎった。

 ――彩夏もここにいるとすれば、彼女はどういう姿勢で起きたのだろう?

 目が覚めたのは入院したあとなら仰向けだったはずだ。しかし、まだ保健室にいたなら、彼女は存在しない椅子に座った状態で目が覚めたことになるのだろうか?

 瞑目めいもくしてそのばかばかしい情景を思い浮かべてみると、あたしは笑わずにはいられなかった。

 少し気が晴れたのはいいことだが、あたしには果たすべき使命がある。

 あたしは、彩夏を救わなければならない。大切な友達だし、風田先生にそう命じられたし。

 それでも、今の状況では不明な点が多すぎる。

 まず、あたしは一体どうやってここに来たのか? 

 気を失ったまま自力でここまで歩いたとは考えにくいので、誰かに連れ去られたのか? 

 いや、見たところ縛られていないので、これは誘拐事件ではあるまい。 

 それなら、学校図書館の司書と関係があるのかな?

 最後に聞こえたのは彼女の声に違いない。しかしとても残念ながら、彼女が何を言ったのかは全然聞き取れなかった。

 でも冷静に考えると、司書はあたしをここに連れ去る理由がない。

 とりあえず、ちょっと散策しよう。

 もちろん彩夏を待たせたくはないが、それでも久しぶりに居場所に来たことには変わりない。

 歩けば歩くほど、頭が冴えていく。

 気を失うまでの経緯は鮮明に覚えているのに、どうやってここに来たかは未だにわからない。

 一言で言えば、悔しかった。

 とはいえ、今は悔やんでいる場合ではない。一刻も早く病室に戻らないと。

 善は急げ、だ。

 そう自分に言い聞かせ、あたしは秋空を見上げた。まるで試験中に天井を見つめれば答えがわかると思い込んでいる生徒かのように。

 秋にしては珍しく雲一つない空が眼前に広がっていく。

 見渡すかぎりの彼岸花が陽光に照らされ、見づらいほど真っ赤に彩る。

 雲はないとはいえ、秋ならではの清々すがすがしい風が吹いている。

 ツインテールは揺れているが、あたしの心は一切揺れていない。

 あたしは病室に戻り、そして必ず彩夏を救う。

 そう決意して、あたしは病院を目指して歩き始めた。

 

 気が付くと、あたしは学校の通学路にたどり着いた。

 道に迷ったわけではない。

 

 だから、あたしはまだ彼岸花畑にいるかもわからずに彷徨さまよっている。

 引き返そうかと思ったが、せっかくだから学校に入ってみたくなった。

 通学路を覆う彼岸花はさながら赤い草のようだ。

 歩いていると、何匹かの小鳥の鳴き声が聞こえてきた。この静謐せいひつたる世界の、唯一の音。

 小鳥たちのさえずりをBGMに歩いていると、あたしはロールプレイングゲームの主人公になった気分だ。

 校門をくぐり抜け、昇降口に上がる。

 生徒も先生の姿も見当たらなかったので、土足で廊下に入った。

 ――変だ。

 この時間だと野球部の掛け声が聞こえるはずなのに、二階の廊下の窓を覗いて校庭を見下ろすと、そこには誰もいなかった。

 やはり変だ。

 だって、野球部が部活をサボるわけがない!

 まさか、この世にいる人はあたしと彩夏だけなのか?

 そう考えると、あたしは慌てて目的を忘れてしまいそうになった。

 しかし、病室への旅に戻る前に、ひとつ確かめたいことがある。

 それは、あたしが気を失った場所の状態だ。

 そこに何らかの形跡があるかもしれないし、司書もいないなら学校図書館に侵入して探ることもできる。

 病室に一直線に向かうよりいい計画のはずだと思う。

 あと、本当にあたしと彩夏しかここにいなくても、何とかなるだろう。だから、焦ることはない。

 そう自分に言い聞かせ、あたしは学校図書館を目指して、廊下を進み始めた。

 

 あたしはもう、自分の目をも信じられない。

 これは何らかの幻視のはずだ。だって、そうだろう。

 いくら何でも、

 何度も何度も目をつぶっては開ける。それなのに、眼下にあるあたしの身体は消えない。

 その事実に、あたしは目をみはらずにはいられなかった。

 また疑問が増えてしまった。

 ――あたしの身体はなぜここにあるのだろうか? そもそも、あたしはどうやってここに来たのだろうか?

 あたしは何もわからない。とはいえ、前に進まないと何も変わらないことくらいはわかっている。

 自分の身体に視線を落とすと、当然ながら凄まじい違和感を覚えた。

 見慣れた身体を見つめていると、彩夏ほど美人じゃないな、やはりツインテールが顔の形に似合っていないな、などと痛感させられてしまう。

 いや、自分の容姿に悩んでいる場合ではない。なぜかこういうときは、どうしてもたわいもないことばかり考えてしまう癖がある。 

「奈波よ、頭を使え! 使わないと、彩夏を救えないのよ!!」

 あたしは自虐的に叫び、涙を堪えながら苦笑を浮かべた。

 その叫び声が長い廊下に響き渡り、余韻を残していく。

 あたしを励ましてくれる人がいないなら、あたしは自分を励まさないとだめだ。

 あたしは右手を伸ばし、自分の身体に触――ろうとする。

 触るのではなく、触ろうとすると言ったほうが正しい。なぜなら、あたしの手は自分の身体に触ることなく床を叩いたから。

 まるで、幽霊を触ろうとしたかのように。(もちろん、幽霊に出会ったことがないので、触ろうとしたこともないのだが。)

 手を引っ込めると、ある可能性がふと脳裏にひらめいた。

 幽霊について考えていたせいか、あたしは幽霊の幽を含むもうひとつの単語をふと思い出した。

「まさか、幽体離脱?」

 繰り返すが、あたしは頭が良くない。なので、日常会話にあまり使われていない言葉があたしにはわかりにくいのだ。

 しかし、幽体離脱という言葉を知っているのは、それがタイトルだった曲を何回も聴いたことがあるから。

 幽体離脱は実は何なのかはよくわからないのだが、ある程度理解できる。

 幽体離脱、つまり自分の身体から離れているような感覚なのだというのはまず間違っていないだろう。

 それなら、今起きていることが全部に落ちるかもしれない。

 ああ、そうか、幽体離脱だけだったんだ! とはとても言えないが。

 とにかく、自分の身体を気にしているだけでは彩夏の捜索ははかどらない。

 次は学校図書館だ。

 あたしは視線を前方に戻し、すぐそこにある木製のドアを開けた。

 見てはいけないものを見てしまった償いをしなければならないことも知らずに――。

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