第Ⅶ章 憧憬との離別 1
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「どうした」
会議が終わり、いつものようにざわざわと立ち上がったり話し合いながら退室する大臣長老たちを尻目に、セスラスが香茶を口にしながら書類を片付けるアスティに向かって言った。
「---------え?」
ふたりは会議の後の時間を有効に使う。長老や大臣たちと退室するのでも無論構わぬ、しかしそれでは毎日の会議にあまりにも彩りがないというもの、自分の国王という立場をいつもどこか皮肉な目で見ているセスラスは、こんなときこそとあまのじゃくな部分を発揮してわざと会議室からすぐには出ないようにしている。先程まで喧騒と淀んだ空気に満ちていた狭い部屋が、彼女の手によって開かれた窓からの風で新鮮な空気を含み緑を感じさせてくれる。二人だけになった室内は、この部屋の大きさをこの瞬間になって初めて正しく評価させてくれるのだ。
「疲れているようだが」
「---------」
アスティは答えなかった。答えずに、書類を片付けながらセスラスに背を向け黙々と作業を続ける。珍しいことだ。
「……」
セスラスは敢えて問いただすようなことはせず、黙ったまままた一口、香茶を飲んだ。
アスティが彼が気が付くほど疲れて見えるということは、普段滅多にない。アスティほどの人間である。体力は恐ろしいほどあるし、疲れていても他人に気付かれてしまうようではまだまだ上位魔導師としては未熟であろう。その辺でのアスティの工作は完璧で、彼女がリザレアに着任してしばらくの間は、津波のように押し寄せる政務のため、一週間ほとんど眠らなかったにもかかわらず、涼しい顔をしていたほどだ。気付かないよりは、気付いたほうがずっといいとセスラスは思っているのだが、アスティはそれを悟られたくはない。セスラスはそこまで働かせてしまうことに申し訳なさを感じ、アスティは主君にそう思わせてしまう自分を恥じる。
しかし……と、セスラスは思った。
(本当に顔色が悪い)
普段なら自分にこんな負い目を見せることすらひどく嫌がるはずだ。……それだけの余裕がないほど疲れているのか? しかしなぜ? 多忙期でもないのに。今季節は九番目の月、鏡空の月を一週間ほど過ぎた頃、夏の暑さも未だ残っている時期である。
おかしなことだとは思ったが、そんなこともあると別段気にも留めず、セスラスは香茶を飲み終えて立ち上がった。アスティがどこか静かな目で砂漠を見ているのにも、気付かないふりをした。
しかし時間が経つにつれ、つまり日が過ぎれば過ぎるほど、アスティの疲労は目に見えてその影を濃くしていった。ただ座っているだけでも息が荒く、苦しいのか辛いのか、知らないふりをするのにも気が重い。マンファルスや分隊長たち、アリス、普段そう顔を合わせることもない勇女軍の月番の者ですら、
「どうかなさいましたか」
と聞く始末だ。アスティは誰に聞かれても何も答えず、弱く笑うだけだった。いつもなら気丈に振る舞い、誰かに気付かれるような隙を見せた自分を強く責めた上ですぐに体調が戻るようにとうまく休むのに、そんな気振りすら見られない。それだけの余裕がないのだろうか。しかしアスティがなりふり構わず何かをするというのは、余程のことではないのか。それほどのことなのに、セスラスに何も言わないのはおかしい。もっとも、彼女はセスラスに告げることで自分が弱いのを盾に彼に迷惑をかけるような気がして、告げることをためらう節が多分にある。あの運命のお告げ所のある洞窟に行くのにも、そうして何日も何日もセスラスに告げることをためらっていたではないか。
そうこうするうちにセスラスは、ふと通りかかった会議室の開け放たれた扉から、中で事前の作業をしているアスティを見た。
「---------」
書類の整理は終わったのだろう、書類は整然と並べられている。それらを前にして、アスティは肘をついて自分の額を押さえている。頭痛でもするのだろうか。いや---------違う。今ちらりと見えた顔色。なんというひどい顔色をしているのだ。あれは勘違いや思い込みなどではない、見よあの荒い息。砂漠を全速で走り抜けた後のような苦しそうな息遣いは。
セスラスが思わず声をかけようとした時、アスティが立ち上がって窓辺に行ったので彼は
タイミングを完璧に逸した。アスティの身体が---------震えている。そんなになるまで一体何をしているというのだ。
