第Ⅶ章 憧憬との離別 6
次に行動を起こしたのはシルヴァだった。
アスティが鍛冶技術課程を合格してしばらく経った頃……。
魔法院の酒場で有志による宴が開かれることになった。不定期で行なわれていることで、十六歳を過ぎれば誰でも入れる酒場だ。ある時は四人で組んだ楽器のコンサートであったり、ある時は華麗な踊りの会であったりする。魔法院には全院生及び全導師が余裕で入場できる大きな大きなホールがあり、芸術関連の発表会はいつもそこで行なわれるのだが、それと酒場のそれとではちょっと雰囲気が違う。ホールでやるのはどちらかという実施する年のひと月からみっちり練習をし、発表する方も観る方も相当力を入れて正装して行ったりするような感があるが、酒場で行なわれるのはもっと近寄りやすい、普段着で行って酒を飲み、食事をしながら見られるものがある。無論飛び入りも大歓迎という気安さだ。 この日の内容は管弦楽器によるものではなく、歌に劇性を含んでそれに合わせて踊るという、まあ言うなれば踊りのショーだったのだが、演目は未発表で、しかも年令制限つき、二十一歳以上からというのだから、相当濃密な内容らしい。秘密の匂い漂う未発表の演目もさることながら、院生たちが注目したのは、シルヴァが踊るということだった。彼の表現力は導師の折り紙付きで、型は正統派だが、決して教科書通りにしか踊れない、つまらない優等生の踊りではなく、多彩な方法で踊るやり方は歳の近い者たちなら誰でも知っていることだった。シルヴァは連日練習を続け、舞踊室からは情熱的な楽器の音と、それに合わせて何人もの人間が叩く手拍子の音、激しく床を打ち鳴らす音が防音壁を突き抜けて聞こえてくるという。その日が近付くにつれ酒場は準備に勤しみ、院生たちが部屋に帰った後の真夜中だけにのみ、照明などの支度ができたという。日中は彼らは自分の本業にかからなければならないからだ。その日のショーに関わる人間は、表舞台の人間も裏方の人間も、連日徹夜が続いた。
さて当日---------。
開始時間も夜九時と本格的な所を見せ、待ちに待った者たちが酒場に入ると、薄暗い照明のなか、奥の一部だけが照明に明るく照らされている。ここが舞台だ。舞台の背の場所には椅子がいくつかあって、そこに歌い手たちが座ると予想された。その周囲はテーブルでそこに客が座って酒を呑むのだ。
「すごい……凝った照明だね」
「ああ。なにしろ蝋燭だけでやるから大変だったろうな」
「毎日あれだけ手をかけたという噂もうなづけるわ」
アスティたちもやってきて近くのテーブルに座る。酒が運ばれてきて、それを飲みながらしばし歓談に興じる。知らぬ間にメンバーがやってきて、椅子に座りある者は楽器の最終チェックを、ある者は足を踏み鳴らす練習を、またある者は手をどうすれば一番美しく鳴らせるかを確かめる。そんな彼らの前に一人立ち、マントの紐をほどきながら何かを打ち合せているのだろう、小声で楽器の一人と話すシルヴァが見られる。
段々と、わからないくらい微かに、そうまるで日が知らない内に暮れるように、照明がわずかずつ落とされていった。
完全に室内が暗闇に包まれ、
咳一つ聞こえない闇が辺りを覆った時---------。
それは唐突に始まった。
突然鳴り始めるつややかなギターの音。激しく情熱的に。それに合わせ、単独による太い男性のコーラス、続いて高い女性の単独コーラス。何人もの人間がどこかで、そう酒場のあちこちで暗闇に乗じて移動したメンバーたちがそこここで手を鳴らしている。間断なく、強く、高らかに。
ダン!
強く床を踏み鳴らす音。暗闇に白い両手だけが照明に照らされて浮かんだ。
アスティは息を呑む。
鷹……!
