第11話 誘蛾

 白歴736年 秋の月18日。


 スフィリーナにあるジャコヴィッチ中隊長の私邸には、ルベール参事官とゴル支部長補佐官が来訪していた。


「参事官殿! わては一体いつになったら大手振って外を出歩けますのや!? 白軍に出仕できますのや!?」


 応接間に二人を招き入れたジャコヴィッチが疲弊した様子で訴える。


「……処遇については未だ協議中。今しばらくは、特別休暇だと思って屋敷で大人しくしていろ」


 ルベールが言うと、ジャコヴィッチが目に見えて苛立ちを見せる。


「そっちの状況が分からへんねん! 支部はわてをどないする気でっか? どないなってますねん!?」


「あんた自分の立場分かってる? あんたのせいで色々大迷惑してんだよ。頼むから大人しくしてて」


 ゴル支部長補佐官が言う。


 ゴルはゴダ支部長の長男だ。父親と顔も体型もよく似た、肥満体の若い青年である。


「わては悪くない! 全部あの大隊長のせいや! わては被害者や!」


 ジャコヴィッチが顔を茹でダコのように真っ赤にして、頭から真っ白な湯気を噴出させる。そんなジャコヴィッチの表情を見たゴルが顔を両手で隠し、震えながらうつむく。必死で笑いを堪えているのだ。


「今、レードム査察官が大隊長の聞き取りに行っている。もちろん双方の言い分に関しては吟味する」


 ルベールが言う。笑いを飲み込んだゴルは深呼吸して溜息。


 ジャコヴィッチの言い分はこうだ。直属の上官であるチリメンヴィッチ大隊長が、黒軍の数を見誤り、ジャコヴィッチ中隊のみにバルセン平野での牽制を担わせた。そして、当初の予想より遥かに多くの敵が攻めかかってきたのにチリメンヴィッチは援軍を寄越さずジャコヴィッチ中隊を見捨てた。だからジャコヴィッチ中隊は退却した。こうなった原因は、チリメンヴィッチ大隊長が敵の勢力を読み違えたことに原因がある。自分は大隊長の判断ミスの被害者である。


 この主張はジャコヴィッチのものなので、チリメンヴィッチ大隊長、ひいてはバンジョー西支部激戦区総指揮官の見解も聞く必要がある。よって、現在、レードム査察官を激戦区に派遣して彼らに対し聞き取り調査を行っている最中だ。レードムはバンジョーやチリメンヴィッチに対する査察を終え、数日の内にはスフィリーナに戻ってくるであろう。


「あんなクソ大隊長の主張なんか聞いたって無駄や! そんなん、どうせわてに全責任を押し付けるに決まってますやん!」


「まあ、そうだろうな」


 ルベールがそっけなく言う。


「そうですやろ? 参事官殿も補佐官殿も、分かりますやろ!? だからそんな査察なんて意味あらへんって言うてますやん! とんだ茶番劇やぁぁん! 結論ありきの出来レースやあぁぁん!」


「茶番だとしても、結論を出すには段階を踏まねばならん。それに大局を見る立場からは、また別の見方が提示されることもある。あながち茶番とも言い切れん。だから当事者全ての証言を吟味し、最終的な処分を下す」


 ルベールが言うと、ジャコヴィッチの顔がますます赤くなる。


「ちょ、待って下さい! 処分って何ですか? 何でそないな話になんねん!」


 ジャコヴィッチが言うと、ゴルが首を曲げてうつむき、笑いを噴出させた。


「補佐官殿、何わろてますのや! 今、笑うようなとこやあらへん!」


「いや、あんまり身勝手なこと言うもんだから、笑けてきちゃって……。ごめん」


 ゴルが笑いを堪え、耳を赤くして目に涙を浮かべながら言った。


「いやいや、ありえへん! おかしいですやんそんなん!」


「経緯はどうあれ、お前の敵前逃亡によってたくさん死んだ。西も東も。正直、東はかなり厳しい目でこの件を見ている」


 ゴルが弛緩させた場の空気を、ルベールがすぐさま引き締める。


「だから全部あのクソ大隊長の責任や言うてますやん! わても敵に追われた被害者ですやん! もちろん東の人らにもそこら辺説明してくれましたよね?」


「いや、言ってない」


 ルベールが言うと、再びジャコビッチが赤くなる。


「ちょ、何でなんです? だっておかしいですやん! どうして副長殿や参事官殿はそこんとこちゃんと言ってくれへんのや! チリメンヴィッチのせいや言うてくれへんと、ずっとわてのせいって誤解されたままですやん!」


