第Ⅵ章 心 7

 どれだけそうしていたことだろう。気が付かない内にセスラスは、真っ白な、透明ともいっていいような長い長いトンネルのなかをくぐりぬけ、音も光もないような感覚を味わっていた。長かったのか短かったのか……それすらももうよくわからない。気が付くと彼は、なんともいえない奇妙な場所へやってきていた。

 空がある。山がある。自分が立っているのは大地の上なのだろうが……とても奇妙な場所だ。まず大地は、デイヴァの話では草原が続き花が一面に咲いているという話だったが、そうではない。花は確かに咲いているが、たとえば赤い花の咲かない種類のものが深紅に咲きくるっていたり、所々草原が土になっていたり泥になっていたり水溜まりになっていたりして、とうてい美しいとはいえない。しかし不思議といえば、空を挙げないわけにはいかないだろう。青い空。そして隣に赤い空。それは、空としては同じ一つのものなのに、まるで途中で絵の具を替えてしまったかのように、青から突然赤になっていたりするのだ。それだけではない、空には一面にまるでキャンパスのように多くの映像が貼り付けられたかのようになっていた。それは、一枚きれいに見えることもあるし、まるきり他のものとまじってしまって何かわからないほどのものもある。中にはセスラスの知っているものも多くあった。

 これはアスティの〈記憶〉だ。

 そしてこの世界の変貌ぶりは、おそらくアスティの記憶が喪失しているからなのであろう。持ち主の記憶がなくなって、精神世界の混沌ぶりがよくわかる。ディヴァはこの光景も見ているはずだった。

 そして彼は、言われた通りに山を目指して歩いた。山にはアスティの精神面を守る番人がいるのだという。ディヴァは行くたび追い返されると言っていたが、もうアスティの記憶を取り戻すにはこれしか方法がないのだそうだ。

「とにかく、番人に会えばわかると思います。……陛下なら、大丈夫だと思います」

 そのあと彼は何か言いかけたが、とうとう言い出そうとはしなかった。またセスラスも敢えて聞こうとはしなかった。おかしな形をした鳥が蝶のような飛び方で彼の目の前を飛んでいった。

「あれか……」

 ほどなくして彼は山の裾野にぽっかりと口を開けた洞窟のようなものを見つけた。近寄るのにはだいぶ苦労した。周辺の草地が、沼のようになっていて彼の行く手を悉く阻んだからである。洞窟は思っていたよりも奥が深くなく、入ってすぐ行き止まりの壁が見えるくらいだった。そしてそこで彼は、とんでもないものを見たのだ。

「---------」

 それは何と言っていいのか……水が半固形化したような、そんな形態のものだった。 時折コプコプと音がするのだが、決して液体でもなく、だからといって固体でもなく、固いと思えば柔らかく、柔らかいと思えば固い、そんなものだった。

 それは人の形をしていて、目をこらせばどうにか顔の辺りの目鼻も見えようというものだった。セスラスは絶句した。こんな奇妙なものは今まで見たことがないし、またこれからも見ずにすむだろう。それほど奇妙なものだった。驚いたことにそれは彼の姿をみとめるとこちらを向いたかのように動いて、声のようなそうでないような、そんなものを彼に向かって発した。

「…………その姿は……---------」

 セスラスは言葉が出なかった。出るべき言葉が見つからなかったというか……何を言っていいのかわからなかったのである。どうやら口振りからして、この半透明の奇妙な物体は彼のことを知っているようなのだ。

「……オレを……知っているのか……」

 半透明の物体はふふ、と鼻先で微かに笑ったようだった。

「それはそうだ。ここはあの娘の精神世界。つまり娘の記憶や知識が籠められる所でもある。娘の知っていることを、守護者である私が知らないはずもない。逆もまた然り」

「守護者……? それではお前がアスティの番人なのか」

「それは少し違う。守護者といってもまあ最近はガーディアンなどとも呼ばれるようになっているが、守護する対象が違うのだ。私が守護するのはこの娘の精神世界ではない、それを守る番人の守護だ」

