第Ⅵ章 心 3

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「なるほど……お手紙でだいたいのことはわかりましたが、これは……」

 そう言って絶句したのは、ラウラの師匠・ジムル師である。

「……アスティは---------」

 ラウラも言いかけて絶句している。

 目覚めない理由ははっきりしている。自分の精神を支えるものまで総動員して魔法に結集させたため、支柱をなくして精神が崩壊寸前なのだ。アスティが目覚めないのは肉体の健全さに精神がついていけないということにある。彼女の精神内は恐らく今、恐慌状態であろう。

「一応お知らせしておこうと思いましてな」

 セスラスは彼らを迎えてそう言った。ここにいるのはラウラといつもの仲間たち、そして彼らのそれぞれの師の、計十三人である。事を重く見た魔法院は、院生だけよりも導師がいたほうがよいとしてラウラたちの師を共に向かわせたのだ。

「しかしどうにもできないのは我々も同じです」

「……しかし常時側にいることはできる。ラウラ、お前たちは交替でここに詰めさせてもらいなさい。よろしいでしょうか陛下?」

「無論そうしていただくつもりで鳩を寄越しました。話を聞きつけていつどんな奴がここに来るかもわかりません。リザレアは……そういう国です」

「わかりました。我々も三日に一度ここに来て様子を見ましょう。幸いマキアヴェリの師ジェイラドは精神治療の大家でもありますから……彼に治療を任せるとして」

「申し訳ない。本来中立を旨とするあなた方にこのようなことを願い出ることは越権行為だとよくわかっています」

「とんでもないことで……アスティは我々の大切な院生であり、カペルの愛する一番弟子でもある。魔法院の庇護下に置くのにこれ以上正当な理由はありますまい」

「リザレアを、ではないのです。陛下、ご安心召され」

 導師たちの言葉がセスラスにとってどれだけのものであったか、言うまでもない。

「---------」

 彼らの会話を聞いていたディヴァはずっと沈黙していたが、やがてセスラスが、

「ディヴァ、ご苦労だった。もう休むといい。遅くまで悪かったな」

「い、いいえ……」

 そんな彼の言葉に手を振って否定し、ディヴァは退去の挨拶もそこそこに、静かに退室した。

 廊下を歩きながら、彼はとうとう言い出せなかったある事を、重く胸のなかにしまったまま部屋を目指していた。

(言えなかった……)

(言ってはいけないことなのだろうか)

(……陛下がその目で確かめるしか…………)


 夜は更ける。

 ドッペルゲンガー---------もう一人の自分。『二重に歩く者』という意味があるのだそうだ。ドッペルゲンガーを見てしまった者の末路はたいていの場合悲惨であるという。 『死』を迎えるのである。自分自身を見てしまったショックで心臓麻痺を起こしてしまったり、また、そんなものを見たと誰かに口外して気が狂ったと思われることを恐れるあまり自殺する者など、経過はどうあれ結局迎えるのは死そのものである。大抵の場合はドッペルゲンガーを見た数日から一年以内に体調を崩しそして弱って死んでしまうものらしいが、ひとつには、ドッペルゲンガーには自分から抜け出た魂そのものであるという説もある。すなわち魂を失った肉体は長くは生きられないということだ。

 しかしそうではなくて、純粋に『別のもの』が自分に変化した場合、それはドッペルゲ

ンガー現象とはいえない。そうでないのなら、いったい何が起こるというのだろう---------預言者ディヴァは、そんなことを考えていた。

 魔法院の者たちが来てはや二週間。アスティが目覚める気配はいっこうにない。一度、あのジェイラド師と話をした。アスティがあの魔導師と戦ってから後、自分がアスティの《心》に入ったこともすべて。師は、精神世界に入るだけの実力を持ち合わせた若い預言者にまず深い敬意の念を込めて頭を下げ、しきりに恐縮する彼から細かく話を聞き出し、魔法院に帰っていった。長老に報告するのだという。少しは自分も役に立てたようだと安心したが、以来変化という変化はなにもない。

 やはりここは、陛下に《中》に入って頂いて、直接あの番人と話をするしか治療方法は

ないのでは---------ディヴァがそんなことを思っていたときのことだった。

「ディヴァルヴェ様っ! たたたたた大変ですっ」

 見知った侍女が凄い勢いで部屋に入ってきた。

「うわびっくりした……どうしたんです」

「……アスティ様……が……」

「! ---------」

 ディヴァは知らず立ち上がっていた。

 侍女に言い付けてディヴァを呼びにやったのは紛れもない、師・ジェイラドであった。 彼は長老と院長と話をし、もっとも良いとされる治療法を知識に基づいて続けていた。 二週間目の今日、やっと効果が表れたというわけだ。実に常人の倍の時間がかかったことになる。その時アスティの身体は突如まばゆく光り、次第にその強さが増してくるにつれ顔に生気がよみがえってきたという。傍らにいるアスティの六人の仲間たちは息を飲み、そんな彼らに、師は預言者と国王を呼ぶよう、急き立てるようにして言ったのであった。