これは、もしかしてきちんと問い糾したほうがいいのではないだろうか。しかしこうも思う、
自分に気を遣ってわざと言わないでいるのに、その配慮を無駄にしはしないか。
セスラスはこれでいつも失敗しているのを自分でよく知っている。傷を負っても決して見せようとしないアスティを、見せようとしないのは見せたくないから、本人が嫌と言っているのだから余計なことはしなくていいとためらって、そしていつも悲惨な結果に終わってしまうのだ。よくない癖だと思っている。しかしだからといって、すぐに言及するのも
アスティにとっては心が落ち着かないのではないか---------思うのだ。
大切なのはそのぎりぎりのタイミングを見計らうこと。彼はそう思い定めている。何度も同じ失敗はしない。いつかのように、彼女がその胸に剣を突き立てるまで気付かないなどということは、もうあってはならないことだ。
そう思って、セスラスは敢えてこの時、アスティには声をかけずに通りすぎた。
三日後、一体どういうつもりでそんなことを聞いたのか自分でもよくわからないのだが、とにかく、何か用事があってこんなことを侍女に聞いた、
「アスティは?」
と。若い侍女は一礼してから答える、
「ただ今お休みでございます」
それを聞いてセスラスは怪訝な顔になる。
「休む……? 眠っているということか」
「はい」
「---------」
考えを巡らせるためセスラスは椅子を窓に向けた。下がってよい、と侍女に言うのも忘れなかった。
さて……どういうことだろう、アスティが昼寝をするとは。あと三十分で会議が始まる。彼女に最後に会ったのは十分ほど前だ。アスティは会議では進行役を務める関係で会議が始まる十分前には支度をしなければならない。そうすると、大して休息できないのも自分でよくわかっているはずだ。わかっているのに昼寝をするということは、ほんの少しでもいいから休みをとっておきたいと思っているに相違ない。
セスラスの不審に思う気持ちは、益々募っていった。
そしてさらに三日後、その日珍しく二本ある会議の内の一本は夜からで、だいたい七時から始まり、休憩をはさんで終わったのは十時を少しまわった頃だったろうか。セスラスとアスティは軽く打ち合せを済ませ、廊下を並んで歩いていた。
「……」
アスティの必死に押し殺した荒い息が聞こえる。セスラスは気付かないふりをしていたが内心いま問い糾したほうがいいのだろうか、そんなことを必死に考えていた。
やはり今しかない。自分の中にある鍛えに鍛え上げられた戦士の勘、本能に近いそれが彼に今しかないと告げている。そしてこれを逃せば、またあの時と同じようなことが起ころうと。
そしてそんなことを彼が考えていた時。
「---------」
アスティの身体が大きく傾いだ。
「!」
思わず手を伸ばしセスラスは叫んでいた。
「アスティ!」
その声にはっとしたのだろう、アスティは意識を失う一歩手前で理性を保った。すぐに身体を起こし、自分を支えるセスラスの腕に掴まって態勢を整える。
「……前から聞こうと思っていたが---------お前は一体何をしてそんなに疲れている?」
「---------」
大して驚きはしなかった。自分の様子がいつもと違うということを悟られているのは知っていた。どだいあれだけ余裕がないのに隠し通せると思うのがおかしいのだ。
「---------」
アスティはセスラスの腕を振り払うようにして歩いた。平衡感覚が少し狂ったのか、よろ、とよろめく。
「アスティ」
叱るようにその手を掴む。
「今すぐこたえろとは言わん。しかし休んだほうがいい。誰か……」
セスラスが声を張り上げて侍女を呼ぼうとしたので、アスティは慌てて打ち消した。
「いいえ! 大丈夫です。ちょっと……ちょっとだけ立ちくらみがしただけなんです。 少し休めば大丈夫……平気です。ですから……お騒ぎだてなさらないで下さい」
セスラスは目を細めた。
「ならば部屋まで送る。オレの目の前でベッドに入るまでは一歩もお前の部屋から出ないぞ。いいな」
「! ……王……!」
アスティの呟きは悲痛なものだった。彼の言葉に反対しているとか、そんなことではないのだ、もう構わないでほしい、そんなものが表情から読み取れる。
「……そんなこと……していられないんです……」
「馬鹿を言うな。げんに今……」
「……だめなんです……行……行かなくて……は……!」
アスティは振り払うようにしてセスラスの手をすり抜けていく。いつもならこんなことは絶対にしない。
何を焦っている?