「バルセン平野の件より、追加資金の方が議題としての優先度が高かったのだ。但し、東はその根拠として、しっかり平野の件を紐付けてきたがな。こっちの借りにする形で。お陰で交渉は惨敗だった。と言うか、そもそも交渉の体すら成していなかった」


 ルベールが言うと、ゴルが「要はあんたのせいで断り切れなかったってこと! 金貨二万枚! 大金だよっ!」と言葉を添えた。


「だからわてのせいちゃう言うてますやん! 何で東に説明してくれないんですか!? このままだとわてのせいってことになってまいますやん!」


「正直、とてもそんなことを切り出せる雰囲気じゃなかった。仮に言ったとしたら間違いなく火に油だった。東が望んでいるのは責任者の処罰。それがお前だろうとチリメンヴィッチだろうと、東にとってはどっちでも同じこと」


「そ、そんな無責任な……。ハッ、わ、分かったで! ルベール殿とネリドル殿はわてを生贄にする気なんや! わてをスケープゴートにして事態の幕引きを図る気なんや!」


 ジャコヴィッチは泣きそうな表情でわめくが、実のところ、それができないから西の高官達は苦慮している。ジャコヴィッチは前支部長を叔父に持つ。ゴダがかつて世話になった人物の甥ということで、ゴダの意向により厳罰にストップがかかっているのだ。彼の言う通り、後腐れなくさっさとジャコヴィッチを処刑して事を収束させたいというのが西の高官達の本音であった。


「まあ、そうしたいのはヤマヤマなんだけどね~。親父があんたを殺すとサラダバー前支部長に申し訳が立たないって言うもんだから……。あんたの叔父さんも老害だよ、退役してんのにこうして影響力持ってんだからさ」


 ゴルが軽薄な口調で言う。


「そんな馬鹿な! 事実を捻じ曲げてますやん! 真実に蓋してますやん! 駄目ですやんそんなん!」


 ジャコヴィッチが更に声を大きくしてわめき散らす。ゴルが顔をしかめる。


「駄目なのはあんたでしょ? いい? 仮にあんたの言い分通りチリメンヴィッチさんのせいだったとして、ある程度処分は軽くなってもゼロにはならないよ? 酌量の余地はあったって、敵前逃亡したことは事実なんだからさ」


 ゴルが言う。


「わては全く悪くあらへん! 百パーあいつのせいや!」


 ジャコヴィッチが声高に主張するとゴルが「分っかんねえ人だなぁホント」と漏らしつつ、再び堪え切れぬ笑いを噴き出した。


「ともあれ、レードムの報告を待った上で、軍法会議を開廷する」


 ルベールが言うと、ジャコヴィッチの顔が引きつる。


「ぐ、軍法会議って……。そんな……」


「その際は、お前は被告人として拘束され、身柄を支部に移すことになる。それまでは屋敷の警備を強化する」


「警備の強化? 何でですか?」


「お前の精神状態を考えて黙っておくべきか迷ったが、現実を正しく認識してもらうために包み隠さず言う」


「はいぃぃ!?」


「フィレネ副長が恫喝してきた。もしお前を放っておくなら法に関係なく直接お前を裁くと言っていた」


「ええええっ!? ちょっと待って下さい! そんなんおかしいですやん! おかしいですやんそんなん! 何で!? 何でなん!?」


 顔を真っ青にして狼狽するジャコヴィッチ。


「フィレネ副長はまた追って話をさせてもらうと言っていたから、また向こうから何らかのメッセージはあると思うが、万一ということもある。警備は増やす。だからくれぐれも外に出るな。大人しくしていろ」


 ルベールが釘を刺す。


「そういうこと!」


 ゴルも言った。


「嫌や! 怖い! 東の刺客がわてを狙ってんのちゃう? わて暗殺されるんちゃう? 嫌やーそんなん! すぐレベリアに使いを送って申し開きして下さい! 誤解を解いて下さい! ぜーんぶチリメンヴィッチの責任やって!」