 間もなくアスティは目覚めた。その時にはディヴァも、セスラスもまた会議を抜け出してやってきていた。

 その瞳はゆっくりと開かれ……久しぶりの光に戸惑うかのように何度か閉じられた。

「……」

 完全にその瞳が開かれ、アスティは焦点のあわない視線を虚ろに投げ掛けている。

「ああよかったアスティ……気が付いたんだね」

 真っ先に声をかけ彼女を抱き起こしたのはやはりラウラである。

 彼女は交替で来るという師の言葉にも関わらず毎日やってきては、アスティの額をそっと撫でたり手に触れたりして無言の励ましを送っていたのだ。

「---------」

 ラウラに手伝われて起き上がったアスティは、戸惑いがちな表情でまず彼女を見、怯えるように肩を抱き同じような瞳で周囲を見た。それはじき冬を迎える小鳥のような瞳であった。

「……」

 そのアスティの様子にジェイラド師は目を細め、ディヴァはやっぱり、と心の中で密かに思った。

 アスティはゆっくりと周囲を見回した。知らぬ内に船で異国に連れられてきた少女のように、不安げに、恐ろしげに。

 ---------何か変だ。

 ラウラはそう思った。そして彼女の予感は間もなく的中する。

「---------あなた方は……?」

「---------」

 アスティは、すべてを忘れてしまっていたのである。

「う……そ」

 ラウラが絶句したのは無理もない。

「アスティ……あたしだよラウラだよう。変な冗談やめてよ」

 戸惑うアスティの肩をラウラは乱暴に揺り起こした。アスティの困惑は増すばかりだ。「ラウラ。よしなさい」

「師匠。……だって」

「気持ちはよくわかるが……これは現実だ。アスティは今記憶喪失なのだよ」

「そんな……」

 語る二人をよそに、アスティは端から順に一同を見回した。

 リューン、ミーラ、シルヴァ、モムラス、マキアヴェリ、ラウラ、ジムル師、カペル師、ジェイラド師、ディヴァ、そしてセスラス。

「……」

 いずれも無反応であった。カペル師をその瞳がとらえたとき微かに首をかしげたが、それもすぐに隣のジェイラド師に移って無反応へと切り変わった。

「---------」

 そして最後。セスラスにその視線が向けられたとき、その瞳はわからないほどわずかに感情が映り、ディヴァとジェイラド師が、セスラス王を見れば何かきっかけになって思い出す、

そう期待していた反応が表れ、何か思い出すと思われたその矢先---------。

 アスティの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

「---------」

 アスティも自分が泣いているのが最初わからなかったのだろう、広げた掌に次々と溜まっていく涙を見て初めて気が付いたようだ。しかし泣いている理由は本人もよくわかってはいない。身体が勝手にしていることなのだ。

「アスティ……」

 ラウラも絶句している。

「どうした?」

 歩み寄って優しく尋ねるカペル師の言葉にも答えられない。アスティは泣いている自分にこれまでにないような混乱を覚えているかのように取り乱していた。涙を拭いてそしてもう一度セスラスを見たその瞳から、また涙があふれるのだ。

「なぜ泣く……? 大丈夫だもう安心だよ」

 カペル師がそう言うのも聞こえているのかいないのか、アスティは手で顔を覆って泣くばかりだ。

 自分を見て泣かれたセスラスも困惑して、

「……私はいないほうがいいようだ」

 と呟き、そそくさと部屋を出ていってしまった。

 そして再び顔を上げたアスティはもう一度周りを見て、そして怯えた瞳で一同を見た。「…………ここ……」

「---------大丈夫だよ。安全な場所だ」

「…………」

「今日はもうゆっくり休みなさい。私たちが交替で来ることにするから」

「アスティ。あたしは毎日来るよ。今日のところは支度しに帰るけど……・また明日来るから」

「---------アスティ?」

 他人を呼ぶように己れの名を呟いて、彼女はうつむいてしまった。

 一同、思わず顔を見合わせてしまったという。



 無論のことこれは城内でも極秘中の極秘であった。今までこういうことが二度三度とあったリザレアであったが、いくらなんでもアスティの記憶がなくなってしまったという驚愕の事実は、いくら箝口令を敷いたとしても隠しきれないというものだろう。驚きというものはあまりにも強いと、口に出して確認せざるを得ないのだ。アスティの部屋は立入禁止となった。ラウラたちが入り口に〈施錠〉の魔法をかけ、扉からは入ってこられないようにしたのだ。セスラスが来るときは渦の仲介でもってして彼が〈移動〉の魔法でやってくる。この魔法は院生が最初に覚えるほどの簡単なものだから、さすがに訓練が行き届いていないとはいえ彼にも使うことができるというわけなのだ。またアスティは一日のほとんどの時間を眠って過ごしているという。三度か四度ほど起き、水を飲みその時の体調にあわせていくらかの食事をとり、また眠る。本能がただ生きることだけを命じそうして癒しているかのような生活であった。

