第Ⅵ章 心

 張り詰めていたガラス……。

 もろいもろいガラスの壁は、



 あの日音をたてて粉々に砕けた。



        …………凍る……

         草も木も……

        凍っていく…………


          ああジルヴェス……


               早く……





 その日リザレアは記録的な酷暑であった。朝アスティはだいたい定刻に体内時計という奴がはたらいて目が覚める。これが七の刻、魔法院時代からかわらず七の刻である。多忙期の夏、牡鹿の角の月、天壇青の月、鏡空の月などは意識的に体が早い時間に目覚める。 しかし六番目の月、花苺の月という初夏の一年で一番美しい季節、嵐の前の静けさというやつなのか、比較的公務に縛られる時間は少ない。陽が照り暑くもなく寒くもなくしかし風は涼しい、それが砂漠の気候である。……はずなのだが。

「……暑い……」

 アスティは羽根団扇で仰ぎながらげっそりとして呟いた。

「なんなのこの暑さは。ひどいわ。犯罪だわ」

 そんな呟きを耳にしてアリスがくすくす笑いながら冷たい水を持ってきた。微かに果汁で味がつけられている。

「アスティ様。物騒ですこと」

「だって……」

 アスティは振り向いてばつの悪そうな顔をした。これでも彼女は参謀の他に平生職務として取り締まり局長官という任についている。毎日街を巡回し、犯罪を未然に防ぐことはもちろん、国民が、みな平和に豊かに暮らせているか、その目と耳と肌で確認するのである。それは非常に重要な役目であり、王宮よりめったに表に出ることのない国王の代わりに彼の耳となり彼の目となって上に立つ者としての義務を果たすことにもつながる。王城アクティア・サンドデューンにあるいくつかの別棟の建物のなかに、取り締まり局もまたある。普段取り締まり局の人間と勇女軍の月当番の者が詰めていて、二十四時間体制で万事に対応できるようになっている。アスティは一日の公務の合間や、またなにもしないでいい時間が長すぎて退屈になってきたときなど、そこへ赴き軽装に帯剣して単独、あるいは誰かと連れだって見回りにでかけるのだ。民のほうも慣れたもので、彼女が歩いているからといってかしこまって道をあけるわけでもなく、気軽に挨拶をかわしまた露店の林檎などをもたせてくれたりもする。

 時々相談をうけることもある。それは種類様々、夫の暴力をどうにかしてほしいと言われ夫婦喧嘩の仲裁に入ったり、また逆に夫の浮気がなおらない、ちからを貸してほしいと頼まれ、夫君の悪い病気を治すのに協力したり、離婚の調停をしたこともある。無くしものをして泣いている小さな女の子の無くしものを一緒に探したり、いつのまにかどこかへ行ってしまった飼犬を少年と探したこともある。ようするに犯罪を取り締まり、犯罪以前や犯罪とはいえないまでもその個人にとっては大事ななにかを処理することも重要な役割なのだ。それは、必要以上の国王の裁判負担を軽くするのと共に、国民の終始安定した生活を保つためでもあった。

 ラウラは任務が多すぎるのではないかと時々口をとがらせる。アスティは参謀兼宮廷魔術師、取り締まり局長官及び戦時中における作戦総司令官なのである。

 これでは遊びに行くこともできないというのが彼女の言い分だろうが、アスティにしてみれば、何か余計なことを考えなくていい時間がないだけ助かったと思っている。

 そうしてアスティがいつものように、見回りにでかけた午後の日……。

 アスティは路地向こうの悲鳴に敏感に振り向いた。

(なに……?)

 アスティは思うのと同時に駆け出していた。

 悲鳴がきこえてきた場所……

 ---------中央公道!

