第Ⅵ章 心 2
1
一週間が過ぎてもアスティの意識は元に戻ることはなかった。民の中からは彼女を案じる声も高くなっているとの報告が取り締まり局や勇女軍から時々持ち込まれる。そのたびに彼らは間違ったことを教えなくてはならない、
「大丈夫、ちゃんと元気でやっていらっしゃるよ。ただ、今は王宮の方がお忙しくて街に出られないだけ」
アスティの意識が戻らないなどと民に知られれば王城に詰め寄る者たちが増えようし、そうなると内部も浮き足立って警備も手薄になりがちだ。見知らぬ人間が歩いていても、見舞いの者だろうと思ってしまえば咎めることもないからだ。一度そうなってしまうと元に戻すのはなかなかに難しい。王宮には国王、王妃、預言者、そして宮廷魔術師兼参謀のアスティがいるのだ。このどれもリザレアの最重要人物であり、間違って暗殺などされては絶対にならない者たちばかりだ。そして彼らだけではない、他にも重要な人間が常時ではないがたまに寝泊りする者が少なくない中で、間違いがあったら困るのである。
「……」
ディヴァは今、青ざめてアスティの側にいる。どことなく疲れた様子もあるが、しかし顔色の蒼白なのは決して疲れのためではなかった。
「…………なんてこと……」
呟いたとき、背後で扉の開く音がした。セスラスだった。ノックがなかったのは、部屋に誰かがいるとは思っていなかったのだろう、ディヴァの姿をみとめると、
「……来ていたのか」
と小さく言った。
「---------」
口にこそ、そして態度にこそ出さないが、ディヴァはアスティとセスラスとの間に行き交う複雑な想いの丈を熟知している。それは、先代レヴァが感じていたことをそのまま彼が引き継いだことでもあり、また彼自身が感じていることでもある。先代レヴァの意志は未だ彼の中に生き続け、まだ経験浅く年若い彼によき師として事あるごとに助言しているのだ。それは預言者としてレヴァと、彼を遡る幾人もの預言者たちからの能力を受け継いだことの特権でもあった。能力の継承は『意志』と『記憶』の継承でもあるのだ。
だからディヴァは、当然ふたりが互いに許されぬ恋に落ちているということも知っていたし、あのふたりが続けてリザレアを出て予言探索の旅から帰ってきた時も、既にただならぬ仲となってしまったふたりの空気も悟ることができたし、今のふたりの苦悩もよくわかっていた。
---------だからこそ、先程見たものに対する、なんともいえない驚愕、未だ信じられ
ない、信じたくないという気持ちは……彼ならではであったといってよかったのかもしれない。
ディヴァは重い表情でそこに座るセスラスをじっと見た。言うべきか、言わざるべきなのか。ずっと迷っていたことだった。
「---------」
ふとセスラスを見ると、今まで見たこともないような顔をしていた。それは、ディヴァの中にいるレヴァの意志ですら、息を飲むほどに暗く重い顔であった。セスラスは預言者という立場の彼の前だからこそこのような表情を見せているといってもよかった。そしてそんな彼の様子を見て、ディヴァの決心は固まった。
「陛下。お話が……」
月が王宮の尖塔にさしかかろうとしていた。二人は眠るアスティの傍らで、テーブルに座り話を進めている。長い沈黙の末に、少年はようやく決心がついたかのように意を決して顔を上げた。
「……実は、一度アスティさんの《心》に入ったことがあるんです」
「……何だと?」
セスラスは彼の言ったことがよく理解できなかったようだ、怪訝な顔になり思わず聞き返した。
「どういうことだ」
「お気持ちわかります。ちょっと常人には理解しがたいので説明が難しいのですが」
「ジルヴェスの宿主が『常人』か。一般人は辛かろう」
セスラスがさらりと言い放つ皮肉に苦笑して、ディヴァは話し始めた。
「人間の精神世界……これを仮に《心》と呼ぶことにします。形がなく形がないのに存在するもの、それが《心》、そうですよね。でもそれは物質的なものの見方であって、位相を精神的なものにすれば、それは確かに形として成り立つんです。勿論物質的な形というわけではないんですけど」
「ふむ」
「肉体という物質で心という精神体を見ようとするから見えないわけです。自分も精神体
レベルにまで到達して---------つまり《意志》そのものになってしまえば、相手の心の中に入ることがある程度可能なのです。我々預言者達は、役目柄その《心》を見ることを許されています」
