第10話 二回目のお見舞い

 いつもの教室。

 放課後のチャイムが鳴ると、みんな筆を動かす手を止めた。

「じゃあ、課題はこの三つの問題をやってみてください」

 先生がそう言うと、クラスのみんなは最後に起立し、帰路につく。

 ざわつく廊下の中、あたしは逆流に抗おうとする泳者スイマーかのようにみんなと逆方向に向かっている。

 他人にぶつからないように気を付けながら、彩夏のクラスを思い出そうとした。

 確か、2Bだっけ。

 廊下を進み、教室のドアを開けてみると、向こう側に恵梨華が教科書を学生鞄に詰め込んでいるところだった。

「あ、恵梨華! 今日も彩夏のお見舞いに行くね!」

「ええ、症状が良くなったかしら」

 この教室は、校庭を一望できるほど高い階にある。

 あたしは大窓の前に突っ立ったまま、野球部の掛け声に意識を向けた。

 教室に吹いてくる涼風すずかぜがあたしのツインテールをなびかせる。その風に吹かれ、大窓の両脇にあるカーテンも寂しげになびいている。

 野球部のみんなが楽しそうで、聞いているだけでこちらまで少し嬉しくなった気がする。

「奈波? そろそろ行くね?」

 あたしは恵梨華の声で我に返り、きびすを返した。

「うん、行こう」

 静まり返った教室の中で、あたしたちの靴音がよく響き渡る。古臭い木製のドアを開ける音も。

 この寂寞せきばくとした情景を見つめていると、彩夏が恋しくなった。

 

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「彩夏、また来たよ。聞こえているかな?」

 あたしは彩夏に訊いたが、答えたのは恵梨華だった。

「昨日調べたの。昏睡状態に陥った人は、言われることが聞こえることもあるらしい」

「へー、そうなの。じゃ、彩夏は多分あたしの声を聞こえているよね!」

「まあ……そういう声は、むしろ聞こえないほうが難しいからね」

「ツッコまないでよもう」

 ねるあたしに、恵梨華は優雅に微笑を浮かべた。

「とにかく、せっかくだからもっと意味のあることを彩夏に伝えよう」

「そう言われても、今日はほとんど昨日と同じだったし、別にこれといったことは全然なかったし……」

「確か特筆すべきことは起こらなかったかもしれないけど、とにかく彩夏に言ってみようかしら」

「了解」

 そう言って、あたしは彩夏のベッドに数歩近づいた。

 彼女の顔は相変わらず穏やかだ。

 目はぎゅっと閉じているが、口元はかすかに微笑んでいるように見えた。

 あたしはそれを見てわかった。彩夏はきっと、あたしたちがそばにいることを知っているのだ、と。

「ねえ、彩夏。聞こえているでしょ。とにかく、今日は久しぶりに早起きができたのよ。ちゃんとツインテールを結ぶ時間があって、我ながらよくできたと思う。あはは。でも彩夏に見せたいから、早く元気になってね。じゃあ、次は恵梨華の番だね」

 あたしが下がるのと入れ替わるように、恵梨華はこちらに向かってきた。

 病室の窓に吹き込んでくる微風そよかぜに、恵梨華の前髪がずれる。

 恵梨華は手近な椅子をベッドのそばに引き寄せてから、おもむろに座った。

 窓から差し込む月明かりに照らされ、制服のしわの輪郭がかなり際立った。

「こんばんは、彩夏。生徒会は相変わらず忙しいんだけど、そろそろ一段落すると思う。そしたら、もっと彩夏と話せるね。そういえば、クラスのみんなも一緒にお見舞いに来ないかしらと先生に提案したの。その結果、許可された! だから、もう少し待っててね」