 アスティは通りに出た。

 中央公道は城門をくぐって正面に王城を見ることができるリザレアの大通りである。本来ならひどく人が出ていて、異変がどこにあるのかは、わからないはずであった。

 しかしこの日は違った。

 中央公道には一人の男が立っていた。灰色のローブに身を包み、アスティがこの道から来るのがあらかじめわかっていたのか、こちらを見て不敵に笑っている。街の人間はみな彼を遠巻きにして見ている。男の足元には一人の女が倒れている。石畳が見る見るうちに血で染まっていく。悲鳴は明らかに彼女のものであると思われた。

「何者です! なにゆえリザレアの民を無意味に傷つける!」

 アスティは身構えながら叫んだ。この男……全身から発せられるただならぬ殺気はこの男が只者ではないということを端的に現わしている。

「ふふふふ……」

 男は低く、不気味に笑った。

「それはこちらにも言えること」

「何……?」

「---------ある日突然やってきた女のために国中の男たちが駆り出された。ある者は借金でどうしても首がまわらなくなり進んで異形兵に。またある者はこんな苛酷な生活をまともな精神でしているよりはいっそ狂ってしまった方が楽だと。

 名君は女を求め女は拒んだ。それがために名君は刃に倒れ国は素晴らしい指導者を失った……そして女は健在、何食わぬ顔をして今も生き続けている」

「! ---------」

 アスティは全身の緊張を緩めた。

「---------あなたはイラルの人ですね」

 その表情が沈痛なものになっていく。駆け付けた勇女軍の者がただならぬ雰囲気に任務を忘れ立ち尽くす。わなわなと震えるアスティのその秀麗な口元を、どうすることもできずにただじっと見守っている。

「そうだ。我が名はヴァセイ・ラリアント。イムラル様に見いだされここまで育てて頂いた者だ。今こそイラルの人間の恨みを晴らしイムラル様の無念を晴らす!」

 ゴウ!

「待って! 私はイラルの人間とは戦えない!」

「問答無用!」

 ザザアッ!

 凄まじい突風にアスティは吹き飛ばされた。普通の人間なら空の彼方まで飛んでいってしまっているだろう。

「アスティ様……!」

 駆け寄った勇女軍の者の手を払い、

「大丈夫よ。それよりあの女のひとの救護を急いで。まだ助かるかもしれない。それから緊急……取り締まり局長官が国民に避難勧告を出します。早く……城に行きなさい」

「は……はい」

 アスティは立ち上がってヴァセイと名乗った魔導師を睨みつけた。

「仕返しをするなら私にしなさい。リザレアの国民を傷つけることは許さないわ」

「知ったようなことを……イラルの人間が貴様ひとりに何人死んでいったと思っているのだ。リザレアの人間が同じ数だけ死んでいったとして貴様になんの文句が言える」

「違う!」

「何が違うのだ! お前が砂漠戦争を引き起こした直接の原因だということを今更否定するとでも? お前はこの国を愛しこの国の人間を愛していると聞く。愛する者が自分のために傷ついていくのはさぞかし辛かろう。そのくらいの目に遭ってもお前はいいのだ!」

 ヒュッ……

「!」

 アスティめがけて見上げるほどの炎の柱が凄まじい勢いで襲って来た!

 たまらずアスティは飛んだ。

 ここで攻防を続ければ中央公道沿いの人々にも被害が出る。それだけは避けなければならない。案の定空中にそのままとどまったアスティを見てヴァセイが追ってくる。

「今度はこっちの番よ……」

 ---------本当はどのような人間であれ私はイラルの人間とは戦いたくない

 アスティは印を結んで早口に詠唱した。

 ---------彼の国の人々に石を投げ付けられても仕方のないことをしたのだ私は……

 ヒュウウウウウ……。

 アスティの周囲に竜巻が起こる!

 ---------それでもリザレアとリザレアの人々に敵意をもって刃を向け傷つける人間がいたら私はそれを防がなければならない

「……行け!」

 アスティがばっ、と開いた両手の動きに合わせて凄まじい速さの竜巻がヴァセイめがけて唸りを上げて飛んで行く!

