第32話


 ドタドタバタバタ。


 洗面台から化粧台へ、化粧台から洗面台へ行ったり来たり。

 女性の朝は大変である、まさにそんな言葉を体現している少女──霞ちゃんは、汗を流しながら支度を進めていた。


 髪を櫛でとかしながらヘアアイロンで整えつつ、化粧水の準備をしてる。


 器用だ。


 そんな様子を見ながら電子ケトル──これは魔力ではなく電気で動くらしい──に余った水を入れて温める。


 何飲もうかな……お茶? 

 水だから味がしなかったって訳でもないし、味覚が無くなっているのは寂しい気分になる。やっぱりホラ、お茶って僕らにとってそうソウルドリンク的なところがあるだろ? 

 地上に戻ったら食べたい、飲みたいと思ってたものが少しはあったけれど、これじゃ台無しだ。


 そのままケトルが沸騰するまで待っていると、ゴオオォォとドライヤーの熱風を当てながら霞ちゃんがこちらをじっと見ていた。


「飲むかい?」

「いりません!」

「ははは、大変そうだねぇ」

「はははじゃないからっ!! なんでもっと早く起こしてくれないの!?」

「気持ちよさそうに寝てるものだからつい……起こしたら怒ったかもしれないだろ?」

「怒りません!!!」


 怒ってるじゃないか、とは言わなかった。


 墓穴を掘るなと昔散々言われた経験がある。

 あれは苦い経験だった……だって『もう私なんかおばさんで~』って笑いながら言われたら『はは、そうですね』と言ってしまうだろう? 激怒したおば──奥さん・・・に怒鳴られ仲間にも叱られデリカシーが云々とすごく酷い目に遭ったからね。


 まさかモンスターを殺す事にしか興味が無かったあの娘にすら叱られるとは……本当に苦い思い出だ。僕の未熟さが原因とはいえ、こんなことばかりだったので女性関係の思い出はロクなものがない。


 しかしそうだったのも昔の話。

 50年前、仲間達との旅で僕はデリカシーや空気を読むという技能を習得している。

 もちろん完璧とは言えないが、最低限、うん、多分最低限は出来てると思い込みたい。


 取り敢えず今は霞ちゃんの機嫌を取る事にしよう。


「そのままで十分かわいいけど」

「かっ……わいいとか、そういう問題じゃないんですよっ」


 初心だなぁ……。

 僕も女性経験は殆ど無いに等しいとは言え、流石にお世辞は結構言われたからね。ある程度は言い慣れてるし言われ慣れている。色男だのハンサムだの散々言われて来たし、肉体関係を求めて来た女性も居た。


 それどころじゃなかったから巧い断り方をよく彼女に聞いたなぁ、うん。

 懐かしい。


 その都度微妙な顔をして溜息を吐かれたけど、教えてくれたから僕の判断は間違ってない筈だ。


「まあ、身嗜みは綺麗な方がいいもんね。僕も手伝おうか?」

「あー……ちょっと待ってください。歯も磨かないと」

「なら髪の毛は僕がやってあげよう。50年前の令和ファッションになるけど良いよね」

「よくない……」


 テキパキ動いて洗面台から歯ブラシを持ってきて早速シュコシュコ磨き始めたので、後ろに立って髪の毛を手入れしていく。


 うーん、50年前に教わったことだから完璧には出来ないかも。


 でも意外と覚えてる事は多いんだ。

 何せ、大事な思い出だからね。

 一般の女性との思い出はないに等しいけど、親しい女性陣との思い出はそれなりにある。


 竹櫛だろうか。

 残念なことに櫛に拘りもなければ知見もないので、それが高級品かどうかもわからない。でも決して安物だったからと言って軽んじることはしない。手で掬った髪に優しく通していく。


「ん……っ」

「痛かった?」

「あ、いえ。ひゃんあり慣れてあくて」

「いつも自分でやってるの?」

「ふぁい」

「そっか、偉いね」


 綺麗な髪だ。

 よく手入れされてる。

 普段から手入れが間に合わなくなった髪を知ってるから──というか、まともに髪の手入れなんて出来ない人ばかりの時代。髪はおろか身体を清潔に保つのだって一苦労、その頃から価値観をアップデートしてないから手で触れた時驚いてしまった。


