第二章 赤き花の支配

第8話 石川奈波の使命

【数日前】

 

 料理部の部室のドアが久しぶりに開くと、入ってきたのはあたしの顧問、藤野ふじの先生だった。

「お久しぶりですわね、石川いしがわさん」

「はい、お久しぶりですね。今日はなんのために来たんですか?」

「残念ながら、悲報を知らせるために。料理部は廃部になりかねないわよ」 

「本当? まあ、全員が急に幽霊部員になっちゃったから無理もないね」

 あたしはうつむいた。

「でも、確かに悲しいです。料理の楽しさを、もっと多くの人に伝えたい」

「それなら、新しいメンバーを勧誘する必要がありますね。他に料理に興味を持っている友達がいるかしら?」

 顧問の言葉に、あたしは学食での会話をふと思い出し、妙案がひらめいた。

 ――彩夏さやかだ! 彩夏を勧誘してみよう!

「はい、もう一人いるんですよ! 風田かぜた彩夏。その名前、聞いたことありますか?」

 藤野先生は首を横に振った。

「いえ。でも風田先生の娘なんでしょうね。面白そう」

「じゃあ、彼女を勧誘しようと思います! ありがとうございました!」

「それでは、私は忙しいですから」

 言って、藤野先生は部室を辞去した。

「彩夏と一緒に料理する……嬉しいなぁ」

 あたしの独り言が部室に寂しく響いた。


 何分か後、突然ドアが再びからりと開いた。

 顧問が戻ってきたのかと思いきや、そこに立っていたのは息を切らした彩夏だった。

「さ、彩夏?」

 あたしはあえぐ彩夏を見てきょうがくする。

 まさか、あたしを見つけるために全力疾走でもしたのか?

「どうしてここに?」

 答える前に、彩夏は片手で汗を拭った。

「探していたよ。今までは帰宅部だったけど、今日同じ部活に入ろうと思った」

 彩夏は料理に興味があるとはいえ、正直自分から入部するとは思わなかった。

「そう? 実はね、メンバーが少ないんでここは廃部になりかねないと顧問に言われたんだけど」

 あたしの言葉に、彩夏はなぜか目を輝かせる。

「廃部? それなら、私はなおさら入りたい」

「えー、嬉しい!」

 今回、目を輝かせていたのはあたしだったかもしれない。

 彩夏と一緒に料理をして、彼女に色々なことを教えて、あたしは本当に嬉しい。

 それでも、悔しくてたまらないのは、こんな幽霊部員だらけの料理部を彩夏に見せたくなかったから。

 我ながら料理が得意なはずなのに、みんな逃げてしまった。

 ――やはり、あたしは部長に向いていなかったのか?

 そう思って、あたしも彼女たちのように逃げた。

 入部希望の彩夏から逃げたのだ。

 なぜなら、嬉しかったのに、その嬉しさが悔しさに書き換えられてしまったから。

 そして、彩夏はあたしを追いかけてくれて、もう一度あたしを喜ばせてくれた。

 あの時、あたしは彩夏と友達になってよかったな、と実感した。

 いつもあたしを支えてくれる彩夏に感謝しても感謝しきれない。

 だから、あたしは恩返しをすると決めた。

 今度こそ君に料理を教えてあげる、と。

「じゃあ、まずはエプロンから。好きな色を選べばいいよ」

 そう言ってから、あたしは彩夏に微笑みかけた。

 新しい料理部が始まろうとしている。あたしにとって、それは何よりも楽しみだ。


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 彩夏が唐突に部室を飛び出したとき、あたしはかなり狼狽うろたえた。

 彩夏は母に連絡するのを忘れたと言っていたのだが、あたしはどうすればいいのかわからない。

 ――追いかけるべきか? ほっとくべきか?