「? ……」

「わかりにくいか。そうだろう」

 コプッ……ガーディアンと自らをそう呼んだ物体が微かに音をたて、予期せぬ音にセスラスは一瞬びくりとした。

「驚いたか? ……まあそうかもしれぬ。なにしろ人の形をとれなくなってしまったものだから」

「とれなくなった……? 今までは人の姿をしていたというのか」

「そうだ。どうやら最初から説明しなくてはならないようだ」

 ガーディアンは言うと、彼の方を向いてキュッ、という音をさせた。

「……」

 コプコプコプ……

 それは見る見る内に締まって行き、やがて色がつき、形が曖昧なものからもっと具体的になり、そして、彼の知る一人の人間の姿となった。

「---------カペル師……」

 カペル師の姿となったガーディアンはにやりと笑ってセスラスを見た。

「これで言葉も随分出やすくなった。まあ立ち話もなんだから、そこに座れ」

 ザウ……

 ガーディアンがそう言った途端、セスラスは見えない何かの圧力のようなものに突き飛ばされ倒れそうになった。しかし彼が倒れる前に、いつのまにそこにあったのか、やはり透明の椅子が出来上がっていて、倒れそうになった彼を柔らかく迎えた。水のように柔らかく、それでいて座り心地は良い。彼のとりたいと思う姿勢に合わせて無理なく椅子の方が合わせてくる。椅子自体が意志を持っているかのような座り心地であった。

「---------」

「何から話すべきか……そうだな、我々ガーディアンのことを」

 カペル師の姿をしているガーディアンはそういって話しだした。

「ガーディアンというのは守護者……もっと詳しい言葉で説明するのなら〈精神世界内での鎧〉だ」

「鎧……?」

「そう。人は支えがないと生きていけない。それは形見の指輪であったり誰か本人であったりする。しかし結局『支え』として帰属するものは人間でしかない。精神的な支え。それがあるのとないのとでは、精神の内部は雲泥ほどに分かれる。何に分けられるのか、それは傷つき方だ。そして立ち直り方。支えのある人間は、その支えが死んでいようが遠くにいようが支えのない人間に比べればはるかに傷つき方が浅い。鎧となり盾となり防波堤となって支えが精神を傷つける外敵から守るからだ。それが我々ガーディアン……守護者だ。我々は守護する人間の精神から最も大切にし支えとしている人間を見つけだしてその姿をとる。姿のあるガーディアンとないガーディアンでは、精神の守り方にどれだけの差が生じるか、言う間でもあるまい」

「---------」

「支えのないまま人間はそう長いこと生きていく事はできない。精神が次第に病み傷ついて修復不可能になった頃に肉体とのバランスがとれなくなるからだ。

 しかしこの娘は違う。十六年間私は、誰の姿を借りることもなくこの娘の精神世界を番人と共に守ってきた。何度これで終わりかと思う度、ガーディアンの私が呆れるほどの頑強さで番人は立ち直った。傷だらけなのにそれを癒すこともなく前を見続けあらゆる外敵と戦ってきた。

 そして私はある日とうとう一人の人間の姿を借り得ることができた---------。

 元々ここは美しい場所だったが、なにしろ城壁も濠もないむきだしのまま火炎弾が始終降り続けている状態でな、ひどく荒廃していたが……その瞬間をきっかけに見違えるほどここは美しくなった。また今までのどれよりも堪え難い傷を受けても立ち直り生きていくことができた。それはひとえに支えとなる人間が現われたからだ」

 セスラスは黙っていた。言葉が出せないままだった。

 ガーディアンは言った、

 十六年間、と---------。

 アスティがリザレアに来たのは、もうすぐ十七になろうという夏の日のことである。

 アスティ---------。セスラスは小さく心の中で彼女の名を呼んだ。それほどにオレを想ってくれていたのか。それに対して自分は何を? 一番ひどい裏切り方で彼女を傷つけた。