セスラスは壁を伝うようにして自分の部屋に行こうとしているアスティの背中を見て益々訝った。そしてその背中を見て思った、彼女がしたいようにさせようと。
しかしそこで黙っているわけにもいかない。セスラスは言った。
「アスティ……もうわかった。しかしオレはまだ納得したわけではないぞ。お前がこれから何をするのか、見届けさせてもらう」
「……」
アスティは振り向いて、汗の滲んだ顔でセスラスを見た。既に彼を諦めさせることも、それに反対するだけの余力が自分にないのもわかっていた。
アスティは少し下を向き、セスラスが歩み寄って支えるのにも任せ、そのまま二人で彼女の部屋へ向かった。
アスティの部屋に着くと、彼女は最初に棚から何か瓶を取り出した。
「?」
何の魔法薬だろう、今から何か儀式でも行なうのか。セスラスが思った途端、瓶に直接口をつけ、アスティは一気に中身を飲んだ。近くに寄ると強い酒の匂いがした。
「アスティ……?」
怪訝そうな呟きは激しく咳き込む音にかき消される。
「大丈夫か」
背中をさすりながらも彼女がなにをしたいのかがいまいちわからない。
「……すみません……こうでもしないと……もう限界なんです」
まさか酒に溺れて毎日具合が悪いわけではあるまい。セスラスが彼女の手から瓶を取って見てみると、彼ですら目を見開くほどの強い酒だった。
「アルコール度八十……!? 火がつくぞ」
「いいんですそれで」
アスティは口元を拭いながらバルコニーに出た。そしてセスラスに言う、
「側へ。……円陣に入って下さい」
言いながらも印を組み始めている。
セスラスも慣れたもので、それだけでどこかに〈飛空〉するのだと見当がつく。そして彼の予測どおり……しばらく砂漠を横切り、王城が小さく見えるほどまでの場所に来た時、アスティは術を解いて降りた。降りた場所は砂丘の上だった。アスティはその砂丘を静かに降りていく。一体何を始めようというのか。
(……)
来る……
「……王……今から、私はすべての余裕をなくします。
自分を守るだけで精一杯……王をきちんとお守りできるかわかりません。それでも……それでも見届けるとおっしゃるのなら」
「自分の身は自分で守る」
「……」
アスティはわからないように息をついた。諦めさせることはとうてい不可能。
《ジルヴェスを出させろ》
《帯剣もせず……バカかこの男は。いいから早く出させろジルヴェスを。やつなら守ってくれよう》
「……」
アスティは答えなかった。きっと自分が言わなくても、ジルヴェスは宿主を守るために自分からそうするに違いない。そうしなければ確実にセスラスは命を落とすし、セスラスが命
を落としてしまっては、ジルヴェスが困るからだ。---------そして自分も。
パ・・ァァ……ンンン……
案の定クリスタルをはじいたような音が背後でした。片方が起動した証拠に、自分も己れの渦を感じる。
《言わなくてもわかってくれたみたいだわよ》
《……ふん》
アスティは少し笑って、そして前方の砂漠を吃と睨んだ。
さわさわ
さわさわさわさわ
ざわざわ
ズズ……ズ……ズズズズズ
---------来る。
アスティの瞳が氷のそれになった。すべての念を術に集め、セスラスのことも、仕事のことも忘れて一点に集中する。
そして低く、早く詠唱を開始する。後ろで聞いていたセスラスが唖然とするほどに早い詠唱だった。
「我は命ずる汝等大地を守り大地に根付く麗し愛しの大地の精霊にして我が友の忠実なるしもべたる汝等に今我に刃向け我の血我の肉を裂かんとする者すべてを汝等の波動より解き放ち鎖を断ち切り一切の恩恵を留めし事を我の視線我の手によりて発動せよその力を」
前方から砂が盛り上がって何かが近付いてくるのがわかった。土龍か? いや違う!
人が見上げるほどの大きさだ。凄まじい速さで、そして凄まじい多さでどんどんこちらに近付いてくる。
ヒュッ
何かの影がいきなりそこから飛んだ。
「行け!」
ダウ!