「最初からそう説明すればいいのだ。それでようやくわかった」
セスラスはふと窓辺にさした何かの影に気付いてそちらへ目をやり、そしてもう一度彼の方を見て言った。
「お前はそうやってアスティの心のなかを見てきたというわけだな」
「はい……。僕だけじゃありません。先代もです」
「……それは初耳だ」
「申し訳ありません……と、言ってます」
そのディヴァの言葉にセスラスはくっくっくっと笑った。死んでしまったとはいえ預言者の強烈にして強固な意志は不滅である。預言者の能力と共にその永遠に死なない意志も次代の者に乗り移るのである。
「まあいい……それで、どうだった。わざわざ黙っていたことまでをオレに言うというのは、二世代に渡って同じ人間の心の中をのぞいてきて、変化があったからということなのだろう」
「お察しの通りです」
ディヴァはそこで口を噤んだ。なかなか言い出せない様子が一目で見て取れた。
「どうした。レヴァは何を見、お前は何を見た」
「---------先代は---------……」
先代は、アスティの心の中に入ったときのことを忘れない、そう自分に語ったという。「たいそう美しい場所であったそうです」
そこは一面の花畑であったという。精神体とはいえ感覚は肉体のそれに帰依する。なんともいえないかぐわしい香りが辺りに漂い、うららかな日射し、遠く聞こえる鳥の声、聳
える山々はさながらアスティの堅固な意志と誇りの高さを表しているようで---------
なんともいえない陶酔感を味わったのだという。空は青く、少し歩いたところに池があって、鏡のように澄んだ水がその青い空を映しだしている。この世に天国があればまさにここだと、レヴァはそう思ったそうな。
「《心》内部の美しさは、すなわち心の美しさです。先代はなるほどと納得し感心もしたそうです」
無論美しいだけの場所ではなかった。アスティの、呪われた運命の持ち主という特有の苦しみと劣等感、隠しきれない悲しみと怒りとがないまぜになったものは、随分と端の方ではあったけれど、しかし確実にアスティの中に存在していた。黒く、どんよりと凝り固まり、にも関わらずうねうねと絶えずうねる。時に赤く時に青黒く、それは一時として同じものであることがなかったそうだ。しかしそれを見た後だと、アスティの心の内の大部分を占める美しい光景が一層美しく見え、また大部分ということはアスティが己れの持つ苦しみに負けていないということ、彼女の普段の性格の美しさがそのまま出ているということ、またそんな暗黒性をもつものがアスティの中に在ったというのは、普段完璧に見えるアスティ、平生近くにいない者には時に近寄りがたいものすら漂わせるアスティを、ひどく人間的に見せてもいたと、レヴァはディヴァに語ったそうだ。
「---------それで?」
「僕……つい最近アスティさんの《心》の中に行ってみたことがあるんです」
セスラスは怪訝そうに眉を寄せた。いったいいつの間に。
「最近……」
「---------陛下が……偵察に行かれた折にノスティに監禁された時です」
「…………」
セスラスは目を瞑ってそっと手と手を組んだ。あの日……アスティは自分と兵士たちを守るため、自らその胸に短剣を突き刺した。まだ互いに、ジルヴィスとジルヴェスの存在すら知らなかった時。
「最近というほど最近ではないな」
「はい。アスティさんがノスティに行かれる前、仮眠をしたときです、僕が入っていったのは。その……あまりにも打ちのめされていたようだったので」
「---------」
セスラスは足を組み直した。
「どうだった」
「---------……」
ディヴァはうつむいた。そう言われて初めて、その光景を思い出したかのように。目を閉じ、その時のことを思い出してみる、肌に食い込むあの寒さ、あの厳しさを。
「---------ひどいものでした」
「---------」
一面の吹雪……空は暗く、山々は深い雪に覆われ、そこはあたかも北の国。辺り一面の雪原、木々は冷たく深い雪に半ば飲み込まれ、花はとうの昔に枯れたであろう、池は分厚く凍り、骨まで凍てつくような寒さが彼を襲った。これがあの美しかった光景か---------彼は自分の目を疑った。己れの心の内にいるレヴァがこのことを教えてくれた時、同時にレヴァは自分が見たアスティの心の光景の美しさを彼に見せてくれたのだ。