 リザレア国王婚姻---------あの日のアスティは陽の光を背に、ようございました、

なによりですと言ってはいたものの---------顔は眩しくて確認ができなかった。言葉でそうは言っていても、アスティは……

「ではなぜオレの姿をとらない? さっきも……」

「ふふふ……預言者のあの少年も大分案じていたが、それはな、お前が自分の姿を見てしまうと、ドッペルゲンガー現象につながってしまうからだ。天にそういう意志がなくとも、いるはずのない『もう一人の自分』を見てしまうと、自動的にそうなってしまうからだ。お前が入ってきたとき私の身体は既に先程の透明な姿となっていた。私の意志に関係なくな。それは精神が守護者を失うまいとする防衛反応のようなものだ」

 だから一番身近で娘が頼りにしている人間の姿を手っ取りばやくとったと、ガーディアンは言った。そして立ち上がるとセスラスについてくるよう言い、すぐに立ち止まった。目の前は行き止まり、壁だ。そして壁の前には、大きな大きな水晶玉が地面から二十センチほどの高さで宙に浮いていた。両手を広げて尚、あまるほどの大きな水晶玉だ。そしてその中には、うずくまり額を臍につけるようにして眠っているアスティがいる。長い髪が藻のように彼女を包み込み、その口元は笑っているようにも見える。

「これが《核》と呼ばれるものだ。娘の存在そのものを示す。娘が死ねばこの水晶玉も割れ、この水晶玉が割れれば娘も死ぬ。存在の核だから眠ったまま起きることはない。一糸まとわぬ姿なのも核だからだ。ガーディアンと精神の番人と、そしてこの核……水晶玉の中に眠る本人の姿は、人間誰でも持っているものだ。どれか一つ欠けても肉体を持つ人間としてやっていくことはできない。私のような例外は除いてな」

「アスティの番人というのは……どこにいる?」

 今まで口元に笑いさえたたえていたカペル師の顔が、わずかにだが強ばった。

「オレは番人に会いに来た。番人に会わないうちは帰ることなどできない……そうしなければアスティの記憶は戻ることはないんだろう?」

「---------それは……そうだが……きついぞ」

「? 何が」

「外を見ただろう。番人というのは精神の具現化でもある。ちょうど『支え』が守護者という形になったのと同じで番人も精神状態そのものなのだ。娘と同じ姿格好でな。しかし記憶がないというのは娘だけではない、番人もまたそうなのだ。そしてその精神の持ち主と番人が同じ性格し必ずしも限らない。娘と違って番人は相当強烈な性格だ」

「悪いのか」

「いや……強いのだ。それは守護者なしに十数年精神を守った結果なのだろうが……まあ生まれ付きだな。なぜ娘と番人と同じ性格ではないのか言われると困るのだが……双子が顔が同じでも性格が違うという説明でだいたいわかると思う。また娘と番人と、まったく性格が同じでは番人は精神を守っていくことができない」

「なるほどな……それでどこにいる」

「中だ」

「中?」

 セスラスがそう言った瞬間、行き止まりの壁であった場所が開いていた。しかし中は見えない。気配もなければ、音もなかった。

「どうしてもと言うのなら入るがいい。止めはせんが勧めもせん」

「行く」

 セスラスはそう言い、迷う事無く中に入った。彼が入ると、まるで壁は生きているかのようにスッと閉じ、彼が後ろを見たとき、そこは壁でしかなかった。

 前から光が洩れている。セスラスはそれを頼りに暗い中を進んでいった。道はすぐに開けた。そこはほぼ真円に近い部屋で、全体は濃いピンクのような色をしている。天井は高くそこから壁の一点に光が射し込んでいる。向かって右にはなだらかな斜面ができており、ちょっと見た感じではそこに寝転ぶこともできそうな感じだった。そしてその下に、番人

は---------アスティはいた。いや、《アスティ》であろう。彼女はアスティでありなが

らアスティ本人ではないのだから。番人は振り向くとキッと目をつりあげ、スッと宙に浮いて叫んだ。

「入るなと---------」

 ザウ……

「!?」

「言ったはずだ!」

 ザザザザアアッッッッ!

