第Ⅶ章 憧憬との離別 5
六連斬りとは理論でいうと、攻撃の対象を六度に渡って斬ることである。一度斬ったのちに腕を大きく後ろに引いてもう一度勢いをつけて対象を斬る。それだけの勢いをつけて斬るのだから効果が絶大なだけでなく、六度に渡って同じ事をするのだから一撃必殺であることに間違いはない。しかし口で言うのは簡単だが、一度に同じ敵、同じ場所を連続して六度も斬らなければならないというのは、実は大変なことである。腕を後ろに大きく引いて相手を斬るということは、それだけ大きな動作をしなければならないということだ。 一度だけでも体力スピードともに浪費するのに、一瞬で六度となると、想像を絶する体力と速度が要求される。アスティはまず訓練の手始めとしてにんじんを斬ることから始めたが、一度がやっとでその後は的を外したり、にんじんが床についたりしてしまったりして結局成功したのは一度だけだった。六連斬りを成功させるためには、同じ切り口の内部に六つの深い溝ができあがらなくてはならない。
「……」
アスティは切れ目のひとつ入ったにんじんを見て、鍛練室に向かったという。
「うわっなんだありゃ」
「アスティだよ……すご……」
ミーラとリューンである。二人は鍛練室の前を通りかかり、廊下に面したガラス張りの場所からその場面を目撃した。
アスティは腕立て伏せをしていた。それだけならなにも驚くことはないのだが、アスティの周囲に水溜まりができていて、それが彼女の周りを取り巻いているものだから、二人がぎょっとして立ち止まったのであった。水たまりの正体は汗だった。無限に腕立て伏せを続けるアスティの体から迸った汗がいつしか水溜まりとなりあのようになっているのだ。 その凄まじさに、ミーラとリューンが思わず立ち止まってしまったのだ。
食事の時その話題になって、二人は疲れた顔のアスティに何回腕立て伏せをしていたのかと尋ねた。
「何回? ……さあ……数えないで限界までやったから……五千は越えたんじゃないの」
一同、思わず食事の手が止まってしまったという。
セスラスも三日に一度はやってきて、そのたびにアスティの訓練内容を見たり、自身も魔法文字の勉強をしたりと入念だった。来るたび彼はアスティのように腕立て伏せをしたり導師に剣の稽古をつけてもらったりしていた。それは、同じ運命同じ生命を共有するアスティだけが、今回の訓練によって彼よりも飛躍的に能力を伸ばす事を防ぐためであった。 アスティの能力が伸びることを防ぐことができないのなら、セスラスの能力を伸ばすしかないのだ。そのため国王は王城に帰ると疲弊しきっていて、何も知らないディレムを目一杯怪訝な面持ちにさせたという。
ふたりは[影]の訓練も絶やしてはいなかった。今では、かなり頑張ればの話だが、三日続けて[影]を出す事が出来るまでになっている。
アスティは地下室で、にんじんを手に呼吸を落ち着けている。
「……」
にんじんを目の前まで掲げ、じっと見つめてから放り投げる。
「やっ」
次の瞬間屈んで腰から剣を抜き、一気に斬り刻む。にんじんが音をたてて床に落ちる。「……」
汗を額ににじませて、アスティは転がったにんじんを見つめた。切れ目は三つ。残った三度は、どれも外した。これではだめなのだ。一撃必殺は、名の通り一度で相手を絶命させる究極の剣技でなければならない。はずしてはならない。百パーセントの絶対的確率で成功しなければだめなのだ。アスティはにんじんを拾い上げ、じっとそれを見つめてから後ろに放った。そこには何百というにんじんが転がっている。
「だめだわ。だいたいこれくらいで汗がにじむようじゃだめなのよ。……もっと体力つけなくちゃ」
呟いて、アスティは地下室を出た。ここ数日は、体力づくりだけに専念しなければ。
この日セスラスが現われて、導師に四時間の剣の稽古をつけてもらった後、ラウラ達と共に食事をしたのだが、完全選択方式の魔法院の食堂で、前に並んだ院生がこう言うのを聞いたという。
「にんじんのスープににんじんと大根の煮物ににんじんのサラダにヒレ肉ステーキにんじん和え……最近にんじんの料理多くない?」
「まあ他にもいっぱいあるからいいけどさあ」
仲間たちにとって、アスティというのは特別な存在だった。
幼い頃から特有の影を纏って生きてきたアスティ。美しく可憐で素直で勝ち気で誰よりも優秀なアスティ。そんなアスティに、男としても女としても、純粋な憧れを持たない人間がいるだろうか? 特に彼女の六人の仲間達は、その思いが強かったはずだ。
そして今、『永遠』を失ってしまったアスティと、将来確実に『永遠』を手に入れることができる彼らとでは、その間に埋めがたい細くも深い深い溝ができあがってしまっている。アスティが特別院生の称号習得のため修業を始めた時点で、彼らとアスティは同じでありながら確実に違うものとなってしまったのだ。
少なからず誰もが思っていたはずだ、