 ---------なによりも愛するリザレアのために

 もういいのだ私はどうせ許されない身今更罪を重ねたところで地獄行きが決まっている人間がなにを恐れよう

「小癪な!」

 ヴァセイが気合い一発、印を結び叫ぶのと同時に竜巻はかき消された。

「……やるわね」

「ふふふ……お前にそう言われるとは思わなんだ。光栄だぞ」

 アスティの瞳がいっそう険しく、厳しくなった。

 ---------本気でやらなければ、やられる。

 アスティは詠唱を開始した。これほどの男を相手に、一回に一つの魔法ではもたない。その間にやられてしまう。

「我の声矢となれまた我の声光となりて我の瞳とらえる者を打ち砕き給え我の声聞くる者は我を慕う者のみ我の鎧我の盾となり我を守り給え汝らはまた風汝らはまた光あらゆる者を遮り給え我の喉は汝の声」

 ヒュウウウ……

 先の魔法に従ってアスティの周囲より凄まじい風の渦が巻き起こった! ただの竜巻ではない、どこから生み出されたのか、それは石やガラスの破片、岩と呼べるようなものすら伴って彼女の周りに発生していた。風は髪をさらい、まるで怒れる女神のごとくアスティの全身を海藻のように取り巻いた。同時に彼女の全身を淡く光る風が包み込んでいた。 上空でそれは、洞窟の光苔のように見えたことだろう。アスティの避難勧告にも関わらず国民のだれ一人としてそれを守ってはいなった。それはそうだろう。なにしろ目の前で戦いを繰り広げそしてまた常人には理解できぬ力によって空に飛び立ち戦いを続けているのだから。しかも相手は、アスティがもっとも心の傷を深くするところのイラルの人間なのである。あの魔導師は誰がどう見てもアスティとリザレアに対する復讐の意をもってやってきたのだ。

 リザレア国民は、イラルの国民がリザレアやそれに付随する者に対して燃やしているほどの憎しみをイラルに持ってはいない。確かに最初にアスティが誘拐同然で連れていかれたのは事実でありまた怒りも感じたが、なにしろ相手がイラル開国の祖と呼ぶにはあまりにもおぞましいイラルⅠ世であり、怒りをぶつけるのに彼があまりにも低俗な人間であったことと、なによりアスティが無事戻ってきたのだから、彼ら素朴な砂漠の民はいつまでも怨恨を残したりはしなかった。また二度目の折り、つまり砂漠戦争は、相手国の将軍直々おでましの、正式ではないがとにかく宣戦布告があったのだし、また国王イムラルもアスティを心より愛し、当時未だ国政に大きな影響を持つ長老たちの反対さえなければ、国王セスラスに正式な申し入れでもってしてアスティを花嫁として迎えたかったということは国民全員が周知とするところである。あれだけひどかった内情を短期間で建て直したイムラルのその手腕に敵味方関係なく人々は敬意を表し、今でも彼の戦死した日の正午の黙祷は古来から受け継がれた儀式のように続けられている。つまり戦死者のなかったリザレアは、いまさら過ぎたことで恨みつらみをぐちぐちと述べても仕方がないとまったく砂漠の民らしく考え、イラルへの協力援助を惜しまない。

 しかしイラルのほうでは違うのだ。圧政、虐げられた生活からやっと救いだし解放してくれた名君中の名君をなくし、今までの生活がひどかっただけに彼らがイムラルへ寄せる愛情と期待は凄まじいほどであったといっても過言ではない。であればこそ、イムラルとアスティが出会うきっかけになったのは先王のせいだとはいっても、しかしでは先王をそこまでさせたのは何が原因かというと、まぎれもなくアスティの響きわたるほどの辣腕と匂うほどの美しさであることに変わりはない。アスティさえいなければ、砂漠戦争も先王の誘拐も存在しなかったのである。

 イラル国民の彼女に対する怨恨は深く根ざしている。それは今も変わっていないのだ。

「お願いよ。なんでも償いはする……だからもう……リザレアを巻き込むのはやめて」

「だからこそリザレアを巻き込むのだ。お前ほど強力な人間はいない。正面きって戦いを望めるのはセスラス王か真理王レオール、あとは大魔導師ヴェワイヨくらいだろう。ならば簡単なことだ。リザレアを巻き込めばお前は苦しむ。自分が感じる以上に痛みを感じそしてリザレアを守ろうとする思いで隙だらけになるのだ」

「……」

「こんな風にな!」

 ---------ひゅごう!