 突如どこからか現われたガラスのように透き通りガラスよりも鋭い何かがいっせいにセスラスめがけて疾った。

 咄嗟に彼は両手で顔を庇った。一瞬後になって全身に激痛が奔る。身体のあちこちにおかしな違和感。食い込んだのだ。

「アスティ……」

「寄るな! 寄れば殺す……殺してやる!」

 ザザザザアアア!

 ザクッ……

 セスラスは顔を歪めた。左手にもう一度激痛。一文字に裂かれたのだ。

 ザザ……

 ---------ザウ

 気配で察した。そして次にやられれば、致命傷も大袈裟ではないだろうと思ったセスラス

は---------咄嗟に叫んでいた。

「やめろ! オレはお前の対だぞオレの死はお前の死だ」

「---------」

 スウッ

「……」

 セスラスは全身に滝のような汗をかいてそっと庇っていた腕をどけた。宙に浮いた《アスティ》の周辺にはキラキラと無数に光る何かが浮いていて、あたかも彼を攻撃しようとしているかのようにいっせいに襲いかかろうとしていた。

 間に合ったか---------

「---------今のは本当か」

「……」

 セスラスは《アスティ》を見た。明らかに同じ顔だが、強いて言えばこちらのほうが顔立ちがきつい気がする。神経をいつも張りつめさせた、というのだろうか、目元もややアスティよりきつい。

「今のは本当か」

「本当だ。記憶を失っているというが……どこまで覚えているか知らないから言うが、オレはジルヴェス、お前は……お前の精神の持ち主はジルヴィス。善なる運命と……呪われた運命だ」

「……お前、ガーテイアンに会ったな?」

 《アスティ》はじろりとセスラスを見た。

「記憶を失ったというのは正しくない。正確には失った事を知っているのだ。わかるか。 儂はアスティの精神体であって精神ではない。表の光景がアスティの精神だ。だから混沌としていて目茶苦茶だっただろう。儂は違う。すべて知っているし覚えている。ただ本体……アスティが記憶を失ったことで動転し疲労し怯えているだけだ」

 そしてまじまじとセスラスを見て、なるほど顔を確かめなかったが、確かにジルヴィスの対だと言った。ガーディアンと同じ顔だと。

「しかしお前は精神の番人なのだろう」

「あくまで番人なのだ。精神そのものではない。本体が記憶を失ってどれだけ儂が怯えているかわかるか……下手すれば儂の存在自体が消えてしまうのだ。記憶の末梢……最初からやり直し。生まれたばかりの赤子のような真っ白な状態になったら……終わりだ」

 それから宙に浮いたままで胡坐をかき、

「おお立ち尽くしだったか。その辺に座れ」

 と言った。アスティとまったく同じ顔なのだが、雰囲気がまったく違うので思っていたよりも戸惑いはない。セスラスは適当にその場にやはり胡坐をかいて座った。

 《アスティ》は宙に浮いたまま天井を見上げ……遠いものを見つめる瞳になった。  そしてそっと目を閉じ、暗唱するかのように静かに口を開いた。

「アベル……自分の命を助けた代わりに命を奪われた者の死。ミルワ……友の死。

 リュクティ……自分と出会ったばかりに結婚目前で死んだ優しい青年。トム……旅先で知り合った元気な正義感の強い小さな子供。道を聞き案内してもらったがばかりに無残に死んでいったジルド老……」