 ある日のことである。

 その日のアスティの看病役---------といっても側にいるくらいのことなのだが------は、ミーラであった。ラウラは毎日来ているというよりは王城で寝泊りしているのだが、その時はちょうど香茶の支度をしに誰かを呼びに部屋を出ていた。怪我人でも病人でもないのだから看病とはほんの名目で、態のいい監視役である。アスティがどんな衝動に駆られて何をするかわからないし、彼女が目覚めたとき側に誰もいないというのは一番危険なことなのだ。

 その時、ミーラは持参の魔法書を読んでいた。窓際、アスティから向かって右に位置しアスティが視界の隅に見える程度のところで彼は本を読み耽っていた。

「……」

 アスティはゆっくり目を開けていた。眠りから覚めたのだ。しかし起き上がりもしないし声も発さないので、さすがのミーラも本に夢中になっていたということもあって、それに気が付かなかった。アスティはゆっくりと右へ顔を向け、ミーラの端正な横顔と、その視線の集中する本とを、交互にみつめていた。

「……」

 アスティはゆっくりと起き上がった。気配で、ミーラが驚いて振り向く。

「うっわびっくりした。いつから起きてたんだ?」

 その親しげな様子に少々戸惑いながらも、アスティは最近は素直に答えるようになってきた。最初は彼らに対して戸惑い警戒すらしていたのだが、ちょっとした癖や、気が付かないほどわずかな好みなどを彼らが熟知しているので、なんとか安心が戻ってきたのである。

「……少し前」

 アスティは呟くように言い、

「ラウラは今下に行ってるよ。もう少しで来るからそれまで起きてろよ」

 というミーラの声も聞こえないのか、じっと彼の手のなかの本に見入っている。

「……なんだ?」

 ミーラも気が付いて視線を追う。そして閉じた魔法書を凝視しているアスティを見て、「……これか……」

 と言った。アスティがあまりにも熱心なので彼は知れずそれを手渡していた。

 一つには、今のアスティは「アスティである」という記憶をなくしてしまっているのだ

から、それは即ち「上位魔導師である」ということをも忘れてしまっていることだと、ミーラも含めみなが思っていることである。それは、今まで修得したことを忘れ去っていると言っても過言ではないのだ。しかし本を手に取ったアスティはぱらぱらとページをめくり、やがてあるページにスッと目を止めると、一点を凝視した。

「オレ達が読む魔法書だよ。いい装丁だろ? 革張りで……」

「『魔法の魔法たる真理を解くには、まず己れの真理を解き放ち理解し、嫌悪なくすべてを受け入れることから始まる。魔法とは真理の塊であり術者が自身を理解せずして完全に支配下に置けるものではないからである。魔法は万物の自然のなかに宿る神秘と意志とそれらが宿る真理なのである』」

「ア……アスティ…………」

 ミーラは絶句した。

 この本は魔法文字のなかでも難解なものばかりが特に集中して集められているもので、

最終課程以上の人間でなければ読み解くことはできない。当然上位魔導師としての自分を知らないアスティがこうもスラスラと読むことができるとは……ミーラは少なからず

大きな衝撃を受けた。

「よ……読めるのか?」

「…………でも……」

「あ?」

「……言ってる意味がわからないわ。それに、……それに……」

 アスティは自分でも魔法書を読めたということに驚きを感じているらしい。

「---------それに……あなたがさっきこれを読んでいるのを見て、難しくて読めなかったの。わからなかったの。でもそう思った途端、頭の中でその文字がいっぱい浮かんできて……」

「読めたってか」

「……」

 アスティは未だに衝撃から立ち直れないようだ。間もなくラウラを待たずにアスティは眠ってしまったが、当然ミーラはこのことを彼女に話した。

「---------魔法文字を」

「ああ。そりゃスラスラとな。オレぁショックだったぜ」

「ミーラ……」

「考えてみればそうだよな。あいつはオレたちの修了課程の式のときヴェリと並んで代表

になったんだもんな。精神が忘れてても、身体の芯から上位魔導師なんだ。すごいよ。脱帽だ」

「ミーラ……」

「オレがアスティと同じ立場になった時……果たしてオレは、そこまでできるんだろうか……?」


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