第16話 光魔法

「少し、散歩に付き合って欲しい」

 そう誘われて、予約時間があるわけでもないイオリティには断ることなどできない。

「はい」

 そのまま向かったのは、王族のプライベート庭園。いくつかのエリアに別れており、花が咲き誇るエリアは王妃お気に入りのお茶会テーブルがある。少人数のごくごく限られた客をもてなすときのために使用されるらしい。

「あそこには、俺も殆ど入ったことがない。幼少期、数回くらいかな。華やかな場所だそうだ」

「そうなんですね」

 イオリティは入ったことがないそのエリアは、王妃の熱心な信徒たちがよく自慢げに口にしている。

 それぞれのエリアをつなぐ通路には、低木が植えられて隠されるようにベンチが設置してあった。

(……ん?)

 なにか、ねっとりとした空気を左手の方から感じる。

 熟れすぎた桃のような、甘ったるく重く淀んだ醜悪な香りに、イオリティの足が止まった。

 それに合わせてユアンの歩みも止まる。

 からめとる意図を持っているのか、纏わりついてくる気持ち悪い空気。これには覚えがあった。

(これって、王妃殿下の魅了?……うっわ、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪っっっ!)

 縋りつくような捕らえようとするような動きをするそのくすんだ紫色の光が、イオリティの腕や足を這い上がってくる。

(やだやだ、きもっ!ナニコレ!)

 恐怖に駆られ、隣のユアンのことなどすっかり忘れ去った彼女は扇子を勢いよく広げた。

(こんなの要らない!気持ち悪っ!)

 顔を隠す様に広げられた扇子が、きらきらと軌跡を描く金色の光を集め始めた。紫が金の光に消されていく。

 気配を消して婚約者を見つめていたユアンの目には、光を放つ扇子だけが映っていた。あまりにも眩しくて、イオリティの姿は見ることができない。

(これが、光魔法か。嫌悪を感じる空気が薄らいでいくのが良く分かるな)

(ーーヤだ、もう無理!)

 焦った表情のイオリティは大きく踏み込むと、ぶわりと音がするほどのスピードで輝く扇子を払った。

 扇子から放たれた光が勢いよく広がり、彼女の制服のスカートや髪をふわりと舞わせながら紫の光とその気配を一掃する。

「……ふ」

 なんだかわからない爽快さが身体を巡るように感じて、ユアンは思わず笑いを溢した。

 清々しくて、多幸感が沸き上がるなんて初めてかもしれない。

 金色の光魔法はほんの一瞬ではるか遠くまで及んだ。

 新鮮な空気が爽やかな香りとともに辺りを満たし、おどろおどろしかった気配が小春日和の日差しのごとき柔らかさに変わった。

 きらきらとした光の残滓が地に落ちる前に消えていく。

(――ここは、こんなに遠くまで見渡せるほど澄んだ空気をしていたんだな)

 ユアンは、そっと息を深く吸った。体の内側が空気で洗われるような感覚に、視界が開けてくるのが解る。

 警戒を滲ませた険しい顔つきのイオリティは、木々に囲まれた向こうの方から陶器の割れるような音と短い悲鳴を聞いた。

 距離を開けて付いて来ていた数人の護衛がはっと我に返ってこちらへやって来る。

 三人はユアンの傍へ、もう二人が木々の向こうの声がしたエリアへ行こうと動き出す。

「待て」

 ユアンは二人を止めた。

「そこは、王妃あの母のお気に入りだ。下手に近づかないほうが良い」

「畏まりました」

 護衛に下がるように指示したユアンは、未だ警戒を解かないイオリティの手をそっと掬い取った。

「――イオ、もう大丈夫だ。ありがとう、おかげで助かった」

 囁くように耳元で告げたユアンに、呆然としたどこか現実を理解していないような表情のイオリティが振り返った。

「――殿下?」

 それは、彼女にしてはあまりにも無防備な問いかけだった。ぱちん、と扇子が閉じられる。

「ユアンと呼んでほしい、イオ」

 優しくもう一度囁かれたイオリティの目に焦りの色が広がった。

「で……ユアン様」

 慌てて距離を取り、礼を執る彼女の手を再びユアンが掬う。

「公に礼を述べることはできないが、ありがとう。とても助かった」

 そのまま何事もなかったかのように歩き出すユアンは、普段の様子とは違ってとても嬉しそうだった。

 事態を今一理解仕切らないイオリティは、思考を巡らせる。

(……あれ、王妃の『くすみ』よね?何であんなに溜まって淀んでたの?あれ、下手すると、人を取り込むとか、人に取り憑くとかしそうだったんだけど!?なんで、放って置いたの?ーーえ、待って!待って!殿下は私にどうにかさせたくって、ここに案内したってこと?ーーえ?私、お掃除係をさせられたってこと?)

 良くわからない間に利用されたのが、予想以上にショックだった。

(都合良く、使われた……?)