 次々に羅列されていくその名前……セスラスはどれも聞いたことがあった。それは折りあるごとにアスティが話してくれた、まぎれもなく呪われた運命に巻き込まれ命を奪われていった人々の名前。

「……イムラル。自分を愛したばかりに、愛する男の刃に倒れた男」

「シェイル。自分を救えないという苦しみからいつしか自分を仇とする男と組み愛する男を破滅に導こうとしたかつての大切な仲間」

 次々に出されていく名前……セスラスはぎりりと唇を噛んだ。自分にも責任のあること。

 そしてそれが終わると、《アスティ》は顔をセスラスの方に向け静かな瞳で問うた。

「……これらを味わうたび、アスティがどれだけの思いをしていたかわかるか。その悲しみや苦しみは外の光景が荒れることによって表された。特に砂漠戦争の爪痕はまだ残っている。後で見に行って見ろ。見るも無残だ」

「…………」

「しかしそれでもアスティは大丈夫だった。どんなに花畑が燃えようと、池が干上がろうと木が根こそぎなくなろうと彼女は耐えた。彼女が耐えられたからこそ儂も守っていくことができた。どんなに辛くても。しかし心の中が吹雪に覆われるほどのことは今まで一度たりともなかった」

「---------」

「その時のアスティの絶望がどれほどのものだったか---------お前にはわかるまい。いくら対だとて、辛い思いというのは結局本人にしかわからないものなのだ。だからこそ辛いのだ。外は凄まじい吹雪が吹き荒み、池は凍りつき木々や花は死に絶えた。洞窟に封印をしなかったら我々もやられていたほどにな。アスティは自分の絶望で自らを滅ぼすほどの苦痛をある一瞬で味わい、そしてまた継続して味わい続けている」

「……」

 セスラスは眉根にわずかに皺を寄せ、あの日のことを思い出していた。



 ヴェクシロイド老があの日重鎮数名だけを呼び出して言った---------

 世界が崩壊し各国への援助を続けなければならない重要な時期だとはわかっておりますが、陛下がこう前置きされておっしゃられたのです---------

 こんな不安定な時期だからこそ、長い間不在にしあの混沌とした時にも国王不在でひどく不安を味わっていた国民を安心させたいと思うのです---------



 ---------ヴェクシロイド老……あなたの娘を頂きたい---------妃として



「…………」

「あの時のアスティは……棒を呑んだみたいだと自分で自分に言い聞かせていた。ど

うすればいいのかわからなくて一晩中砂漠をうろうろしていたこともある。---------知

っているか?」

「初耳だ」

 呻くように彼は言った。

 そこまでお前を傷つけてしまったのか---------部族統合は、お前と共にでもできたかもしれないというのか。

「---------」

「記憶を失わせたのはジルヴィスの仕業だ」

「!」

「確かに能力を使いきった。ちょうどルイガと戦った時のようにな。ふふ……大変だった。外の世界のすべてが吸い込まれ消えていった。精神を支える余裕などなかったのだ。 それでも前の時は昏々と眠り続けそしてある日回復した。今回は一か月も眠っていないのに目が覚めた。その代わりに失くしたものは記憶……」

「---------」

「なぜかというとな、……アスティは、一つの事件に巻き込まれ傷つき、その傷が癒えた頃に一息つく間もなくまた傷つくという永遠の輪のなかにいなければならない。それがジルヴィスを背負う人間の運命だ。しかし精神状態が逼迫していてな---------今目覚めればまた試練が来る、しかしそれに耐えられるだけの精神状態ではないと判断したジルヴィスが、記憶を奪ったのだ。それは儂も知っている。そして空白というこれ以上ないほどの良い状態の癒しを得た後に、儂自身の意志によって記憶を戻すということになっている」