 あたしを追いかけてくれたとき、彩夏も同じことを考えたのだろうか? いや、彼女なら咄嗟とっさに判断できたに違いない。

 それでも、あたしは未だにためらっている。友達が困っているときは助けてあげるのが常識だというのに。

 あたしは立ち上がり、部室のドアに向かった。

 エプロンで走るのは危ないので、念のため外しておいた。

 そして、部室を後にして、彩夏を追いかけ始めた。彼女があたしにしてくれたように。

 

 通学路の果て、彩夏の背中が目に入ってきた。

 彼女は家の玄関前で必死に鍵をいじっている。 

 そうか、ここら辺に住んでいるのか。どうりで遅刻したことがないわけだ。こんなに学校の近くに住めば、寝坊しても遅刻はしないだろう。

 あたしは立ち止まり、彩夏を呼び止める。

「待って、彩夏!」

 あたしの声かけに呼応して、彩夏はこちらを向いた。すると、彼女はなぜか唐突に謝った。

「こちらこそごめん! エプロンを盗んじゃって! どうか、許してください!!」

 その言葉の意味は咄嗟にはわからなかった。しかし、彩夏を頭のてっぺんから足の爪先まで見ると、未だに緋色のエプロンを着けていることに気づいた。

 彩夏は、あたしを怒らせたと思ったのか? あたしが怖いと依然として思っているのか?

 あたしは、一生懸命に彼女の友達でいようとしているのに……。

 いや、考えすぎているだろう。

 あたしは部長だから、エプロンを盗まれたら怒ると考えるのは一応理にかなっている。

「彩夏はエプロンを盗んでなどいないよ。彩夏が選んだエプロンだからね」

 ちなみに、それは彩夏を慰めるための真っ赤な嘘ではなく、あたしの本心だったのだ。

「ありがとう! でも時間がない!」

 そう言って、彩夏はまた走り出しそうになった。

 そういえば、彼女はお母さんに謝るために家に帰ったのだろうが、そうするにはまだ早いのではないか?

 なぜなら、彩夏のお母さん――風田先生はまだ学校で仕事に勤しんでいるはずだから。

「母は……こんな時間だと家にいるはずなのに、母を見つけられなかったんだ! 今すぐ捜しにいかないと!」 

 そうか、残業しないタイプなのだ。それでも、彩夏の焦燥はに落ちない。お母さんが教諭だから、たまに帰るのが遅くなって当然だろう。

 とにかく、あたしは彩夏の言葉を肯定して、彼女がつまずかないようにその緋色のエプロンを外してあげた。

 そして、あたしたちは一緒に風田先生を捜し始めた。

「あのね奈波、どこに行っているの?」

「彩夏のお母さんがいる場所に、でしょ?」

 あたしは風田先生の教室の場所を知っているのに、彩夏はなぜかお母さんを行方不明だと勘違いしているようだ。

 もちろん、あたしはそれを不思議に思ったが、詮索しないことにした。なぜなら、彩夏は今まで帰宅部だったらしいので、慣れていない部活をして頭が疲れているのかもしれないと思ったから。

「学校? 私の母は学校にいるの?」

「あはは、ついにおかしくなったね彩夏。本当に忘れたのか? 君のお母さんはこの学校の先生だよ?」 

 最初は彩夏が冗談めかして言っているだろうと思ったが、その時あたしはさらに心配した。

 彩夏はなぜ自分のお母さんの仕事を覚えていないのだろうか?


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 授業中、廊下のほうから二人の女性の声がかすかに聞こえた。

 この教室を通り過ぎているのか、彼女たちの声が徐々に大きくなってきた。

恵梨華えりか……そろそろ保健室に着くよね……』

 その声の持ち主は紛れもなく彩夏だ。

 自分を傷つけたのか?

 あたしが反射的に立ち上がると、みんなの視線がこちらに集まった。

「石川さん? 大丈夫ですか?」

 普通に考えたら、友達が――彩夏が保健室に行っているからって、あたしが授業をサボっていいわけがない。

 しかし、風田先生が教壇に立っている授業なら話は別だ。

「彩夏の声が聞こえました。彼女は保健室に行っているみたいですよ」

『うん……もう少し頑張ってね』

『ありがとう、恵梨華』

 静寂に包まれた教室に、二人の声がよく聞こえる。

「わかりました。石川さんは彩夏の友達だったんですね」

 あたしはこくりと頷く。

「石川さん。どうか、私の娘を助けてください」

 その意味深そうな言葉に、あたしはすかさず教室を出た。

 見慣れた廊下が目の前に広がっていく。

 視線を落とすと、なぜか床には血痕が点在している。それを見て、あたしは鳥肌が立った。

 すでに保健室にたどり着いていたのか、彩夏と恵梨華の姿はどこにも見当たらない。


「どうか、私の娘を助けてください」


 あたしはさっき風田先生に言われた言葉を復唱して、ふと気づいた。

 ――まさか、風田先生はあたしの秘密を知っているのか?

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