 重ねられた手の先から冷たくなっていくのがわかる。そして、ユアンの手の暖かさが現実から逃避させてくれないのも。

 この庭園に訪れた者が王妃の信者になる事態に王家はしてもやきもきしていた。イオリティが妃教育を受けている間はすぐ近くのエリアでお茶会をしていたため、そこまであの気配が広がることは無かったのだと気づいたのは最近のことだ。

 極一部の限られた者しか光魔法のことを知らないのだから仕方がない。

 彼女の妃教育が終了してから半年も経たない内に彼処は部外者の立ち入りを暗に禁ずる場となってしまったのも、仕方がなかった。

(あの場に平然と居られるサンドレッドが、ある意味異常なのかもしれないな)

 本人の特性なのか、サンドレッドはあの中にいても王妃の信者にはなっていなかった。むしろ、仲間なのかと思う行動も見られたのだ。調査の結果は、無意識、無関係だったけれども。

 だが、王妃から離そうにも信者達の妨害もあって叶わなかった。

(あの空気が少しでも和らぐかもしれない……と、ここを通ってみたが、こうまで成るとは)

 結果としては重畳だ。

「さあ、行こうか。あちらにお茶を用意させた」

 ユアンは微笑んでそちらへ向かおうとしたが、イオリティはにこっとややぎこちない笑みを浮かべた。

(……なんだ?)

 その違和感を確認する間もなく、断りの礼が執られた。

「申し訳ありません。そろそろ図書館へ向かわねば、調べものをする時間がなくなってしまうのです」

 完全なる拒絶。

 見えない壁のような確固たる隔たりを以てして、イオリティはすっと下がった。

「急ぎ、図書館へ向かいたいと思いますので、どなたか案内をお願いいたします」

 護衛に声を掛けると、一人が進み出てきた。

 本来ならば王太子の許可を執るべきだが、そんなことをする気にもなれなかった。

 護衛がユアンの方を見ると、少し呆然とした彼は慌てて許可を出した。

「すまない、予定があるのに無理を言った。ーー案内を」

「はっ。ではカスリットーレ公爵令嬢、どうぞこちらへ」

「ありがとうございます。では、殿下。御前を失礼いたします」

 何かを決定的に間違った、そう思ったユアンの前からイオリティは辞した。

 さくさくと護衛とともに歩く優雅な後ろ姿が、今までに無い一線を引かれた向こうにあるようだ。

「流石、カスリットーレ公爵令嬢ですな。ここまでとは……」

 護衛のふりをしていたのは、騎士団の副団長の一人だ。王妃の魅力の力の実害を懸念している一人で、イオリティの光魔法を知っている者でもある。

 事実、数年前にあの王妃の虜になっていたところを救われたのだ。庭園のことを憂いている王太子に、今回のことを提案したのも彼だった。

「あぁ、だが、お茶をと申し出た途端に拒絶された気がしたのは……」

 何かを間違ったからか。

「お疲れになったのでは?」

 あんなに濃い気配を一掃したのだ。その可能性はある。だが、それだけでも無さそうなのだ。

 傍に控える護衛は、その会話を聞いていた。口出しできない我が身が悔しい、と思う。

(殿下……公爵令嬢はお怒りだと思います……)







 お茶会を催していた王妃は、突然周囲にいた妖精の気配が消えたことに驚いた。

 産まれからずっと、自分の傍にいた愛の妖精。ちょっとずつ強くなり、どんどんと自分の望みを叶えてくれていた子は、一度たりとも離れたことは無かった。

「ひいっ!」

 がちゃん!

 目の前に座っていた侯爵夫人が、真っ青になってカップを落としていた。

 紅茶は入ってなかったらしく、カップが割れた音がしただけだった。

「そんな!」

 がたん、と椅子を倒して立ち上がったのはもう一人の客で伯爵夫人だった。

 二人ともがたがたと震え出し、異様に怯えている。

「どうなさったの?」

 驚いていた王妃は、その二人の様子にすぐ気づけなかった。

「あ、……あ、あの、王妃殿下。申し、訳、ありません。体調がすぐれなくて、ここで、失礼させてくださいませ!」

「わ、わたくしも、体調が、急に……」

 二人の真っ青で震える様子に、王妃も頷いた。

「ものすごく体調が悪そうね。下がっていいわ。お大事にね」

 優しい自分の言葉に二人も感動するだろう、と思っていたが、どうやらそれ処ではなさそうだった。

「は、はい。殿下にうつしてしまっては、大事ですので、これにて失礼させていただきます」

「わたくしも、失礼いたします」

 うつしてしまっては、の言葉にそれもそうね、と王妃は納得した。

 自分のお茶会に出たくて無理をしたのだろう、と。

 急ぎ足で庭園から去る二人の夫人のことなど、どうでも良かった。

「それにしても、どこへいったのかしら」

 きょろきょろと周りを見ても、妖精はいない。

「困ったわ……」

 紅茶のお代わりを命じると、何時もよりぎこちない動作の侍女がカップを取り替えた。

 居心地の悪そうな護衛の姿にも、王妃は気づかなかった。

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