第Ⅴ章 七つの光芒 6
彼は孤児である。父は生来あまり丈夫なほうでなく、流行り病で彼が生まれて間もない頃に亡くなった。それを嘆いて母は、極力息子を丈夫なからだにしようと努力した。丈夫であることにまさるものはないと、口癖のように言っていた割に、息子第一で自分の健康にはほとんど気遣わず、彼女がこの世を去ったのはモムラスが五つになるかならないかという年のことだった。近所の人々の厚い恩恵により彼は生活に困るということもなく日々をやっていくことができた。この日はどこの家が、次の日は誰の家が、というように、食事をする場所が毎日決まっていたのは幸せといってよかっただろう。
ある冬の日だった。子供たちは大人たちから行ってはいけないといわれている森へ足をのばした。子供が禁じられていることをしたがるのは、いつの時代も同じこと。
うっそうと繁る木々、ひっそりと漂うしめやかなにおい、昼なおくらい森の道……飽き足りぬほどに、そこは魅力に包まれていた。子供たちは遊びに夢中になり、ずっと奥へ……そう、ずっと奥へ……踏み込んでいった。
子供たちの甲高い歓声に眠りを妨げられた、冬の寒さと空腹でいっそう苛立ちを募らせていた森の獣……狼が、のっそりとしかし確実に、彼らに近付いて行っていることに、
愚かしくも子供たちは---------子供というのはいつも愚かなものではあるが---------
とにかく気が付かなかった。
そしてそれに気が付いた時には、彼らは完全に囲まれていた。怯え、叫び、そしてそうすることが獣の残虐な血の欲望をいっそう刺激することに気が付くと、今度は声もなくすすり泣き始めた。獣たちがそれに誘発されるかのように徐々に近付き始め、子供たちは己
れの運命をそこで決定付けた。---------モムラス一人以外は。
すさまじい咆哮と共に襲いかかってきた狼を、彼は側にあった薪のような木片を拾い上げて思い切り強く叩いた。
「モムラス! ……」
「逃げろ。いいから」
「でも……」
「早く!」
彼は次々と襲いかかる狼を必死に払い除け、いや、それは言葉だけで、服を食いちぎられたり、噛みつかれそうになったり、それは無残な「戦い」ぶりだった。しかし彼一人に
狼の注意を集中させる、という点では、それは見事に---------哀れなまでに見事に-----
成功していた。彼は平生より自分たちも貧しいのにも関わらず一人ぶん余計な食事を作って彼を歓迎してくれる人々に申し訳なく思っていた。それは幼い彼が、いつも母に言われていた、自分たちも含めた彼らの貧しい暮らしぶり、そしてその優しさ、---------父がいないぶん、彼らはなにかとこの母子によくしてくれていた---------それにどれだけの思いをこめて自分たちがいつかなにかのかたちでお返しをしなければならないことを、健康なからだをつくることと同じくらいに口癖として言っていた。
今この時がその「お返しするべき時」だと、モムラスは痛感していた。幼いながらも、その精神には既に母を守らなくては、という気持ち、母が亡くなってからは、彼女に代わって母子によくしてくれた人々に恩返しをしなければという成人した思いが宿っていた。 それは皮肉なほど痛々しい思いだった。五つの少年の考えることではなかった。彼は狼に噛まれた腕の決定的な出血に視界が暗くなっていくのを感じながら、友達すべてがいなくなっていったのを確認していた。ぜえぜえいっているのは……これはもしかして自分の息なのだろうか? 肺が枯れはててしまいそうに痛いのも? ああすべて自分なのだ。 ぼんやりと、ここで死ぬのだろうなと思った。倒れ、遠巻きに自分を見て徐々に近付く狼たちの黄色い目を見た。
おかあさん……ここで死ぬのか。それでもいいや……もうみんなに迷惑かけないでいいし……。彼は気が遠くなっていくのを感じていた。
狼が唸りながら近付いてくる。彼は目を閉じ、冷たい霧の漂う中もう一度瞳を開けた。 バシュッ!
