第Ⅶ章 憧憬との離別 7
「痛だだだだだだだ痛ーい。も、もちょっとやさしく」
アスティの悲鳴が部屋から聞こえる。アスティの背中を押していたラウラの不満そうな声もだ。
「ちょっと触っただけじゃない……大袈裟なんだから」
言いながらぐい、と押す。
「いっっっったーい。もしかしてわざとやってない?」
「んなことするわきゃないでしょーが……もう……おとなしくしてなさい」
いきなり何の練習もせずあれだけの激しい踊りを踊って、アスティの全身は翌日筋肉痛だった。あまりに動けないのでラウラにほぐしてもらっているのだ。
「まったく……程度を考えなさいよね」
「……うー」
文句を言いながらも、ラウラの手指はアスティの身体の変化を感じ取っていた。背中も腕も、今までとは考えられないほどに筋肉がついている。別人のようだ。アスティはそれだけ毎日鍛えているのだ。アスティの特別院生習得への執念が、一瞬だけわかったような気がした。ちなみにこの次の日、アスティとシルヴァは、前々日の夜の騒ぎの原因として導師室に呼び出しをくらった。見習いの頃のように呼び出された。理由は、酒場のあの騒ぎだ。
酒場は場所柄を考えて宿舎とは離れた場所に位置している。そうでないと、就寝時間に規定された若い院生たちが酒場の笑い声などで眠れないからだ。酒場に入れない年齢は十六歳以下、五歳までは八時に、十三歳までは九時に、十六歳までは十一時という風に就寝時間を定められている。それ以上は就寝時間というものはない。
それでも就寝時間のある院生の、一番近い宿舎から酒場までは、軽く二キロはある。なのに全院生が何事かと起きてしまったというのだから、アスティとシルヴァが大目玉をくらったのは言うまでもない。
「……まったく、いったい何の演目を踊ったらあんなに大騒ぎができるのだ」
一通り叱られた後、導師のそんな言葉に肩をすくめたままアスティはいたずらっぽく言う、
「えへへへへそれは秘密でーす」
シルヴァが思わず吹き出したので、反省の色がないと、二人はもう一時間の説教をくらうはめとなった。
結局、見習いでも一人前でも、導師の前では大した差はないということだ。
ミーラは夜の魔法院から見える森の数々を沈黙して見つめていた。
「……」
普段能天気な彼しか知らない者は、ミーラがこんな表情をするとは夢にも思わないだろう。いや、彼がミーラだということすら、ひょっとするとわからないかもしれない。愛想がよく遊び人の代名詞みたいな生活を送っている彼だが、その根の真っすぐさといざという時の集中力の凄まじさは彼の一番弟子という称号が物語っており、近しい仲間たちもよく知っていることだ。
「---------」
秋の風だ。日中春のように暖かくまだ暖かいな、と思ったりはするが、太陽が姿を隠してしまえば、この冷たい空気と冴え渡った風……これはもう秋のものだ。
森を見つめながら、ミーラは一人沈黙していた。
リューンは、彼らしいやり方でアスティに対する想いを打ち明けた。あの絵は確かに素晴らしい。彼の今までの作品でも最高のものだし、きっとリューンの作品がこれからも美術室入りするとしても、あの作品ほど人を感動させるものはないだろう。
シルヴァも見事だった。誰にも真似のできない、火傷してしまいそうな熱い熱いシナリオと努力で彼はアスティに告白した。それは、アスティがセスラス王という人間を愛しているとわかっていても、女としてよりはまず仲間として見ているとわかってはいても、やはり越えなければならない壁だった。アスティは仲間たちの心の底にそこはかとない憧れのようなものを永遠に抱かせる存在だった。アスティと自分たちの立場が微妙に違ってしまった今、彼らは一度その憧れに見切りをつけなくてはならない。
---------オレはオレのやり方でやる。
ミーラは微かに白く染まった自分の息を見て、そして空を見上げた。
満天の星。銀の砂をちりばめたような星だ。
「……ミーラ? ……どこ?」
アスティの声が背後でする。
来た……。
「こっちだ」
後ろを振り向くと回廊の明かりを背にアスティの影が浮かんでいる。
「どうしたの? 呼び出したりして……」
暗闇に浮かぶアスティは美しくて……奪いたくなる。しかしそれはできない。アスティの心はセスラスのものなのだ。アスティは記憶を失って尚、肉体に本能のごとく刻みこまれた限りない愛情によって泣いてしまうほどセスラスを愛している。その彼女の気持ちを無視することは彼女の心に土足で踏み込むことだ。ミーラはごくり、と唾を呑んだ。
そして、いきなりアスティを抱き締めた。
「え……ちょ、ちょっ……と……ミーラ…………」
「好きだ」
「---------」
アスティの背中が一瞬強ばった。それは、自分に奪われるという不安からではないといことを、ミーラはわかっている。
「---------」
「好きだ」
ミーラはもう一度そう言って、それから、しばらくアスティを離そうとはしなかった。
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