第2話 観測対象002:美都ハルカ


 ◾️



「……はぁ、だっる」


 口の中がヤニ臭い。

 アイツいつもタバコ吸ってるから、どうしても終わった後は口の中に嫌な匂いがこもる。

 会うまでに送られてきた甘ったるいリップサービスも嘘か幻だったのかと思うくらいに、行為が終わればサッサと帰っていく背中を見て、ホントに自分は男を見る目がないのだなと息を吐いた。


 下着を拾い上げながら、暗がりでスマホをタップすると時計は二十時を過ぎた頃だった。

「はッ」と乾いた笑いが溢れる。会ってからものの三十分足らずか。実にたんぱくで、欲望に忠実な男だと感心した。

 まあ相手してる時点で私も同類なのだが。


「うーわ、この後バイトじゃん」


 ギリギリまで忘れていたが、流石にサボれるだけの金銭的余裕などなく、私は怠い体を無理やり起こしつつ、泣く泣くバイトに向かう決意をした。

 しかし、そそくさと下着を身につけ、ボロボロの肌着とパーカーに袖を通した時、奴は現れたーーーーというか、既にそこに居た。


『やあ』

「……は?」

『君は美都ハルカだね』

「なんで……私の名前しってんだーーーーつか何お前キモ、どうやって入った?」

『君に伝えることがあるんだ』

「いやいやいや、まずはコッチの聞けよ」


 そこでハッと、まだ下半身が下着だけなのに気が付き、慌ててパンツに足を通した。よろけながらベッドに横向きにダイブすると、窓から差し込む月明かりに照らされ、男か女か分からない顔がチラつく。


「……で、誰だよお前」

『ネレグはネレグだよ』

「ねれぐ?」

『ああ、ネレグは君に伝える事があってきたんだ。もっとも、少し手違いがあってこんな時間になってしまったけれど、そこは謝罪するよ……本当に申し訳なかった』

「意味わかんね、あと伝える事ってなに?」

『うん、それはねーーーー』


 そこで私はようやく理解した。

 嫌にねっとりとした喋り方、異質な雰囲気、つまりはこのガキがただの不法侵入者ではないという事をだ。

 しかし、それを私が認識するのと同時に、奴はあっさりとこう言い放った。


『美都ハルカ、君に明日は来ない』



 ◆



 それからはよく覚えていなかった。


 漠然と言い放たれたネレグという子供の一言に、私は何故か半狂乱になりながら、手当たり次第に部屋のモノを投げたと推測した。

 自分の事なのに客観的なのは、その瞬間をあまり覚えていないからである。


 これまでもたまに有った。

 気持ちのバランスが崩れると、自分の意思とは関係なく、どこかへ発散しようと我を忘れてしまう。


 呼吸が整った頃には、辺り一面は酷い有様で、ひび割れた置き時計、コップの破片、壁の大きな窪みを目の当たりにし、「またやっちゃった」と後悔の念に駆られる。


「……隣のクソジジイが出張中で助かった。あいつすぐ怒鳴りにくるもんな」


 声が煩いなんてクレームは日常茶飯だ。

 いやいや、そんな事はどうでもいい。


 部屋の明かりをつけ、床に落ちたスマホを拾い上げた。


「あちゃあ、画面バキバキ」


 保護ガラスごとひび割れているが、どれどれーーーーうん、何とか反応してる、完全に壊れてない。


「もう二十二時過ぎ……え、なにこれ私、あのガキの言う通りだと、あと二時間で死ぬの?」


 明日が来ない。

 それは言い換えれば私の人生が今日で終わるという意味だ。

 やはり意味が分からん。自分があと二時間で死ぬなんて信じられる訳がないだろう。


「いや待てよ、もしかしてバイトに行く途中に事故るとか?」


 うん、これはありえる。よく漫画やドラマでありそうな展開だ。

 元々あの謎の子供の正体は分からないままだが、もしかすると神様のお告げだったのかも知れない。


「つまり私は部屋から出ずに家に居れば、事故死しなくてセーフって事じゃん。あは、はーい勝ち確でーす」


 何故か笑いが込み上げてきた。

 そもそもあの子供は夢かも知れないし、信じるのすら馬鹿らしい話ではある。

 朝のニュース番組の占いもそうだが、都合の良い部分しか見ない、人間のズルい所だ。

 おっと、バイトさぼりた過ぎて意味不明な思考回路になっちゃっている。


「あー……どうすっかなー」


 ピロン!