しかし彼は決定的な死へのチャンスを逃した。不運にも、そして幸運にも。気が付くとあたり一面濃い霧が立ち籠めていた。彼の目の前で先程と同じような激しく空気が炸裂する音が何度もするたび、狼たちが一匹ずつではあるが正確に撃ちぬかれていった。
彼は茫然としてそれを見つめたまま、まだ倒れたままでいた。そして誰かが霧の向こうで呟くのを聞いていた。
「やれやれ騒がしいと思えば……おや」
草を踏む音がして、誰かがやってきた。薄暗い視界のなかでかがみこみ、彼の腕や他の体の部分の傷を見ては、いちいちていねいに応急手当てをしている。
誰……?
「これはひどい。一度院に帰らなければ。さあ立てるかね? ……もっとも怪我をしていないでもお前は来る必要がある。……」
彼は医務室で手当てを受けながら魔法院の存在を知らされた。夢のような、雲のうえのような話だった。剣と魔法の両方を使う種族。そして自分にはその資格があるという。 なぜなら、魔法院を呼び寄せるほどの強い思いで戦ったからだそうだ。難しいことはよくわからない。ただ彼はそこにいたいと思った。魅力的な生活だった。修業は厳しいといわれても、その方が楽しそうに思えた。温かい部屋、優しそうな医務室の女導師、そしてそんな自分にころころと笑いかける、ラウラという名の少女……。
彼は魔法院に残った。それを選んだ。生活のためではない、自分のために。
アスティが話し終え、道具を片付けるのを薄暗い中で見ながら、セスラスは上位魔導師と呼ばれるこの種族の、強さの根本のようなものを見せ付けられた気がした。
幼い頃からのどれも悲惨な生い立ち、それにめげずに生きようとする強い気持ち、それがないと、人間はどんなに厳しい修業をさせたところで、本当に強くなることはできないのだ。どんな逆境にも耐え、どれだけ辛い思いをしても、どれだけ死が目前に近付いていても、最後まで生きたいと強く願うその生に対する執着こそが、強い人間になるための第一条件なのだろう。しかしそんな人間はそう探したところでいるわけではない。そしてこれこそと目をつけて引き取ってきても、実際そうでないことの方が多い。しかしその子供の両親を説得し半ば無理矢理引き取ってきた手前、もう返すわけにもいかない。そして、
後に残るは、どうやっても上位魔導師はおろか、学び人にすらなれそうにもないような根性の入っていない子供が残るのみ、本人も気の毒なれば、また導師たちも。
そんなことのないようになっているのだ。凄まじい戦略……。
恐るべし長老ワルスの画策よと、セスラスは感心半分、苦笑半分で思った。
上位魔導師になる子供を引き取るのと、それらのだいたいがそれだけ生に執着するだけあって、戦災孤児か普通でない生まれの子供を保護するという、二重の意味での、これは慈善にもなるわけだ。そういう子供を引き取るということは、将来の荒んだ心を持ちそのまま手に職つきにくい人間を減らすことでもあるのだ。
セスラスは、古代の昔彼ら上位魔導師が世界征服をもくろんでいると噂され疎まれ疎外されてきた意味がわかるような気がした。
そんな人間を、幼少より厳しい修業のもと万能の能力を持つよう育てれば、それは考えようによっては凄まじい軍隊ともなるからだ。
そして目の前でにこやかに新しい香茶を淹れているこの女も……実はそのうちの一人であり、実際それに近いものをリザレアにもたらしている。今や彼女一人を慕って集まった女傭兵の集団は二千人となり勇女軍として大陸唯一の女性戦闘部隊の名を知らしめている。彼女の日々の訓練によって兵士の質は見る見るうちに上昇し、混乱を極めていたリザレアの政は、回復まで十年といわれていたものを、彼女の不眠の努力によって一年たらずで見事建て直された。凄まじいかぎりである。
新しい香茶を飲みながら、セスラスは長老のあの穏やかな顔に凄まじい知力と画策が渦巻いているのを知って少しばかり恐怖し、そして彼が望めば、とっくに世界は魔法院の手に落ちていただろうにも、それをしようとしない無欲で崇高な長老にひどく尊敬の念を抱いた。
なき言語の魔術を駆使し、同時に恐るべき剣士でもある種族。
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