それだけにディヴァの目を通してこれを見たときのレヴァの驚愕は一通りのものではなかったという。
「こんなに……こんなに変わってしまうものなのかと、思いました。だから、必死に唇を噛んであの日ノスティに行くアスティさんが、なんだかとても悲しくて……」
セスラスはそっと目を伏しがちにした。
凍った心。
それがいつから凍ったのか……それは自分でもよくわかっている。そして凍った原因は、なにより自分が作ってしまったに違いないのだ。なぜなら、レヴァが生きていた頃は自分はまだ独り身で、そしてディヴァがアスティの心の中を見た最初の日、その時自分はもう、レヴァがいた頃の自分ではなかったのだから。アスティの心を凍らせてしまったのは、自分なのだ。
「そしてもう一つ」
再び口を開いたディヴァの声にセスラスはハッと顔を上げた。
「人間は誰しも、《もうひとりの自分》を持っています。それは、密かにその人の精神を支え、狂気から守る精神の番人なのです。だから、狂ってしまったり、逸脱した行動で周囲を混乱させ恐怖に陥れるような類いの人達は、その番人が外敵から精神を守りきれずに外圧に負けてしまった、自分が守るべき精神世界を奪われ譲ってしまったということなんです」
「ふむ。興味深いな」
「つまり外敵が精神世界の中を暴れ回っている状態を人は『狂気』と呼び狂人と呼ぶのです。話は前後しますが……」
「レヴァは、そのアスティの精神の番人に会ったのだな」
「---------はい」
察しのいいセスラスに息を飲みながらディヴァは答えた。
「勇ましい人だったそうですよ。必ずしも本人と同じ性格とは限らないようです。逆に精神を守っていくには、あんな風にならないとやっていけないのではというのが先代の考えでしたが」
レヴァの見たアスティの精神の番人は、相当な性格であったようだ。
「お前は会ったのか」
「いえ---------会いませんでした。正確には、会えなかったんです」
セスラスは目を細めた---------それはどういうことなのか。
「番人は山中に……というより、山の裾野の洞窟のようなところにいます。そこに行っ
たんですけど---------」
そこは厚い氷で覆われ、雪がかぶさっていたという。よく見ると五星の封印がなされていて、どうやっても中に入ることはできなかったそうだ。
「で、あの時はアスティさんが仮眠している時だったんですよ。もうすぐアスティさんが眠りから覚めそうだったので、そこはすぐに帰ってきたんですが」
ディヴァは口を閉じ、過ちを自ら告白するかのようにこくん、と息を飲むと、一息にこう言った、
二度目を、さっき実行したと。
「---------二度目?」
これにはセスラスも聞き返さずにいられなかった。聞き返して、彼は絶句した。
「---------」
「あの、つまり、もう一度行ってきたんです、アスティさんの心のなかに」
「……どうだった……と聞くのは、少しおかしいかな」
「……陛下…………」
ディヴァは小さく言った。重々しいその口調に、セスラスは今までとはまったく違う空気を読み取った。
「---------どうした」
「あ---------……---------……すみません。……僕からは……何があったかは、言えません。陛下が……ご自分の目で確認なさってください」
「---------できるのか、オレに」
「ジルヴェスの宿主ならそれも可能です。幸いお二人は普段から[影]の鍛練も懸命になさっておられるようなので比較的楽だと思います。僕がお手伝いします」
しかしその時セスラスは、廊下の向こうから人知れず聞こえてくる複数の足音……それを熟練の戦士の耳で聞き取って、そしてこう言った。
「いや……それは、もう少し後にしておこう」
「え? ---------」
「客人のおでましだ」
彼がそう言った時、やにわに扉がノックされ、アスティつきの侍女・アリスが一礼して彼にこう告げた。
「陛下。---------魔法院の方々が、お見えでございます」
彼女の後ろには、見慣れた黒のマントに包まれた上位魔導師たちが並んでいた。
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