「ふがいひてきまふ」

「はいはい」


 一度手を離して、霞ちゃんの髪に触れていた手を眺める。


 失礼なことはするなよ、勇人。

 彼女は彼女、霞ちゃんは霞ちゃんだ。

 引き摺ってもいいが──いやまあ、情けないしみっともないから良くないんだけど、それは置いておいて──重ね合わせることは許さない。


 そこだけは履き違えちゃいけない。


「お待たせしました……どうしました?」

「ちょっと自分が醜くてね。言い聞かせてたところだ」

「……も、もしかして私でえっちなこと考えました〜? な、なーんて……」


 霞ちゃんは耳を真っ赤に染めながら言った。


 盛大に自爆したわけだが、ここからどうにかして彼女にダメージを残さず話を切り替えなければならないらしい。


 無理難題と言ってもいいだろう。

 現状僕がどう考えても性欲を抱いていないのは確かで、それは彼女にも伝わっている筈。それなのにこういう言い方をしたということは、僕の感情が伝わり、それをなんとか和らげようとしてくれたのだろう。


 さて、どうするかな。


 せっかく気を遣ってくれたのに恥で返すのは申し訳ない。


 ここはやはり、全力で乗っかるべきか。

 そっちの方がいいと僕の勘も告げている。

 ちなみに、この勘は戦いの時以外はポンコツなのであまり信用しない方が良かったりする。


「そうだね。霞ちゃんがあまりにも魅力的なものだからつい男としての本能が目覚めそうになっちゃったよ」

「あ……はい、ごめんなさい。嘘なの滅茶苦茶伝わってきました」

「…………そっか……」

「……はい…………」


 二人してなんとも言えない顔をしながら、無かったことにしようと無言で視線を交わして頷いた。


 配信してなくてよかった。


「え、えーと、それじゃあ続きをお願いします!」

「はいはい、それじゃあ座ってくれ」


 そして先程まで座っていた椅子に座り化粧水を手にした霞ちゃんの髪を再度櫛でといていく。


 サラサラだねぇ。

 髪を洗えてないと櫛でとくのも大変だったりする。

 頭皮を洗うには水だけだとアレだから、なんとか髪の毛を洗って綺麗に保とうとしたっけか。その反動だったのか、本当にたま〜〜に余裕のある人が支援してくれた時なんかは、綺麗になったからかなり彼女の距離が近かった。


 まあ、汚い自分はあんまり見ないで欲しいよね。

 僕だってそうだ。


「本当だったらヘアバンドとかで髪縛ってやるだろ? いいのかい」

「……軽く化粧しますけど、どうせこの後身体検査とかでダメになるのわかってますから」

「あ、そっか」


 忘れてた。

 僕は老廃物が出ないから、汗も出ないし垢も出ない。

 皮膚が削れれば再生は魔力に任せてるし、最後に負った怪我は……もう覚えてすら居ない。なんともつまらない男だ。こんなんじゃまたデリカシーがないって怒られちゃうな。


 自分の常識じゃなく相手の常識に合わせて考えないと。


 そんなことを考えながらやっていると、いつの間にか霞ちゃんは化粧水やらなんやらの処理を終えたのか、片付けを始めていた。


「ん〜〜……こんなもんでいいや」

「おいおい、全然髪の毛終わってないんだけど」

「それじゃあ、ゆっくり待ちますね」

「いいけど……」


 時計を見ても、時間はまだ30分はあるように見える。


 霞ちゃんが起きたのは15分くらい前なので、かなり頑張って身だしなみを整えていたのがよくわかるね。その隣でのんびり電子ケトルのスイッチを押している70歳の男性がいたらしい。


 ちょっとだけ心が苦しくなった。

 もう心なんてないかもしれないけど。

 

「僕がやるのは全然構わないんだが、髪型とかいいの? 整える時間足りないかもしれないけど」

「そんなピチッと決める場所でもないし……軽くでいいですよ」

「君がいいならそれでいいけどさ。ほら、そう言うのに疎いから」

「それにしては手付きが手慣れてる感じしますけど」

「はは、そりゃあね。昔よくやってたから」

「……そうなんですね…………」


 霞ちゃんはそれきり黙って、ゆっくりと髪に櫛を通す僕の手を受け入れ続けた。


 うーん、もしかして地雷踏んじゃったかな?

 でも別に霞ちゃん不機嫌そうな顔ではないし、むしろ、なんか申し訳なさそうな顔してる。


 これは……僕がやらかしたか?

 

 無意識に昔のことを話してる時に、よくない感情が漏れてるのだろう。


 ……彼女に隠し通すのは無理かもな。

 

 いつか話しておかないと後悔しそうだ。

 少なくとも意図してない形で僕の本音が伝わってしまっているのだから、悪い形で露見するより、ちゃんと話し合って伝えなくちゃ。


 でもそれは、今じゃない。


 まだもう少し時間が欲しい。

 僕が過去に区切りを付ける、その覚悟をする時間が。


 互いにそこを突っつくことはせず、迎えが来るまでただ緩やかで静かな空気が流れた。

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