第Ⅵ章 心 4
3
その夜セスラスがやってきた。ミーラは交替と報告のため魔法院に戻っている。折しも今は多忙期の牡鹿の角の月、目が回るほどではないが、夜以外暇な時間もまたなくなっていく時期である。ラウラは昼間のことをセスラスに話した。
「興味深い」
「はい。……正直いって驚いています。どうせみんな忘れてるんだろうなんて思っていたりして……」
「不思議な話だな」
「はい。そういえば文字も書けるしきちんと読めます。知識としての欠落はないのに、記憶だけ忘れているなんて……」
セスラスはため息をついた。これは思いようによっては、あの時眠り続けた場合よりも悪い方向にあるといっていい。ふと、ふたりで旅に出てルイガと戦って敗け、すべてを諦めて生きていたあの辺境の村の生活が甦ってくる。そんな彼を凝視していたラウラの視線に気が付いたのか、セスラスは顔を上げ、慌てて目線をそらすラウラを正面から見つめた。
「ふふ……あててみせようか」
「---------は?」
「わかっている。オレさえいなければ、アスティはこんな辛い目にあわなくてもいいのにと、そう思っている」
「いえ、そんな……」
ラウラは否定したが、しかしそう思っていないこともない。リザレアに来てからのアスティは災難続きである。『災厄の女』と彼女を言わしめ大陸中にその名を知らしめた砂漠戦争。魔神倒伐は彼女の名声を高め、同時に「近寄りがたい女」というレッテルを貼りつけてしまった。アスティは「ちょっとやそっとのことでは」手に入らない、非常に高嶺の花というイメージを焼き付けられてしまったのだ。そんな彼女を受け入れられることがで
きるのは同じだけの器を持つ者のみ---------が、それだけ張り合える男がこの北アデュヴェリアに一体何人いるというのだ。そして一番条件が揃った男---------なによりアスティが愛し、またその愛に応えられるだけの男は---------部族と国のためにアスティとそして自身を棄てたのだ。アスティは、表面ではなんともないように振る舞ってはいるが内心どれだけ傷ついているか、ラウラは充分すぎるほど知っているのだ。
「---------」
しかし、それでもアスティは幸せだという。
『私……---------王にお会いすることができて、本当に幸せだと思ってるの。ラウラは不幸続きって言うけれど、今までみたいに何の支えもないのに傷つくよりはるかにましだわ』
ラウラは静かに目を閉じた。アスティにそこまで言わせた男を---------どうして責め
ることができよう。自分はもう彼女の幸せを願うのみ。
「……」
気が付くとアスティは目を覚ましていた。
「あ……起きてた? もう遅いけど何か食べてみる?」
ラウラは立ち上がってそう言った。その声に応えて彼女は静かに起き上がり、そしてラウラ以外に人がいるのに気が付いた。
「……あ……」
アスティはセスラスを見て呟いた。彼が国王だというのは人づてで聞いている。挨拶くら
いはしようと思ったのか---------しかし次にこぼれたのは言葉ではなく涙だった。
「---------」
「アアアアアスティ?」
ラウラは慌てた。しかし一番慌てているのはアスティだった。
泣くつもりなどないのだ。悲しくなどないのだから。しかし涙が次から次へと溢れ出る。
---------泣くな。
「---------」
「……」
泣かれたセスラスも肩身が狭い。この前は何週間ぶりで目が覚めたばかりだし、混乱していればそんなこともあろうかと思ったのだが、どうやらそれは見当違いのようだ。
「なんで泣くの……どうしたの」
ラウラはしきりにそう聞いている。アスティは首を振り、ただ否定するしかない。
「……わからない……な、泣きたいわけじゃないの……に」
「ラウラ」
ラウラは混乱したままセスラスの声に振り向いた。彼は立ち上がっていた。何も言わなかったが、目を見ればこれ以上アスティを混乱させることはないと、言っているようでもあった。セスラスは口の中で何か呟くと、青い残像を残して消えた。
ラウラはきゅ、と唇を噛んだ。
月の光が砂漠を青く染めていた。
牡鹿の角の月も半ばになり、多忙期が本格的にやってきた。城内では、公式にはアスティはまだ眠りから覚めていないことになっているから、それだけでもどれだけの混乱が重鎮たちの間にあったかは細かく描写しなくともわかるところだろう。そのためかまたはまた泣かれるのが嫌なのか、どらちかはわからないが、セスラスはあれ以来アスティのもとへ顔を見せることはない。またアスティも、一日中眠っていた生活から、今はすっかり回復したのか起きていられるようになった。つまり昼は目を覚まし夜には眠るという生活である。まだ本調子ではないのでベッドの外に出ることは滅多にないが、最初の時よりはずっとましだろう。この頃から仲間たちはいつもの顔がずらりと揃ってアスティの話相手をするようになっていた。そうすれば記憶の回復も何らかのきっかけで早まるのではないかと思ったのだろう。しかし結果は思わしくなかった。
「……でさ、調査頼まれてザンドラの方まで行って凍えながら山の調査してたんだけどさあ、一向に思わしくなくってよ。女はいなし寒いし最悪だったぜ」
わざわざ誰の台詞か説明しなくともよい言葉である。
「君は女性がいることが人並みな生活の基準なのかい」
「ぷーっお前は鏡を見りゃあそこに女がいるから満たされてるだろうけどよ」
「なんだとう」
「やめろってば二人とも……」
「よくやるねえ十何年も」
「好きなんでしょ」
「なにをうオレが好きなのは女でこんな女みたいな顔してる男じゃないっ」
「君に言われたくないぞ。性衝動だけで生きてる俗物のくせにっ」