---------ザシュッ
「! ---------」
セスラスは我が目を疑った。
あれは砂百足だ! しかもあんなに巨大化している。普通の砂百足は一メートルから二メートルくらいだが、優に五倍はある。いったい何が起こっているというのだ。
アスティは引き続いて詠唱を繰り返した。
「風よ! 我が友風の精霊よ! 今こそ我が言葉に応え我の視線我の吐息によりて汝等の力を見せしめ給え!」
砂百足は次々に襲ってくる!
ヒュヒュヒュヒュ……
凄まじいアスティの攻防に呆気にとられるばかりのセスラスであったが……その唇の端から血が流れているのを見て、彼女がどれだけ必死に戦っているのを実感し直した。舌を噛んだのだ。それほど早い詠唱ではないと間に合わないのだ。
「---------」
ガアアアッ!
一匹の砂百足がセスラスを見つけて襲いかかる。
リ……ン……
どこかで風が唸った。彼を取り巻いている渦のゆったりとした回転が一瞬止む。
ゴオオオオオオオオオッッッ
セスラスの周囲から凄まじい風が巻き起こりあたかも彼を台風の目にでも仕立て上げたかのような強靱さで砂百足に一気に襲いかかる。
ズザアアアアアアッッ!
幾重にも幾重にも切り裂く音。それに交じる、なんともいえない不快な断末魔の悲鳴。 雨のように降り注ぐ肉の破片と体液と血。セスラスは吐き気を催した。アスティは休まず戦っている。あの詠唱の凄まじいまでの速さ。何度も舌を噛んでいるのだろう、口の周りは既に血にまみれて久しい。
そもそも砂漠を旅する者にとっての強敵とは、その暑さ、照り注ぐ太陽の強烈な光、昼と相俟って凍えるほど寒い夜、渇きと絶望と、そして砂漠に生息する生き物たちだ。砂土龍、砂百足、そして砂竜などが最も挙げられる。が、今アスティが戦っている砂百足は、セスラスが今までに見た砂竜の一番大きいものよりもさらに大きい。砂漠で最大の生物とされる砂竜よりも大きいとは一匹だけでも脅威である。アスティが今倒した砂百足は、一体倒された内の何匹目なのか。
どれくらいが経ったのか……息を呑んでアスティの戦いぶりを見ていたセスラスは、最後の断末魔の叫びを聞いてようやく我に返った。辺りを見回すと、正に死骸の山。ひどい匂いが辺りに立ち籠め、煙幕で霞がかかっているようにも見える。
ヒュウウウウウ……
思い出したかのように風が唸る。サラサラサラと砂が舞い、それが何度か続いて死骸の山を覆い始めた。
アスティに目を戻すと、肩で息をしている。崩れ落ちるようにそこに座り込んだ。
「アスティ」
セスラスが駆け寄ると、気絶してはいなかったがひどく顔色が悪い。死体に慣れ自身死体の山を築き上げたことのある流浪王セスラスが青くなったほどに。抱き起こしてやるとぐったりと自分の胸に倒れかかる。既に相手が誰であろうと遠慮するほどの余裕はない。寄り掛かれるものなら今のアスティはかのルイガにですら寄り掛かりかねない様子だった。荒い息……全力で戦い全力を出し切ったのだ。
「……毎晩……なのか……」
アスティを抱き抱えながらセスラスは絞るように言った。アスティは答えない。水を飲ませてやりたかったが、この辺りにオアシスがあるはずもない。しかしこのまま王城に帰るのはいかがなものか……血と幾片もの薄気味の悪い肉の欠片と粘液のような体液にまみれたふたりが、このまま城に戻れるはずもない。真夜中とはいえ当番の騎士たちは昼番と夜番とに分かれていて後者は一晩中起きて定期的に城の中を巡回している。彼らに遭遇する確率は非常に高く、それは避けなくてはならない。見られたら最後一気に噂になるからだ。そんな噂がたってアスティがどれだけ傷つくかを、セスラスは心得ている。凍ってしまった彼女の心……すべて自分のせいなのだ。
そろそろ鎮まり始めてきているアスティの呼吸を確認して、周囲を見回したセスラスの目が微かに光った。
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