両手を広げただけで彼はこの場を制した。
朗々とした歌声に合わせて、苛々するほどゆっくりとしかし威圧的に、シルヴァは両手を上に掲げた。
私がその女に出会ったのは
年に一度のカーニバルの日
「ねえ」
ラウラが囁く。
「これ……」
アスティもうなづく。
「うん。『ラドルティの女』だ」
シルヴァの最も得意とする、踊りの分野では『情熱系』と呼ばれる演目だ。なるほどこれが演目では、十代の院生たちにはちょっと目の毒だろう。
タタタタン
タタン
手鳴らし役がまた同時に足を踏み鳴らし始めた。
ダン!
ダン!
その中で、シルヴァが床を踏み鳴らす音だけが際立って響く。
赤と黒がよく似合う
黒い髪 赤い唇 赤いドレスの女だった
あんなにわずかずつしか動いていないのに……シルヴァの全身から迸るように汗が出始めている。まだ一度も開かれていないその瞳は、苦悩に耐えるように何かを追究するかのように、じっと閉じられたままだ。
人を蠱惑する瞳のきらめき
私は一目でその女を愛した
一挙手一投足に全身全霊を込めているんだ……! アスティは鳥肌がたつ思いでそれを見ていた。あんなにゆっくりで、しかもまだ始まったばかりなのに、シルヴァの汗はもう流れるほどだ。アスティは、いや、彼女だけではない、そこにいる全員が、照明を浴びて白いオーラすら放つシルヴァから目を逸らせずにいる。
女は私を見
すぐにわかったように瞳で誘う
私は彼女に溺れ 彼女の奴隷となる
タン!
初めてシルヴァが大きく翻った。見せ場だ。初めて瞳が開かれる。人を射る鋭い瞳。
アスティ!
麗しくも私を悩ませるその響き
その名のあるところ 欲望と愛とが渦巻く
「……」
ラウラはびっくりしてアスティを見た。こういう段取りなのか? だとしたらアスティも人が悪い。しかし当のアスティもぽかんと口を開けてシルヴァの蒼い、鋭い瞳を見つめている。そのシルヴァの瞳は鷹のような恐ろしいまでの鋭さ、その剃刀のような瞳で暗闇の虚空一点を見つめている。
「---------」
ラウラは理解した。『ラドルティの女』はすべて代名詞で描かれた世界だ。『私』、
『その女』、『彼女』、等々。しかし熟達した者たちの中には、それに名前を負わせて描く者たちもいる。そうするとより歌や踊りの物語が生々しくなるのだ。シルヴァは主人公の『私』を演じ、『私』を悩ませる悪女たる『その女』の名前は今、『アスティ』と名付けられ、『アスティ』はアスティ、実在する彼女。偶然などではない、シルヴァはアスティという女が存在することを知っているのだから。つまり彼は、わざと『その女』を『アスティ』にしたのだ。踊りを知る者でこんな栄誉はない。
哀切で情熱的な歌声が暗闇をとろかし、シルヴァはまたゆっくりと踊り始める。その瞳はもう、彼のものであって彼のものではない。
「アスティ」
「アスティ踊って」
周囲のテーブルからひそひそ声で声がかかる。皆アスティが踊りに加わることを期待している。
タン
タタン タタタタタタ
「……」
音楽の調べと手拍子が繰り返しになった。先程と同じリズムだ。しかしこの後は、もっと別のゆっくりとしたリズムのはずだ。
アスティ
その名前 私はその名を愛し同時に憎くすら思う
私を翻弄する その名前を
「---------」
アスティが周囲の声に応じてすぐに出なかったのには理由がある。名前を使っただけなのか、それとも最初からこちらを呼ぶつもりだったのか、わからない内に出てしまってはもしかして違った場合彼らの作り上げる世界を壊すことになる。連日の徹夜を無駄にしてしまうことになるのだ。
タン
タタン タタタタタタ
---------タン!