「あーっ そ、そこまで言うか? なんてひどい言葉なんだ」
なんともにぎやかである。その会話に一人だけ参加せずアスティは何やら気落ちした様子で窓の外を見ている。それに気付いたシルヴァが、おやという顔で話し掛けた。
「どうしたんだいアスティ」
アスティは顔を上げシルヴァの顔を見てからまた浮かない顔で表を見た。そこには〈沈黙の丘〉がある。かつてふたりがきつく抱き締めあった場所……。
「……あの、……---------あのひとは、いらっしゃらないのかしら……」
シルヴァは直感した---------。アスティが敬語を使う相手など、導師以外にはいない
ということ、このリザレアでは、心の底から使いたくて使っている敬語の相手がたった一人だということを。
「---------陛下?」
アスティはこくりとうなづく。
「……ずっといらっしゃらない。……もしかしてこの間のこと、……怒ってらっしゃるのかしら---------」
シルヴァはちらりとラウラと目を合わせた。
「それはないと思うよ。そんなことで怒る方じゃないしね。ただリザレアは今はすごく忙しい時期なんだ。執政している以上はめぼしい会議は出なくちゃならないし……なんでも少なくて一日に会議が五本だって。仰天だね」
「…………」
アスティの眉根が哀しげに寄せられた。
「……それじゃあ…………当分はお会いできないのね」
魔法院の六人は思わず顔を見合わせた。
「でもさあ……言いたかないけどまた泣いちゃうぜ?」
「---------」
アスティはミーラの言葉に黙りこくった。
なぜなのか……自分でもわからないのだ。涙とは感情の起伏によって出るもの。感情が溢れたときに想いを代弁して流れるものだ。しかしあの男を見ても、別に悲しくはないのだ。悲しくないのになぜ泣く? 身体が勝手に反応して涙が出る。それが自分でもわからない。わからないまま泣いてしまうから、相手にも気まずい思いをさせてしまう。
アスティがぐっと唇を強く噛みしめるのを、見ていた全員がわかった。
「……私…………平気。大丈夫よ。……今度は泣かない気がする。頑張ってみる……」
「アスティ……」
ラウラは絶句した。
アスティは確実に『彼』に会いたがっている。
そんな報せを受けてある夜セスラスがやってきた。その日はラウラしかいなかった。会議の帰りなのか、いくらか憔悴した感じもするが、彼は相変わらずそんなことは微塵も感じさせなかった。
アスティは---------やはり泣いた。最初はこらえようとしていたのだろうが、肉体が反射的に反応してしまうのでは意味がなかった。
泣くな。
「……」
「アスティ……」
英雄と誉れ高き流浪王、今や剣聖とうたわれ封印王の異名も伊達ではないセスラスも、こればかりはどうしたらいいのか見当もつかないようだ。困ったような顔になった。ラウラはおや……と思う。
(陛下がこんな顔なさるなんて)
(---------させるのは世界広しっつったってアスティだけなんだろうな……)
(記憶があってもなくても)
そしてラウラはその時、何のきっかけもなく意味も前触れもなく、突然わかってしまっ
た、アスティが彼を目にするたび涙を流すその意味が。
「---------」
その驚愕は、言い様によっては彼女が記憶をなくしたという事実を知った時よりもずっと衝撃的であったといえるかもしれない。
(アスティ---------)
---------こんなに強い愛がこの世に存在するなんて
この時のラウラの気持ちは---------……一番近い言葉を言うなら「敗北」であろうか。あまりにも強い衝撃……それを前にラウラはうなだれたくなるほどの敗北感を味わっている。
彼女は音もなく立ち上がり、顔を上げられないままセスラスに言った、
「……はずします」
セスラスが止める間もなかった。青い残像と共に彼女は消え、部屋はふたりだけが残るのみとなった。
「…………」
セスラスは困ったようにアスティを見、また困ったように涙だけを流し続ける彼女に、しばらくして場がもたないと思ったのか言った。
「……触れても?」
アスティは顔を上げた。相変わらず涙は溢れ続けているが、その瞳は悲しみに覆われているわけではない。潤む大きな瞳、無垢に自分を見上げる瞳が月明かりに照らされ、なのに涙が止まらないというのは、一種不思議な光景でもあった。
---------泣くな。
セスラスはそっとアスティの肩に触れた。瞬間びくりとしたが、彼女は逃げも嫌がりもしなかった。肩に触れ、その肩を抱き、彼女の座る長椅子の隣に座り、そしていつものように、相手がどういう状態であろうと変わらず、息が止まるほどきつく抱き締めた。
泣くな。お前が泣くとオレは、どうすればいいのかわからない。
「…………」
今のセスラスにできること---------これくらいしかなかったのだろう。しばらく彼はそ
うしていたが、やがてアスティが落ち着いてきたのを確かめると、もう休むように彼女に言い自分も私室へと戻った。
一人部屋に残ったアスティは、茫然とそこに座ったままだった。彼に抱き締められたことが驚愕の対象となっているのではない、一人となった途端心が真っ白になり行動するということすら忘れていたのだ。それは、耳に長けた軍人が、かっと目を見開いて彼方から聞こえる瞬き程度のはばたきの音を、四方八方のいずこから来るのかを、動かず探さず己れの感応だけで探そうとしているそれにも似ていた。
…………
「---------誰?」
アスティは振り向いて、誰もいないその空間に向かって一人、呟いていた。
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