 ヴァセイの全身から一抱えもあるような太い太い火の柱が渦巻きながら迫りくる!

 アスティは一瞬、---------どうでもよくなった。

 自分は、ここまで憎まれているのか。現に先日も妊娠中のイラルの女が流産と死を覚悟で単身自分の暗殺に乗り込んできた。ひと一人の憎しみのエネルギーがこれだけならば、ではイラル国民の憎しみをすべて自分に向けたらどうなるだろう。そのエネルギーはきっと、海をも割ってしまうに違いない。もう自分は、存在しないほうがいいのではないか。 その方がリザレアも静かになるし、イラルも気がすむだろう。なにより両国の国交が良くなる。このアデュヴェリアで一番広く、一番苛酷で一番大きな領地である砂漠……そこで生き延びるには、人々が協力し合わなければならない。そのために自分だけ、自分だけが邪魔なのだ。

 しかし火柱が目前まで迫った時、やおらアスティの身体の周りを黒い霞のようなものが取り巻き、一瞬にして彼女を別の場所に移動させた。

「……」

 ジルヴィスである。

(---------……ああ)

(私は死をも自ら選べない)

 アスティはヴァセイを悲痛な瞳で見ながら唇をきゅっと噛んだ。

(それがふさわしいそれが呪われた人間の末路)

 ジルヴィスは消えている。一瞬のことではあったが彼女を助けたのである。いや、まだ宿主である彼女に死なれては、それを媒介としてジルヴェスと共にいることができないとでも思ったのだろうか。

「本気で行くわよ」

「しゃらくさいぃぃっ!」

 ---------ドォォォンンン……!

 空中で凄まじい攻防が繰り広げられた!

 ヴァセイもアスティも己れの死力を尽くして戦った。ヴァセイは実力のある魔導師だがいかんせん相手がアスティではそれもあまり意味がない、またアスティも、全力を出せば勝てる相手ではあるのに、その時の魔法の残骸が目下の城下に降りかかることを恐れて全力をいまいち出し切れない。

 この報せはとうの昔に王城へも報告されていようが、預言者ディヴァの水晶障壁は、卵の殻のようにドーム状になるために、今結界を張れば、確かにリザレア全体を網羅できようが、同時に上空で戦うこの二人をも共に包み込んでしまうことになる。「危険」を結界内に入れてしまっては、その意味もなくなるのだ。そしてまた、渦を媒介としてアスティの能力を自由に引き出し、あたかも自分が使えるかのような能力を持つ白い渦ジルヴェスの宿主セスラスも、それだけの能力は未だ伴っていない。[影]を出すことができるのがやっと数時間の今では、リザレアすべてを覆うほどの結界は彼には作れない。また作れたとしても、それは一瞬で崩れ去るだろう。リザレアはそれだけ大きな国なのである。

 アスティの頬が薄く切れている。あまりにも強烈な魔法接戦をしたためである。息は激しく切れ肩が大きく上下している。

 しかしアスティに深い怨恨を抱き熱い憎悪を感じているイラル国民は大きな間違いを犯している。

 それは、アスティはもう充分償いをしたということである。

 彼女に対して理解を抱くイラル国民は少なくない。しかしそれは時間が癒した結果の現在であり、終戦直後は誰もがアスティとセスラス王とリザレアに大きな、深い恨みを抱いていた。そのどろどろとした感情の渦巻く中、アスティは部下と共にイラルに乗り込み、昼夜を問わず、まさに不眠不休で必死に建て直したのである。心に深い傷を負い、それを癒したあとならばともかく、未だ塞がらぬその傷を伴い、痛みを抱えながら、その傷を負うはめになった場所に居つづけなければならないというのは、大変な苦痛であったはずだ。 しかも周囲には、切れるような憎悪の視線と、侮蔑の言葉と、投げられる石の数々という、この上なく辛い誹謗が待ち受けていた。建て直しに彼女が貢献しているということなど彼らには関係がなかった。あの女が来れば必ずこの国に災厄が訪れると、当時のイラルの人々は考えていたのだ。