 ジャコヴィッチがたまらずルベールに懇願する。


「今そんなことしたら逆効果だ。わざわざ東を逆撫でして火に油を注ぐようなもの。はっきり言って会合の雰囲気は最悪だった。もしフィレネ副長の態度が兵の心情を代弁したものだとしたら、東の兵達は怒り狂ってると言っていいだろう。そんな中で下手な申し開きなんてしたら、最悪使者が首だけになって戻ってくる。そうなったら支部同士で戦が始まるぞ。お前のせいで。と言うか、使者を遣わしたところで多分門前払いで会ってすらもらえないだろう。それだけ向こうは怒っていた」


「そんな殺生な……」


「こうなったら被告人になって支部の牢に入ってる方が安全だ。東に対しては、激戦区に査察官も送り、法廷の準備を粛々と進めること自体がメッセージとなる。今お前にできることは、大人しく沙汰を待つことだけだ」


 ルベールが言い終わると、「そういうこと!」とゴルがにやけ面で一言添える。


 ジャコヴィッチの真っ青な顔は、恐怖と不安に彩られていた。




 伝えることも伝え終わり、二人が応接室を後にする。


 見送るジャコヴィッチの妻は不安に苛まれた、憔悴しきった様子だった。ルベールが形式程度の労いの言葉をかける。


 まだ歳幼いジャコヴィッチの息子が膝を抱えて泣いていた。ルベールは一瞥しただけでその脇を通り過ぎたが、ゴルは膝を折って息子に向き合い彼の頭を優しく撫で、「お前がうんと強くなって、父さんより強くなって、母さんを守ってやるんだ。いいな?」と声をかけた。先ほどのしまりのないにやけ面ではなく、真剣な表情で。


 息子はそれを拒絶し、耳をつんざくような金切り声を上げ、頭を撫でるゴルの手を思い切り跳ね除ける。


「じゃあな」


 ゴルは優しそうにも寂しそうにも聞こえる口調で言うと、ルベールの後に続いた。







 同じ頃、激戦区・西支部軍本拠地――。



 本拠地の会議室では、西支部本部より派遣されたレードム査察官によるチリメンヴィッチ大隊長への聞き取り調査が行われていた。調査には、ネリドル副長の副官であるアンナ――レンズの大きな丸眼鏡をかけ、栗色のショートボブの髪形をした若い女性士官――も同行していた。アンナは書記役として、先ほどからずっと紙にペンを走らせ、この聴取における発言を一言一句漏らすまいと、一心不乱に記録している。


「……なるほど、そういうことか。確かに、この資料における時系列とは矛盾しない」


「はい。全てはここに書いてある通りです」


 長時間に渡る厳しい聴取の中、チリメンヴィッチはレードムによる数々の問いに対し、如才なく回答していた。


「では、もう一度聞くが、貴官の判断に過失はなかったと。それが貴官の主張ということでいいのだな?」


 レードムがチリメンヴィッチに再確認する。


「査察官殿。先ほどから何度も申し上げる通り、敵の数からして、ジャコヴィッチ中隊だけでも十分に任務はこなせたというのが私の見解です。地の利もこちらにありました」


 チリメンヴィッチがテーブルに広がる地図を指差す。その先には、バルセン平野に作られた西支部の防壁が書き込まれていた。


「増援は送ったのか? ジャコヴィッチ中隊長は、援軍は来ず見捨てられたと証言しているが?」


 レードムが更に詰問する。


「送りました。しかし、増援が到着した頃にはジャコヴィッチはもう逃げていたのです」


 チリメンヴィッチは臆せずに言った。


「それはつまり、増援が遅かった。ということにならないかね?」


「遅かったも何も、ジャコヴィッチは敵と戦う前に逃げたのですから。それを遅かったと言われるなら、そうなのかもしれませんが」


 なおもチリメンヴィッチは毅然とした態度で回答する。


「増援を送ったということは、貴官はジャコヴィッチの隊だけでは数が少ないという認識を持っていたのではないか? 自分の采配ミスを隠して、黒軍の数を少なく申告しているのでは? ジャコヴィッチ一人に責任を押し付けるために」