アスティ
その名を聞いただけで 胸が震える
愛からではなく 翻弄される恐怖と喜びに
---------呼んでいる。
アスティの表情が変わった。彼らは自分を呼んでいる。この踊りに、この歌の劇中に、自分を必要としている。自分がいなくては進む芝居も進まないと、そう訴えかけている。 アスティは椅子からいつでも立ち上がれる体勢になった。目でシルヴァの動きを追い、耳で音楽と手拍子を聞き、いつが絶妙なタイミングかを測る。
一瞬、手拍子も足拍子も、音楽も止まった。
---------ダン!
シルヴァが強く足を踏み鳴らす。合図だ! 来いと誘われた。アスティはスッと立ち上がって熟年の舞子が着地するかのように軽やかに舞台に下りたった。女性コーラスを務めるリズレンが、さらりと赤いショールを彼女に投げる。アスティはそれを受け取り、スルリと見に纏う。その瞬間から彼女はラドルティで出会った悪女になったのだ。
挑むようにシルヴァを見、腰に両手を当てて挑発のポーズをとる。
ラウラは息を呑む。
『ラドルティの女』は数多くある演目の中でも最高の傑作といわれる。物語の秀逸さもさることながら、踊り手の器量によって名作にも駄作にもなる真の意味での芝居だからだ。 そして本来主人公はたった二人、『私』と『その女』なのだが、それだけに非常に難しいとされている。表現力だけで勝負しなくてはならず、その二人を徹底的にサポートする楽器組歌組、手拍子組の能力もかなり問われることになる。面白いのは、『その女』が飛び入りである場合というのが頻繁にあるのだが、その場合、『その女』を演じる踊り手は当然音楽組と歌組、そして肝心の主人公と一切の事前打ち合せをしていない。ここでこう組んで踊るとか、次はここの歌詞でこう出るとか、いっさいがわからないのだ。つまりこの演目の場合飛び入りが入った場合、すべてを即興でこなさなくてはならないということになる。アスティはシルヴァがどう出るかわからないし、アスティがどういう振りをするかわからない歌組、特にアスティの台詞を代弁する女性単独コーラスを担当するリズレンは、即席で彼女に合わせて歌わなくてはならない。無論その逆もある。すべてここからは台本がなくなってしまうのだ。
タン! タタタタン タタタタタタ
激しく手拍子が鳴らされ始め、ラウラは自分の思考を中断させられた。顔を上げるとシルヴァとアスティが肩を合わせ、向き合うように戦うように一度、二度と音に合わせて踊っている。『ラドルティの女』は稀代の悪女として劇中に登場する。しかし女の踊り手にとって『ラドルティの女』を演じるということは、この上ない名誉、最高の喜びなのだ。 自分の踊り手としての器量が一切の装飾なしに浮き彫りにされる。アスティはシルヴァによって、最高の踊り手最高の女として舞台に呼ばれたのだ。
男性単独コーラス担当のヴィラスが低く歌う。
行かないでくれ お前は私のもののはず
リズレンも返す。
それが嫌 縛られるのは大嫌い
アスティの片腕がスッと上げられる。その一動作に込められたエネルギー……その場にいた者は空気が微かに唸る音で感じ取った。
行かないでくれ 私だけを見ていてくれ
言ったはず 束縛は嫌い 束縛する男はもっと嫌い
ダン!
アスティがシルヴァを拒否するかのように強く床を踏み鳴らす。酒場のあちこちから二人を煽るような手拍子。嵐のようだ。
アスティとリズレン、リズレンとヴィラスの視線が絡み合った。
---------トン!