「まあ、これでネタ切れだよね……」

 と、あたしは頭をかきながらツッコんだ。

 その言葉に、恵梨華は突然立ち上がる。

「もう帰るの、恵梨華?」

「いいえ。珈琲コーヒーを買いに行こうと思った。奈波も行く?」

「あ、実はあたし、珈琲が苦手だから……」

「そうか。では、行ってくるね」

 そう言って、恵梨華はこちらに微笑みかけ、踵を返した。

「うん」

 かくして、恵梨華は病室を後にしたのだった。

 彩夏と二人きりになったあたしは、手持ち無沙汰でいても立ってもいられない。

 なんでもいいからやることを探そうと病室を見回してみたが、やはり何もなかった。

 とりあえず、恵梨華が使っていた椅子を借りよう。手を伸ばしてこちらに引き寄せると、未だに残っている恵梨華のぬくもりが指に伝わる。

 恵梨華が戻ってくるのを待ちながら、あたしは無意識に天井を仰いで長い吐息を漏らした。

 彩夏は病気だとはわかっているが、一体どういう病気なのかよく把握できない。

 目を開けられないので視覚を失ったのは確実なのだが、だからってあたしたちの声が聞こえないわけではない。

 それでも、どうしても不安になってしまう。

 ――恵梨華は正しいのか? 今更、彩夏に話しかけても意味があるのか?

 そんなおもんぱかりは嗅ぎ慣れない香りに遮られた。

 天井から視線を前方に戻すと、恵梨華が戻ってきたことに気づいた。もちろん、珈琲コーヒーを片手に。

「戻ってきたよ、奈波。私がいない間、何していたの?」

 立ち昇る湯気が病室の息苦しい空気に漂う。なぜかはわからないが、換気が故障しているようだ。

「何もしなかったよ」

 もちろん将来について慮ってはいたが、それを言ってもまったく無意味だろう。

「そうか。ところで、ついさっき課題を思い出したので、この珈琲を飲んでから帰ろうと思っているんだけど。奈波はどうする?」

「帰ろうかな……。でも、彩夏を一人にさせたくないなぁ」

 ちゅうちょ逡巡しゅんじゅんしているあたしに、恵梨華はわずかな笑顔を見せてくれた。

「まあ、いつでもここにいられるわけでもないしね。そろそろ帰って晩ごはんを食べてくださいね」

 その助言を残し、恵梨華は踵を返して再び病室を後にした。

 ――そういえば、たった一分で珈琲を飲み終えたのか? 

 猫舌のあたしには想像もつかないことだ。やはり、生徒会役員はみんな恐ろしすぎる。

 兎にも角にも、あたしもそろそろ帰ったほうがいいだろう。

 あたしは眠っているように見えた彩夏の姿に最後にもう一度目をやってから、病室を立ち去った。


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 冷蔵庫の低い音が台所に響く。

 ドアを開けると、あたしは作りやすそうな晩ごはんを考えてみた。

 かなり長い間病室にいたし、空いたお腹が糧をこいねがっているのだろう。

 しかし、料理の腕が高いあたしでも料理する気にはなれない。病気にかかったのはあたしではないにもかかわらず、なぜか病院にいるといつも疲れてしまう。

 健全なあたしがこんなに疲れているのなら、彩夏はどれだけ疲れているのだろう……。

 とにかく、恵梨華の言う通りだ。晩ごはんを食べないといけない。

 欠伸あくびをして下ごしらえを始めた。まあ、下ごしらえというか、パンをトースターに入れるだけだが。

 あまり栄養的な晩ごはんでないことはわかっているが、今日はこれしかできないのだ。どうか許してください。

 あたしは冷蔵庫から持ってきたジャム瓶をテーブルの上に置いてから、パンを二枚取り出してトースターに入れた。

 なぜか、今夜は台所の照明がやけに眩しい。

 ここにいるだけで頭痛がする。これくらいならまだ耐えられると思うが。

 パンが焼けるのを待ちながら、あたしは台所の片隅に身体を預けて吐息を漏らした。

 明日は学校があるし、晩ごはんを食べ終えたら寝たほうがいいだろう。

 ぼんやりと天井を見上げていたあたしは、トーストが上がる音で突然我に返る。

 トーストを手近な皿に載せ、ジャムを適当に塗り始めた。

 たかがトースト、されどトースト。空腹感のせいか、意外と美味しそうに見える。

 満月が綺麗に光り輝く、雲一つない夜空に心を奪われたまま、あたしは独りで食べ始めたのだった。

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