 レードムによる、査察官ならではの厳しい詰問が続く。


「お待ち下さい査察官殿! これではまるで尋問だ! 大隊長が罪人のような詰め方ではないですか!」


 聞き取り調査に同席しているジェッタ激戦地副指揮官が意義を唱える。


「貴官の意見は聞いてない!」


 すかさずレードムがジェッタを一喝する。ジェッタは黙るも、レードムを見る目には敵意が宿る。


「敵兵の数についても、先ほど申し上げた通りです。他の兵も証言しています」


 チリメンヴィッチが言う。


「……ふむ、確かに、複数の証言は集まっているようだな」


 レードムが提出された書類に目を向けつつ言う。


「査察官殿」


 ジェッタと同じくこの場に同席するバンジョー激戦地総指揮官が口を開く。歳の程はゴダと同じく四十代半ば頃。一軍の将としては無能ではないが、取り立てて有能とも言えない。可もなく不可もない凡将といったところだ。北支部のレクシスは言わずもがな、白軍きっての名将が揃う他三支部の総指揮官達と比べると、バンジョーだけがどうしても見劣りする。これはオルジェ、ハリアル、ミラハ、ゴダの中でゴダだけが大きく見劣りする支部長勢と類似する構図である。しかし、彼が凡将とは言え、西支部の指揮官の中では優秀な方であった。何しろ、西支部はまともに実戦の指揮が取れない者が指揮官の座にあるケースもざらにあるからだ。


「何でしょうか? 総指揮官殿」


「ジャコヴィッチは明確な敵前逃亡だった。退却の体を成していない。証持ちの兵に対しても何ら命を下さず、待機させたまま逃げ出した」


「なるほど。その結果彼らはどうなりました?」


「言わせるのか? 棒立ちのまま無抵抗で皆殺しだ」


 バンジョーが無表情で、淡々と言う。


「ふむ……」


 レードムは深く溜息をつき、腕を組んで考え込むような仕草を見せる。


「証持ちではない兵も、明確な指示を与えられていなかったから統制の取れた撤退にならなかった。敵の追撃を受けて多くの戦死者が出た」


 バンジョーが苦虫を噛み潰したような表情で言う。レードムの隣に座るアンナも、固い面持ちでバンジョーに目を向け、すぐに書き取りを再開する。


「これは奴に捨てられ命からがら逃げのびた兵が教えてくれた情報です。お疑いなら、あいつらからいくらでも聞いてもらって構いませんよ。多くの証言が出るはずです」


 ジェッタがいかにも不機嫌そうな表情でレードムに言う。


「ジェッタ副指揮官、それには及ばん。今回の査察対象は大局を見渡す立場にある貴公らだ」


 レードムがジェッタに言う。


「それはつまり、大局が見えぬ一兵卒は本件の当事者ですらないと、査察官殿はそう仰り……」


「ジェッタ!」


 バンジョーがジェッタの名を呼び一睨みすると、彼は不満げに言葉を飲み込んだ。居心地の悪い沈黙が会議室を包む。ペンを走らせつつ、気後れしたように縮こまるアンナ。無表情で平然としているバンジョーとレードム。


「今、東とはどうなっていますか?」


 レードムが仕切り直すようにバンジョーに問うた。


「こちらでは既に詫びも入れ、手打ちにしている」


「東は納得したのですか?」


「そちらではこじれているようだが、最前線では仲間割れをしている場合ではないからな。中央に間に入ってもらい収めた。もちろん、腹の内では我々を苦々しく思ってるだろうが」


「なるほど。ダブレット上級司令官殿に仲立ちしてもらったんですか?」


「そうだ。ダブレット殿には本当に骨を折って頂いた。是非支部長の方からも礼状を送ってほしい」


「承知しました。戻ったらそのように取り計らいます」


 激戦区のダブレット上級司令官はパソコと違って西と懇意な関係性を築けている。今回はそれが奏功した形だ。


「とにかく、チリメンヴィッチ大隊長は最善を尽くした行動に終始し、直接的な落ち度はない。全面的な非は隊員に具体的な命令も下さず、戦わずして逃亡したジャコヴィッチ中隊長にある。これが派遣部隊としての公式見解だ」


 バンジョーがレードムに言う。チリメンヴィッチとジェッタもバンジョーに視線を送り、力強くうなづいた。


「最後に一つ。本件のことで、リエタ様のご勘気は?」


 レードムがバンジョーに問う。


「問題ない。リエタ様はこんな前線での中隊レベルの問題にいちいち関わったりはしない。あのお方からすれば、些末な話なのだ。クスター殿からはネチネチ嫌味を言われたがその程度だ。下手したら報告すらあのお方には上がっていないだろう。もしリエタ様がご立腹であればジャコヴィッチをそっちに送るまでもなく、ここで即刻処断している。悠長にスフィリーナで軍法会議などやっている場合ではない」