「---------では……」

「ふ……ん……まあ---------もう少し休むつもりだったが……お前に直接来ら

れては仕方あるまい。戻ろうかそろそろ……」

 そしてセスラスを見据えこうも言った。

「アスティが自身記憶を失くしていたということは知らないほうがいいだろう。仲間たちもちょっとショックな事が二、三あったようだからな」

「? ……魔法文字が記憶を失っていても読めたことか」

 《アスティ》はくつくつと笑った。

「くっくっくっくっ……無邪気なものよ」

 《アスティ》はそう呟きスッと胡坐をかいたままセスラスの側まで下りてくると、彼の頭上近くで手をかざした。

「すまなかったな。ちょっと動揺してたものだから……傷は治しておく。ただこれだけは……」

 セスラスの左手の一文字の傷は、血は止めたものの傷跡を消すことはしなかった。

「残しておこう。万が一、アスティは自分が記憶喪失であったことを覚えているかもしれん。それは儂にもわからん。そしてもしアスティが覚えていたのなら、これは本人に消してもらえ」

 そして地面に降りたち、勇ましい表情で言った。

「さあもうお帰り。アスティはまた少しの間眠る---------外の世界の修復をするために。

 そして目覚める頃には、お前の愛する元のアスティが戻っていよう」

「---------」

「なんという顔をするのだ。ええもういいから帰れ目障りだから」

 半ば追い返されるような形で、セスラスは部屋を出た。

「……やれやれ」

 部屋を出てすぐのところにガーディアンが待っていた。

「済んだか。随分手痛い歓迎を受けたようだな」

「ああ……まあ仕方もない。オレはそれだけの仕打ちをしてきたからな」

「……私は一つお前に嘘をついた」

「うん?」

先程とガーディアンと番人と……すべてが揃っていて生きていけると言ったな。 誰もが精神世界で抱え持つものだと」

「うむ」

「違うのだ。精神世界……外の景色が成り立っていてどうして精神体が必要か。外の光景の治安や平和を守るのはガーディアンの仕事なのだ。預言者の少年は番人を《もう一人の自分》として表現したが、それは外の景色のことなのだ。だから私はあの少年にも嘘をついたことになる。ではどうして彼女のような番人がいるかわかるか」

「……いや……」

「娘の精神が強靱すぎるからだ。彼女の精神は強すぎて……彼女一人で支えきれるものではなかった。肉体と精神と。そこで生存本能が番人を生み出した。肉体を所有し心を持つ娘と、その内にある精神を守る娘。そうでもしなければ精神がもたない。片方は肉体に迫る危機を防ぐだけで手一杯なのだ。それで番人が生まれた」

「……」

「今頃は身の内にある多くの預言者たちによって少年は事実を知らされていよう。

 ……言えなかった……精神が強靱すぎて、精神自体がもう一つ番人を生み出したなどと。有り難くも歴代のリザレアの預言者たちはそんな私の心中を察して少年に黙ってくれていた。……・先代さえも……彼に事実をうまく話さずに」

 セスラスはじっとガーディアンを見た。アスティにとってそんな状態が、それが、いいことなのか悪いことなのか、それすらセスラスには見当つきかねていた。

「……来る時はディヴァの力を借りたが---------」

「……」

「戻るには? どうすればいい」

「ああ……簡単だ。戻りたいと強く思えばいい。再び通ってきた道を帰りお前の肉体に戻っているだろう」

「そうか」

 セスラスは洞窟を出た。

 相変わらず混沌とした世界。記憶が戻ればこの光景も元に戻るというが---------

『元』というのは、どれだけ元なのだろう。先代レヴァが見たはずの美しい光景か? それともまた凍れる世界なのか。

(アスティ……)

 青と赤と、色々な映像がちりばめられた空を見上げ、セスラスは心の中で呟いた。

(---------オレがお前の一生を変えた---------変えてしまった)

 しかし深くは考えまい、我々はジルヴィスとジルヴェス---------強力な運命の力に

よって生きていくしかない。

 それでもそれに逆らいながら---------。

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