 セスラスがリザレアから命令を下し、アスティが現地で指揮をとる。しかしアスティにとって、良くも悪くもイムラルとの思い出の濃い場所、そしてそのイムラルがいないなればこそ、アスティの罪悪感と己れを責める気持ちは強くなったはずだ。アスティは充分すぎるほどの償いをしたのである。

 「仕方がないことだった」と割り切るのには、まだ時間が足りないといえばそうなる。 しかしアスティに今は理解を示し、また彼女も手痛い犠牲者であったという考えの人間が、イラルには増えている。それだけでもよしとすべきか。

 攻防は激しくなる一方であった。アスティが優勢かと思えばヴァセイが押し、また彼が勝つかとヒヤリとした瞬間に戦いの手綱はしっかりとアスティが握っていた。

 両者の力はは拮抗しているかのように見えた。しかしそれはアスティが下に控えるリザレアを守りながらという大変な負い目を負いながらのことで、それがなければアスティはとうの昔に勝利していただろう。そして肩からひどく出血したヴァセイは、やっとそのことに気付き始めていた。

(---------そうか)

(あの女の最大の弱点であるとわかっていながら---------、)

(近すぎるゆえにそれに気付かなかった)

 ヴァセイの瞳が大いなる発見に大きく見開かれ、その口元が狡猾そうに歪んだ。恰好の

復讐方法を思いついた。---------しかしそれは同時に死、自らの生命を賭けねば成功は絶対に望めないのだ。

 それでも構わない、自分はこの女に一矢報いるためにここへやってきたのだ。この生命をどうして惜しむことがあろう。自分はあの、名君中の名君、真理王レオール、そして憎くも名君と認めざるを得ない流浪王にして封印王セスラス、その他世界に響きわたるほどの

名君たちと、肩を並べても遜色ないほどの名君、---------あの銀の髪の国王がこの世よ

りいなくなってのち、生きてなどいなかったのだ。あの日また自分も死んだのである。リザレアとセスラス王と、あの女に復讐するためだけに、今日まで屍をさらしながら生きてきたのだ。

 ヴァセイは両手をばっ、と広げた。アスティは思わず身構える。

「ガラス……」

 彼は低く、呟くようにして言った。

 ビリ……

 途端にその言霊に応じて、その言葉が届く限りの広範囲、リザレア中の家庭のガラスが割れ砕けて上空へのぼった。粉々ではない、むしろ大きな破片ばかりで、牙のような形もあれば、刀のような形もある。太陽の光を受けてそれは氷のように光り、時折危険に冷たく輝いた。

「!?」

 あれで攻撃するつもりだ、アスティは咄嗟にそう思って詠唱を始めた。

「アスティ・アルヴァ・ラーセ」

「---------」

「ここは相当高いな」

「? ……」

 ヴァセイは印を結んで気合い一発、厳しい声で叫んだ。それはまるで、悲鳴のようにも聞こえた。彼の言葉の強くなるに従ってヴァセイの全身は強く光を放った。

「? ---------」

 アスティは彼の詠唱がよく聞き取れず次の手に出かねた。そして。

 ヴァセイの全身の光は彼の周りを取り巻く無数のガラスに移っていき、

「---------行けい!」

 ---------ヴァセイは、ガラスの数々に自分の生命エネルギーすべてを注ぎこんで悪意をもたらせた。ただのガラスの破片であったそれらは、たちまち憎悪の念と怒りの気持ちを持つ無数の牙となりかわった。

 やっとのことでそれが何を意味するかを理解したアスティの全身から、血の気が失せたように本人には感じられた。青くなるのが自分でもわかったし、ヴァセイの自分を見る表情からしてもそうだったのだろう。

「---------しまった」

 アスティは呟くと一気に目下の街めざして降りた。とにかくあの悪意ある無数のガラスの破片より先に自分が下に行かなければ。しかし遅すぎた。未だ何が起こったかわからない国民たちは避難も忘れてきらきら光るガラスの破片を茫然と見つめている。

 ---------間に合わない!