 バンジョーが答える。ずっと無表情だった彼の表情が、僅かだが曇った。


「それを聞いて安心しました。それでは、皆様の証言は、本部に戻り吟味させて頂きます。ご協力感謝致します」


 レードムが起立して敬礼すると、アンナもすぐに同じようにした。


 バンジョー達も着座したまま敬礼を返す。


「アンナ副官。戻ったら君からもネリドル副長に伝えてもらいたい。たとえ前支部長の親戚と言えども、公正に裁くべし、と」


 ジェッタが言うと、アンナは慌てた様子で「はい、伝えます!」と返し、再び敬礼した。







 秋の月19日、スフィリーナ・西支部本部・第二副長室――。




「大体のことはルベールから聞いた。どうだ。ヤバそうか?」


 ネリドルの執務室。


 サードがネリドルに問う。


「ヤバいです。ヤバいんですけど、まあ、考えようによっちゃあ」


 含みを持たせるネリドル。


「ほう?」


「ヤバいです」


「そうか」


「はい……」


 両者共、表情なきやり取り。無味乾燥。


「聞いたぞ。中央の大回廊でパソコやフィレネとやり合ったって。洗礼の是非を巡って。中央の暇人共の間じゃその話で持ちきりだとさ」


「そんなことになってるんですか」


「ああ。あんな目立つ場所で言い合ってたら、そりゃあな。何そんなとこでそんなヤバい話してんだよ。場所を考えろって。俺でも流石にそれはしないぞ。まあ、そういうの嫌いではないがな」


 サードが呆れた様子で笑う。


「忘れたい記憶だから忘れてたんですが、思い出しました。はぁ~、参った」


「激論交わしたそうじゃねえか」


「話が膨らんでるなあ。ちょっとやり取りしたぐらいですよ。でもまあ、普通に最悪の空気でしたね」


「だってお前、そもそも何も切れるカードもなしに、ただ金額下げて下さいって頼むだけじゃどうにもならねえだろ」


 サードが馬鹿にしたように、可笑しそうに笑いながら言う。


「どうにもなりませんでした」


 オウム返しするネリドル。


「しかも場外乱闘(※)だったんだろ?」


「はい。会合の場で二万枚出すって言ってしまい、言質取られちゃったんで。覚書に署名しながら、これまずいなって思って」


 ネリドルがしかめっ面で言う。


「署名しながら思ったって。じゃあそんときに言えって! サインする前に! 全然駄目じゃねえか!」


 サードが爆笑しながら言う。


「はい、全然駄目でした……」


 またもやオウム返しのネリドル。


「頑張って土下座したってのになあ、額こすりつけて。支部のために」


 サードがネリドルの額に巻かれた、血の滲んだ包帯を指差して言う。


「ええ、まあ……」


 ばつが悪いネリドル。


「なのにポチやタマにも怒られたって。犬や猫にまで怒られて、大変だったなお前も」


 膝を叩いて豪快に爆笑するサード。


「大変でした……」


 三度オウム返し。


 しかし、心なしか、サードに思い切り笑い飛ばしてもらえると、どういうわけかネリドルの暗澹あんたんたる思いが幾分晴れやかになる。難しい問題も、大したことがないように思えてくるのが不思議だった。


 一しきり笑うと、サードは口を固く結び、真剣な面持ちとなった。


「で、どうするつもりだ?」


「支部長に手を打ってもらいます」


「ということは、か」


「そういうことになります。本当は、コストカットで幾らか捻出するつもりでしたが、地下新聞に先回りして書かれてしまったもので、まだ何も決定してないのにもう反対運動が起きちゃって……。領民へのサービスの質を下げる気だって、凄く煽るような記事だったから」


 ネリドルはうんざりしつつ、しわくちゃになった地下新聞をデスクに置いた。サードが新聞を手に取りざっと眺めた後、すぐにデスクに戻す。


西支部ウチは何もかも筒抜けだからな。東の軍師様にやられたか」


「そうなんでしょうが、証拠もないので」


 この新聞を出している地下組織レジスタンス、あくまで西支部の批判に終始しており絶妙に中央の批判はしない。ならばネリドルも真剣にリソースは割かない。市民のガス抜きにもなる。


 過去、中央打倒を煽る新聞を出していた組織に関しては、首謀者や幹部の数名は処刑し、他のメンバーはティッキンケムの大監獄へ送った。そのことが見せしめになっているのだろうか。