「お、ヒロキじゃん。なによ今更」


 LINEの通知画面に視線を落とす。

 何だよアイツ、とっとと帰ったクセに私が恋しくなったのか?


『ごめんもう着くから。愛してるよ』

 ピロン

『斎藤ヒロキがメッセージの送信を取り消しました』


「…………」


 送ったメッセージを取り消すって事は、つまりそういう事だ。

 ふーん、いい度胸してんじゃん。

 私とヤッたばっかなのに、もう他の女に会う約束だと?


「盛った猿かよ気色悪い。あーあ気分わる、もう今日はバイトやめやめー」


 床に散らばったガラスの破片を避けながら、部屋の隅に設置された小型の冷蔵庫の前にかがみ込む。そこから発泡酒を取り出し、ベランダに出て夜空を仰いだ。


「うわ、冷た。足元まだ濡れてんじゃん。風もちょっと寒いけど……ま、荒れた部屋の中よりマシか」


 発泡酒を一口含み、わずかな苦味と炭酸が喉を潤す。ヤニ臭さが多少緩和され、私は少しご機嫌になりながら夜空を見上げた。


「って曇っとるんかーい、あはは」


 どんよりした夜空には星ひとつ輝いていない。そういえば昨日から雨が降っていたっけか。

 雲から僅かに溢れる月の光を見上げながら、チビチビと発泡酒を飲み進めた。


「あーあ、何やってんだろ私」


 高校を中退し、バイトを転々として二十四歳になるまで生きてきた。

 男運はずっと無かった。あのヒロキですらマシだと思えるほど、クズな男達と付き合ってきたっけ。


「都会に出て、バリバリ働くかっけえキャリアウーマンになってる筈だったんだけどなー」


 両親は早くに離婚して、私の親権を握った親父もクソだった。

 酒、女、ギャンブル三昧。アイツ、私が中学生の頃に女を連れ込んでやがったっけ。中学生という多感な時期は、盛った大人共の声に塗りつぶされた。


「あはは、そりゃグレるわな」


 結局、クソ親父から逃げるように家を飛び出し、女という武器をフル活用しながら男の家を転々としたっけ。

 まあヒロキもそうだが、男なんてヤレたら何でもいいのだろう。そう考えると私もクソ親父が連れ込んでいた女と同類ーーーーなにそれサイアクじゃん。


「……こっから先、幸せになれんのかー」


 目頭が熱くなる。

 あれ、変だな。こんなメンタル弱かったっけ私。

 きっと酔っている所為に違いない。うん、きっとそうだ。


「にゃおん」

「ん?」


 ベランダの角から鳴き声が聞こえる。

 にゃおん、にゃあ。うん、どう考えてもネコちゃんですね。


「おーい、コッチおいで」

「にゃん」

「あ、ちょっと待ってよ」


 タンと地を蹴り、軽快な身のこなしで地面へと舞い降りるネコ。

 結構高い場所だが、うん、さすがはネコである。


「すげー。ひひ、そーだ生まれ変わったらネコになろう!」


 気が付けば発泡酒は三本目に突入していた。

 私はお酒は好きだがアルコールには強くないので、既に気分は最高潮と言っても過言ではない。


「おーし、真似しよ」


 嫌な事から目を背けたい心と、お酒の勢いも相待って、理性のタガが外れた私はベランダに足を掛けていた。


「ネコは自由だ。にゃんにゃん、あはは」





 ◆



「ふうん、こんな短時間でもちゃんと有効なんだね。またひとつ勉強になったよ」


 アパートの屋根の上で、サイレンの音に包まれながら少年だが少女だか分からぬ子供は独りごちていた。


「時間が限られているせいか、随分と無理やりだった間はあったけれど、流石は【宣告神ココル】の能力と言えるね」


 夜空を見上げると、雲に薄っすら隠れていた月が顔を覗かせた。


「今度はたっぷり時間を掛けよう。その方がきっと有意義なデータになる。他の分体が見つけた良質な人間はっと……うん決めた、次は彼にしよう」

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傍観者ネレグの観測 〜明日の無い人達〜 名無し@無名 @Lu-na

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