アスティは両手を広げ軽く翻った。アスティの独白である。
私は人を殺めて 自分の命を守った
何の申しひらきをする気もない
両腕を抱えられ
どこへでもつれて行けばいい
すれ違う人々に指さされ
そんなもの恐ろしくもない
でももう
恋をしている
あなたを一目見た時に
恋に理由などない…………
こっちを向いて
そんな簡単なこと
あなたはなぜとまどっているの
アスティの差し伸べた腕を振り払うように掴み、シルヴァは顔をそらす。一度も、そう一度も彼はアスティを見ようとはしない。
私を見て
シルヴァを誘うように見た、アスティのそのなまめかしさ。そこにいた男全員が唾をごくりと呑んだ。シルヴァはアスティの両腕を掴み、床すれすれまで放る。アスティはシルヴァに全体重を預け、背中を床につけそうなところまで傾けてみつめ合う。悩ましげなヴィラスの声と、甘いメロディーが響く。
「……」
「ラウラ……なに赤くなってんの」
リューンがラウラを見て言う。
「えっ……べべ別にそんなこと」
「……」
恋は遊びじゃないのよ
肩ひじはっても仕方ないのよ
名前も名誉も
何もかも脱ぎすてて
シルヴァはアスティにしなだれかかる。アスティはそれを甘やかに迎え入れる。妖艶な二人。
甘えて
甘えさせて
「アスティふだんもあーなんかな」
「……」
ミーラがおもわず言った言葉にリューンが呆れたような視線を投げ掛ける。
好きな男ができたの
さっき目の前を通りすぎたあの人
アスティはシルヴァの腕から離れていき……誰かを慕うように顔をそらす。
好きに理由などないって言ったでしょ
そんな私を愛してるんでしょう?
それなら私の手を離して
するり。シルヴァはアスティを失う。その手のなかにはもう、だれもいない。
抱きしめても
心はもうあなたのものじゃない
シルヴァはアスティを抱きしめようとし、
アスティはそのシルヴァを冷たく振り払う。
打たれても泣かれても
私はもう冷えている
私の中では終わってしまったの
ダン!
ヴィラスが強く床を踏み鳴らした。独白が続いたアスティを代弁するリズレンの歌からシルヴァの心境を表すたった一言の見せ場。
俺を愛してくれ
ダン!
リズレンが負けじと足を踏み鳴らす。アスティはすがるシルヴァを激しく拒否する。
やめて!
それを聞いたとたんに嫌になる!
自由にさせて!
ドン!
一斉にメンバーが強く床を踏み鳴らした。シルヴァの短い独白に移ったのだ。
心が俺にないのなら
この手で最期を
『抱き締め』、『ナイフをとる』という振りにシルヴァが移る。アスティは任せるままに。その腕の中にいる。
私を傷つけるのは愛だけ
私を救うのも愛だけ
抱きしめられた腕に刺されても
それが愛のためになら……
終幕。シルヴァの腕の中でアスティが息絶える。
力尽き、アスティは床に倒れる。その手を取っているシルヴァは、立ち尽くしたまま。 フッと照明が落とされ、彼だけが照らされる。シルヴァは苦悩するように後悔するように、そして解放されたように、両の手で顔を覆い天を仰ぐ。
ポロン……
哀切な楽器の響き。
私はその女を一度突き
女は そのひと突きで息絶えました
闇……。
一瞬後、酒場から怒濤のような歓声が沸き起こった。
ワアアアアアッッ!
全員が立ち上がって拍手し、嵐のような歓声。あまりのその大きさに、宿舎と離れているはずだというのに、もう就寝した若い院生たちが何事かと目を覚ましたほど。
舞台がほの明るく照らされ、主役の二人が汗みずくになって役目を終え、抱き合っている。互いへの感謝と祝福の抱擁だ。アスティはヴィラスとリズレンに同じように抱擁を交わし、楽器を鳴らしていたメンバーとも同じように抱き合い、最期にもう一度シルヴァと強く抱きあった。激しくきれる息の合間から、アスティはそっと言う、
「ありがとシルヴァ……」
「アスティ……」
耳元で、アスティにしか聞こえない声で。
彼は言った。
「好きだよ」
アスティは目を伏せる。
「……私もよシルヴァ」
ワアアアアアア!
二人は、しばらく歓声の中で抱き合っていた。
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