 なるべくなら、エスカレートせずに西の批判に留めておいてほしい。一線を越えたら、気は進まぬが死んでもらうしかない。中央に従わねばならぬ以上、こちらとしては他に選択肢がないのだ。


「そうか、分かった。もうゴダは動いてるのか?」


「いや、実は待ってもらってます。もう少し考えさせてほしいと。この前の中央の船が襲われた件もあるので。今度来るジェノ殿の視察団と折衝することが決まったんですけど、賠償額は金貨一万超える見通しです。まだ言い値の段階ですが。どうせそれも例の資金で賄うとしたら、金を動かす回数は少ない方がいいので。少しでも時間を稼ぎたいってのもありますが」


「ジャコヴィッチのクソ野郎は?」


「とりあえず家から出るなって言ってあります。言ってありますけど、なんか夜出歩いてるんですよねぇ、あいつ……」


「何でだ?」


「娼館」


 尾行していた監視の兵も、心底呆れ果てていた様子だった。


「舐めてんなあの野郎」


 嫌な顔をするサード。


「もういいですよ別に。好きにしてくれって感じです。夜道で東の手の者に殺されてくれれば結果オーライだし。そんな優先度上げたくもないから、とりあえずレードムさんとアンナ君が戻って来てからですね。どうなるか全然着地点イメージしてませんが。それより今は金貨二万の方を何とかしないと」


「そうか……。ネリドル」


 サードが改まった口調で切り出す。


「はい」


「今あの金を使うのはやめとけ。今回の件は中央や東も噛んでるし、世間も注目している。こっちの懐事情も漏れてるみたいだ。下手したら公になるぞ。そうしたら今度こそ致命的なダメージになる」


 サードが言う。それはネリドルも重々承知であった。


「でも現状七諸侯からは集められて精々七~八千、予備費から最低限は残して四千と言ったところ。三大商会から借りるにしても二~三千ほどが限度です。多く見積もっても一万五千枚。とても足りません。やはりあの資金を使うしか……」


「荘園からも徴収すんだよ。聖域なんざクソ食らえだ。大体七諸侯あいつらの特権は太過ぎるんだよ。お前の一族も含めてな。前例を破るいい機会だ」


 サードがネリドルを真っ直ぐに見据え、迷いなく言う。ネリドルはその視線を受け止めきれず、サードから目を逸らした。


「でも、七諸侯は命に代えても先祖伝来の荘園は守り抜きます。私に彼らをまとめるだけの力は……。内乱になりかねません!」


 七諸侯は皆、武闘派の豪族だ。かつて先祖が切り取りし所領を持ち、自ら開拓した『荘園』の収入は特例として税がかからない。彼らは自らの力の象徴にして収入源である荘園を、各々が保有する軍事力で自衛するだろう。たとえ白軍が相手であろうと。白軍に認めさせた荘園の特権をそう簡単に手放すはずがない。


「構わねえ、そのときは俺が鎮圧してやる」


 サードが一切の迷いない様子で力強く言う。


「先輩……」


 不意にネリドルの胸が、薪をくべた暖炉のように熱くなっていく。


「だから気にせず、やれるだけやってみろ。お前が聖域に切り込め」


「……分かりました」


 ネリドルは意を決し、サードに応じた。


「今回の二万を乗り切っても、またすぐ東が金を要求してくるとも限らん。この前の五万といい、東が求めれば西がポンと出すって既成事実ができちまったからな。次に考えることは、何とか断れるような筋道をつけることだ。パソコ以外のルートを作るんでもいい。お前の人脈で何とかしろ」


「はい。それは既に考えています」


「よし。上出来だ」


 不敵に笑うサード。


 八方塞がりの窮地の中、サードの力強さを感じたネリドルの目頭が熱くなったが、努めて涙は堪えてみせた。




 そして三日後の秋の月22日。


 ネリドルの必死の調整の結果、七諸侯の当主達との臨時会談が実現。ネリドルは面倒だと渋るゴダを引っ張り、交渉の場に赴いた。


 日を跨ぐほどの長丁場の交渉の末、ついに七諸侯は荘園の既得権益を減らし、支部の追加徴収に応じることを約束したのだった。




(※)

西支部用語。

会議で正式に決定したことを後から覆そうと、終わった後で会議以外の場で関係者に接触を持つこと。

関係する者の信頼を失うリスクが高い上に期待した結果を得られる可能性も低い、そして無駄にこちらの弱みを見せることにもなるという、政治的駆け引きにおける悪手中の悪手とされる。

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