第159話
悪くなかった。
生前の自分の人生を振り返るならそう統括する。
自由はなかったし楽しいことが出来たかと言われれば微妙だったけど、確かに私は生きる理由が合ったんだ。
亡くなった両親が遺した妹。
私より十歳以上も年下の妹を育てていくために、私は探索者の道を選んだ。
それよりも効率のいい職業がなかったからだ。
モンスターの侵攻による被害から三十年と少し、すでに滅びからの復活による復興特需は終わりを迎えつつあり、そこから先は技術発展と進化のタイミングだった。
一番伸びるであろう魔力は国が主導しているため民間人が付け入る隙などなく、また、汚れたお金を手に入れようにも裏稼業と呼べる人達もほぼ壊滅していた。
だから生きる人は現実から目を逸らすことを許されなかったし、全員で前を向いていかなければならないと国が強く扇動する。
そういう時代だった。
私もその類から漏れることはなく、自立する力のない幼い妹を養うために、そして少しでも自分の人生を豊かにするために探索者の道を選んだ。
……それしかなかった。
優しい人に、妹がいると伝えて嫁入りすることも考えた。
だけど、誰も彼もがそんな余裕があるわけでもない。
田舎に行って農家に嫁入り?
悪くない選択肢だと思った。
けれど、他人に助けてもらうためだけに嫁入りしようという考えは、あまり彼女にとって好ましいものではなかった。
それに、まだ幼い霞はどうする。
食べるのには困らないだろう。
育つのにも困らないだろう。
だが、農家で育つということは、将来がほぼ確定してしまうようなものだ。
彼女──雨宮紫雨はダンジョン発生以降に生まれ育った価値観を持つ。
故に、農家の娘だろうがなんだろうが誰とでも自由恋愛が出来るダンジョン発生以前の世界を知らない。
この時代においてそんなものは無い。
絶対数を増やすために見合いのようなものを行い、結婚出来ない者は余程人格や能力に問題がある人間だけ。
探索者というリスクの高い職業を選びながら、妹を養うという選択をしている彼女は地雷と表現されても仕方のない女性だった。
(──結局、楽な道なんてないかぁ)
すやすやと静かに寝る霞の頬を撫でた後、彼女は居間で一人通帳を眺めていた。
「…………苦しいなぁ」
今はまだなんとかなる。
これから成長していけば更に養育費は増え続け、国からの補助金と自分の稼ぎだけでやりくり出来るかが不安になっていく。
それでも現実を一発でなんとかする魔法はない。
魔力技術は地に足ついた発展を続けるばかりで夢物語のような奇跡はなかった。
そんなものがあれば今ごろ、彼女の両親だって死ぬことはなかっただろう。
「……でも、頑張るしかない」
今は四級だが、せめて三級に昇格すればもっと給料は増える。
潜れるダンジョンが増えれば稼ぎが増やせる。
決して暗いことばかりではない──そう信じて、彼女は通帳を閉じた。
「紫雨くん? 大丈夫?」
声をかけられて意識が戻った。
目の前には不思議そうな顔をして覗き込んでくる男がいて、その人の手元には湯気の立つ珈琲が二つ分ある。
「……ちょっと、昔を思い出してたの。大丈夫よ」
「そう? 無理しないでね」
「出かけただけで体調崩すほど虚弱じゃないから、平気」
珈琲を受け取り、口元を隠しているマスクをずらして口に含んだ。
苦い。
苦いが、これくらいの味が好みだった。
甘ったるい味は気持ちを楽にしてくれるが現実を好転させてはくれない。
生前の貧しい生活の中で安物の粗雑な珈琲を愛飲していた彼女にとっては、これくらいの苦味が心地よかった。
「その……何からなんまで世話になっちゃって、ごめんなさい」
「これくらいはお世話に入らないさ」
そう言いながら男、勇人も隣に腰掛ける。
熱い珈琲をなんの躊躇いもなく口の中に運んでいるあたり、やはり口の中の感覚は薄いのだろう。
先日妹がプリプリ怒っていたことを思い出した。
「それより良かったのかい? 買わなくて」
「ええ。嵩張るし、今は
タブレット一つで買い物から税金納付まで済んでしまう時代だ。
旧時代のタブレットと比べレアメタルの代わりにダンジョン製の素材を扱うことによって魔力技術による進化を遂げており、性能も耐久力も別物になっている。
ダンジョン内に持ち込み激しい戦闘に晒されても壊れにくいのがその証拠だ。
「僕からすると業務用のタブレットでなんでも済ませちゃうのが恐ろしいと思っちゃうんだけど、そもそもWebサイト自体が管理・検閲されてるからなぁ。そりゃま、確かにそうすればなんの問題もないけどさ」
「…………?」
「ああ、ごめん。あんまり馴染みがないか。ダンジョン発生前は国が全て管理してるわけじゃなくてさ、資本主義だったから……言い方は悪いんだけど、法の抜け穴をついて金を稼いでも誰も咎められないってことが多かったんだ」
「……そうなの? 私が生きてた頃はもっと狭い世界だったわ」
「あはは、それくらいが生きやすいと思うんだけどね」
勇人との会話は不思議だった。
自分にとって未知のことを話してくれるし、その上見下すような言動は一切しない。
学ぶということを十分に行えず、将来の道も狭かった紫雨は知識欲が強い。
地上に戻ってから常に何かしら読書か調べ物をしているくらいだ。