 アスティは絶望的なほど青くなって、そして夢中で印を結んだ。

 ---------イラルに責任があるように、いや、イラルに責任があるのならなおのこと、復讐の矢面に立たされる可能性の高いリザレアに対して、自分は責任がある!

「我言霊によりて我我の力によりてこの声この力感ぜし者どもすべてに命ずる!」

 アスティは超特急で民家の屋根ぎりぎりの位置まで降りたった!

「---------『膜』を張らし給え!」

 ズザアッ!

 そして今無数の牙となりかわったガラスの破片が舞い散った!

「! ……」

 紙一重の速さでアスティが張った膜---------半透明の膜は、一瞬にして光速をも越える速さでリザレアの家々の屋根の上にゆらりと現われた。

 膜は見かけの柔弱さとは裏腹に今や一つ一つ意志をもってリザレア国民に襲いかかろうとするガラスの破片と凄まじい攻防を繰り返していた。簡単に破片を弾き返すもの、危うく破片に破られそうになるもの、各々が強烈な一つの『意志』を持って戦いを繰り返していた。そしてそれは、アスティが思っていたよりも長く、そして苦しい戦いとなった。

 すべてを見守っていたリザレアの民の話によると、ガラスの破片と半透明な膜の両者の戦いは一分程度であったという。その一分程度が、アスティにも限界であったといえよう。 すべての破片が弾き返され粉々になった時点で、アスティと魔導師ヴァセイはほぼ同じタイミングで空中から力を失って真っ逆さまに墜落した。

「やっ」

 小さな気合いの声と共に両者を似たような術で空中に留めたのはリザレアの現預言者・ディヴァである。少年は自分には手の出せない激しい攻防に固唾を飲んで見守りながらもこの時を密かに予感して出番を待っていたのだ。

 ゆっくりと王城の庭に下ろされたアスティとヴァセイは至急運ばれたが、魔導師の方はとうの昔に息絶えていた。

「…………」

「陛下を」

 それを見たディレムが低く側の兵士に言った。

「は……」

「早くしろ」

「はっはい」

 そしてアスティはというと、これも死んだのではないかと思うほど白い顔をして、息も絶え絶えとなって横たわっていた。ディレムは、今でこそ宰相だがリザレアが王国として成る以前、すなわち天の部族と大地の部族が激しい抗争を繰り返していた時代に、天の部族の長老の息子として戦場を駆けていた男だ。顔色を見れば死に至るかそうでないかくらいは容易にわかるはずである。彼はディヴァと顔を見合わせほぼ同時にうなづきあうと直ちにアスティを彼女の部屋へ運ぶよう言った。彼にしては珍しく動揺していたようだ。アスティの様子は、それだけただならぬものであった。

 そして夜が来た。

 勇女軍から看護隊の者や魔法部隊の者が来たり、また王宮つきの、こういった事件には嫌というほど慣れてしまった医師などが駆け付けたりしたが、アスティは目覚めることはなかった。彼らの言葉を借りれば、アスティの身体には外傷がなく、従って処置をしたくともしようがない、また外傷がないのにこんなに昏睡しているのも、すでに自分たちの手に負える範囲の外であると口を揃えて言った。

「…………」

 国王はしばらく黙って聞いていたが、ちらりと預言者ディヴァの方を見た。少年はある程度予測していたのか、申し訳なさそうに小さく首を振った。

「手に負えません陛下……外傷がないのでは治療の仕様が」

 そこまで言って少年はハッと国王の表情に言葉を飲んだ。

 セスラスは、ひどく堅い顔をしていた。まるでそれが自分の責任でもあるかのように、必死になって平静を装うその顔にも、隠しきれない苦渋がわずかに見え隠れしていた。

「陛下……」

 少年の言葉に我に返ったのか、セスラスは顔を上げ一瞬の沈黙の後に

「目が覚めないのなら仕方がない。眠らせておいてやれ」

「えっで、でも」

 ディヴァが言い終わらぬ内にセスラスは背を向けて部屋から出ていこうとしていた。預言者は呆れて、肩を落としため息混じりでもう一度呟いていた。

「陛下……」


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