自分の気持ちにはっきり決着をつけなければならないと。
見よ彼女を。あんなに導師に憧れていて、未だその思いを断ち切れないというのに、自分の人生を生きるために必死に戦っている。添いとげることもままならぬ男との茨の道のために、ひたすら泣くのをこらえて彼女は永遠を手放した。
自分もやらなくては。彼女を見習って、さあ勇気を出して。
最初に動いたのはリューンだった。
彼はアスティが魔法院に逗留を始めた頃から美術制作室に閉じ籠もり、ひたすら何かを描き続けているらしい。山のようなデッサンの書き損じと、その細腕に時折ついてしまった油絵の具とが、彼の毎日の奮闘をよく物語っていた。リューンは生れつき美的感覚に優れていて、今まで美術室入りした数は魔法院史上でも最多の五つだ。そのため彼は美術室を管理する美術室長という役を負っている。その彼が制作室に入ったと聞けば、誰もがその作品を期待する。例え美術室入りしなくとも、リューンの描く絵がどれほど素晴らしいものか、皆嫌というほど知っているのだ。ミーラからすれば、
「あいつの美的センスはあのカオを毎日見てるからさ」
なのだが、これも彼からすれば褒め言葉だ。
そのリューンの作品が、導師たちの審査満場一致で美術室入りとなった。
魔法院はその日、リューンの作品のことで持ちきりだった。
絵はまだ発表されておらず、美術室入りから一週間経った今日が発表初日だという。
朝から美術室の前で今か今かと院生たちがひしめき、美術室内部は前代未聞の導師の監視役がついた。仲間たちも見にいこうとしたが、若い院生たちの勢いが何せ凄まじく、加えて日中の仕事が山積みになっている。一人前の上位魔導師は、導師の補佐や使い、年下の院生たちの訓練を教授したりと、毎日忙しいのだ。アスティもその日は午前いっぱい訓練に勤しんでおり、お目当ての絵を仲間と連れ立って見にいけたのは三時を過ぎた頃だろう。
「?」
「今の子……泣いてた?」
「なんでだろ」
美術室の方から歩いてきた院生を見て、全員が立ち止まり振り返る。理由もわからないまま、美術室を目指す。
絵は、入り口を入った左奥に収められていた。人だかりができている。遠目からそれは誰かの人物像を描いたものであるというのが辛うじてわかる。
「---------」
ラウラは ---------……凍りついたのを覚えている。なんだ? この感覚はいつか
体験した記憶がある。ああそうだ。アスティのあの絵。見ていると絵から滲み出る果てない愛情……あの絵を見た時の、胸の奥が締め付けられるようなぎゅっとされる感じとよく似ているのだ。
この絵もそうだった。
白い服を纏い、白いベールを付けている。背後には美しい森と湖。人物は、こちらを見てなんともいえない優しさと慈愛に満ちた笑みを浮かべている。ウエーブした髪が黒く艶やかに白い服の上にさながら滝のように流れている。その背後の空の美しさ。愛情に満ち満ちたその瞳、その笑み。それでいてなまめかしく、母性と同時に非常な女性を感じる。 そしてそれだけではない。
絵からまるで後光のように放たれる神々しさ。絵なのだろうか、これは? 思わず自分を疑ってしまう。何より信頼しているはずの自分を疑ってしまうほど、この絵は絵とは思えないほどの神聖さを漂わせていた。
問題なのはその顔だった。
ウエーブした髪も、その神々しさも、本人のものとはまったく違うか、或いは持ち合わせていないものだが、その顔だけは、誰がどう見ても知っている者の顔だった。
絵のタイトルに目を馳せると、
『
となっている。
そう---------……この顔はまぎれもなくアスティだ。
アスティの髪はまっすぐで、こんな風にウエーブしていたりしないしこんな神々しい顔もオーラも持っていないが、この顔はアスティだ。もうこれは、この近寄りがたいまでの神々しさは、人間ではない、人間はこんなに神聖さを感じさせたりはしない。アスティの瞳から涙が出てくる。ラウラの瞳から、シルヴァの瞳から。
絵に見入る仲間たち。ふと誰かの気配を感じて顔をそちらに向けられたのはアスティだけだった。
そこには、自嘲するような顔で口元に笑み浮かべたリューンが立っていた。
「……」
アスティは仲間や他の院生たちをかきわけ、リューンの側へ歩み寄った。
聖女。
そんな風に言われて嬉しくない女がいるだろうか。
リューンにそんな目で見られていたとは……アスティの胸を驚きと共に喜びが駆け抜ける。
「リューン……」
アスティはそっと近付いて、そして彼に抱きついた。リューンもわかっていたかのように彼女を迎える。その背に手を置いて、そしてそっと囁く、
「アスティ……好きだよ」
アスティもまた答える、
「ありがと……私も大好きよ」
こうしてリューンは、彼独特の、彼にしかできない方法で、アスティに想いを打ち明けたのだった。
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