それこそいまだに勉強が足りないと言って何かをずっと読み漁ってる勇人と同じで。
「でも、本屋はあんまり変わってなくて安心した。私でも見覚えがある感覚だったから」
「僕もだ。物理的な本を扱う限りあの形態が変わることはないのかもな」
香織や澪が復活した今、真の意味で孤独なのは紫雨だけだった。
自分が死んだ十年以上昔の常識はすでに役に立たない。
人の迷惑になることはしないとか、当たり前の倫理くらいは役に立っているが、それ以外はまるで別世界のように感じた。
魔力によって動く魔導機が普及し、一般家庭すらも充実している。
学生が一人一つは小型のタブレットを持っているなど想像が出来ただろうか。食事も安価で品質向上を遂げており生活に苦しむ者は少ない。
農家という受け皿も大きい。
挑戦し失敗すれば田舎で一次産業に励めば良いし、最初から安定を心がけているものは危険を冒さない道を選べばいい。
以前は少なく選ばれた人間しかやれなかった会社員勤務も決して狭い門ではなくなった。
道を歩くスーツ姿のサラリーマンを見ればそれはすぐにわかる。
「……私の生きてた時代とは、まるで違うわ」
地上に戻って早数ヶ月。
落ち着いて活動できる拠点、言い方を変えれば『住む家』を手に入れたことで現実に目を向ける余裕が出来た紫雨は、ようやく自分がどんな世界に戻ってきたのかを実感した。
探索者の命は軽い。
軽いが、決して吹けば飛ぶようなものではない。
配信を通じて彼ら彼女らの奮闘と命懸けの死闘が一般的に知れ渡るようになり、それでもなお高い倍率を誇る人気の職業だ。
同じ四級でも給与の額が違う。
四級だった霞が受け取っていた金額と、かつての自分が受け取っていた金額はまるで別物。
当然時代が進むことによって技術も向上し探索者自身の強度も上がって求められるハードルが高くなったのだろうが、それはそれとして、紫雨は思う。
「いい時代になった……」
国の制度を見てもそう思った。
全員が前を見るしかなかった時代とは違い、今を生きる人々には周りを見る余裕がある。
前を向けなかったり、隣人の邪魔をしようとした者は強制的に国が篩い落とした。
今は前を向けない人は後ろで休むことが出来る。
隣人の邪魔をしようとした人間を周りの人間で止めることが出来る。
そう、余裕だ。
人口増加と発展、そして高い強度の教育により成り立つ一時的な余裕。勇人らが復活したことも大きな影響を与えており、これからますます一致団結して進んでいくことだろう。
「……勇人さん」
「何かな?」
「私にしてほしいことってある?」
直球で訊ねる紫雨に少し面食らいながら勇人は答えた。
「霞ちゃんと仲良くして欲しいなって……」
「それはお願いされなくてもやってる。誘った時も言ったけど、勇人さんに何か返したいのよ」
「うーん……ってもなぁ」
「これまでお世話になったし、こんないい世界で生きる権利を与えてくれたこと、本当にすごく感謝してる。だからせめて形に残るもので返したいの。……嫌だったらそう言ってちょうだい。香織さんにも澪さんにも、霞にも悪いから」
「嫌なわけないさ。ただそう言われてパッと何かを言えるほど気が利かなくてね」
紫雨はそれとなく香織らの企みに気がついている。
というか、妹がかなり、こう、なんとも言えない感情でこの男に絡んでいる姿を見て妻みたいな雰囲気の香織に怒られないかとヒヤヒヤしてた時に、澪に直接『気にしなくていいわよ』と言われた時になんとなく察した。
詳しいことは聞いていない。
ただ、それが悪巧みの類ではないし説明もすると言われたが断った。まだ勇人との付き合いが一番浅い自分が我が物顔で入り込んでいいと思わなかったから。
だから自分はまだそういう感情はない。
いい人だなと思うし、こんな人があの頃居てくれたらと思うことは何度もある。
しかし現実にそんな人間はおらず、紫雨という一人の探索者はダンジョンの中で孤独に死んでいった。だから、生前のことを考えて羨んでもそこまでだ。
ただ一つ思うのは──こんな風に甘えられる人が、昔は居たのだ。
優しい両親だった。
勇人に向けている感情はそういうものだ。
失礼なことは承知の上で、まるで実の親のような広い人だと思っている。
だから恩返しをしたいと思うのは普通のことだ。
ちょっと化粧をしたのもエチケットだ。
衣服もおしゃれなものを選んだのも、彼の隣に一時的にでもいるのならみっともない格好はしたくないと思ったからだ。
「まあ、今後とも仲良くしてくれると嬉しいかな」
「……欲が無いんだから。それとも、私に魅力はない?」
「そんなことはない! 君は魅力的だよ、すごくね」
「誰にでも言ってるくせに……」
「本当のことさ。そうじゃなきゃこうやって一緒に出かけたりしないし」
男との経験がほとんどないまま生きて来た紫雨にとって、勇人のような男とのコミュニケーションは非常に刺激的なものだった。
これは冗談。
これはお世辞。
これは全て彼の優しさが言ってることだ。
そう受け流さねば、なんだか悪い夢でも見てしまうそうな気がした。
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