第Ⅴ章 七つの光芒 3
ラウラ・ペリムというのは、実の名前ではない。名字のペリムは彼女の母方の一族の名前で、ラウラは本当は、ラウラ・ケスイストという。
しかし彼女はそれを名乗りたがらない。それはなによりもそれは逃れられない血の因習、地の果てまで逃れても、己れのなかに逃げてきた人間そのひとがいるという、どうやっても逃れられない事実から目をそらしたいと願う一念からきている。
ラウラは、ノスティの出身である。彼女は時の領主ケスイスト家の末娘としてこの世に生を受けた。兄二人、姉二人。乳母と、その娘であり彼女たちの遊び相手でもあった十歳のリリアという賢き少女。幼生の百合のようなはかなげな、しかし美しく優しい母。
悲劇はある日突然やってくるものだというが……突然やってくるにしてはそれは、あまりにも残酷な出来事であったといっていい。
この年三つになるラウラは十二歳と十歳の姉と、リリアと共に庭でいつものように遊んでいた。
「あなたたち……!」
母のマリアが血相変えて駆け込んできたのはその時だった。
「どうしたの母様」
そのただならぬ気配に、乳母のステアも眉を寄せて問いかけた。
「奥様……いかがいたしました?」
元来マリアは色の白い女性であったが……この時の顔色は蒼白を通り越して灰色であったといってもいい。
「あのひとが……カスタム侯と話しているのを聞いてしまった。早……早く……逃げ……ジョーイたちはもう兵士たちに……」
「! ……」
「ステア……私が時間を稼ぎますから……どうかこの子たちを……!」
ステアは賢い女だった。一瞬で理解した。
乳母である彼女から見ても、マリアの夫、この幼き愛し子たちの父親は、決して良い夫良い父であるとは言えなかった。短気で、残虐で、暴虐を愛し優しさを嫌う。マリアと結婚したのも、伝統古いケスイスト家よりさらに、ペリム家がもっともノスティでの血が古く、マリアでなくその背後の血の古さを利用したのであって、従兄妹どうしでありながらそこに親戚としてもまた男女としても愛はなく、ただただ政略のためだけに結ばれたのであった。
「リリア、残りなさい。残って奥様のお手伝いをするのです」
娘のリリアも蒼白になって、しかししっかりと強くうなづいた。恐怖というよりは、実の子を平気で手に掛けようという男の行いに怯えているようだった。
「ではお嬢様がた、ついてまいりませ……!」
ステアは幼いラウラを抱え、二人の娘たちを連れて走り去った。とにかく逃げなければならなかった。なにしろ領主の屋敷である。とてつもなく広い。裏口にあと少しでたどりつこうというその時、惜しくも彼女は兵士たちに追い詰められた。
どうすればいい……? なにもできないままこのままこの首とられるというのか?
ステアが首に手をやったとき、なにかがカチリ、と指に触れた。
それは銀の牙だった。彼女が若い頃生命を助けられたジムル、あれ以来親しき友、もっとも信頼する友となったジムルが昔日の思いを込めて婚姻のときに贈ってくれたものだ。『なにかあったらこれにむかって私を呼びなさい。声は届くだろう。しかし本当に危ないときだけ、万策尽き絶体絶命というときのみだ』
母に似、そして残虐無比で暴君の父を見てきたせいか、幼いとはいえラウラの二人の姉たちは、賢い娘たちであった。とにかく幼い妹だけでも助けようとした。
「ステア」
ラウラを後ろ手にかばいながら上の姉は囁いた。
「あなたとラウラだけでも逃げて……ここはなんとかしなくちゃ」
既に真ん中の姉は兵士たちに連れ去られている。女と子供ばかりと侮ったのか、兵士は残る二人ほどしかいない。
「…………」
上の姉は玉の汗を浮かべて荒い息を吐いた。
「頼んだわよ」
上の姉は兵士たちにとびかかった。予期せぬ行動だった、兵士たちは条件反射で彼女を斬った。
「姉様!」
姉の骸にすがりつくラウラに、もう一人の兵士が容赦なく剣を突き立てようとする。
(いけない!)
ステアは夢中になってラウラの上に覆い被さった。あやまたず剣は彼女の背中を突き刺した。
(ジムル!)
ステアは血を吐いた……背中がなくなったかのような激痛だった。
リリアは、胸が一瞬激痛に襲われるのを感じていた。体が冷たくなり涙がとまらなくなるような……彼女は察した。
(……まさか……)
ドン! ドン!
扉が今にも破れそうな勢いで乱暴に叩かれた。ハッとしてリリアはそちらへ目をやる。(いけない・・)
咄嗟に彼女はノブに手をかざし何事かを囁いた。手がパッとうす黄色に輝く。
「リリア!? ……あなた……」
「祖父は魔法使いだったのです。奥様、ラウラ様はご無事です。ですが逃げのびたとしても、旦那さまはきっと遺体の数をご確認なさるに違いありません」
リリアは顔を上げた。
「奥様、私がラウラ様の身代わりをしましょう。体格も髪の色も幸い似ているので大丈夫でしょう」
「リリア……」
「時間を稼ぎます。その間にお逃げください。私の施錠の呪文ももうすぐ切れてしまう」 しかしマリアは静かに首を振った。
「……奥様……!?」
「リリア。あなたの気持ちはとても嬉しい。ですがこうなることはわかっていました。あの人と結ばれた日から。そして私が逃げ、いないことを知れば、あなたがラウラの代わりをした意味がなくなってしまいます。私は残ります」
「奥様……」
リリアは絶句した。今まで、一度たりとも彼女の激する姿を見たことがなかった。はかなくて、ただただ穏やかなだけの女性だと思っていた。しかし違った。
幼生の百合はしかし、やはり野性のものだったのだ。逞しく凛然として、そして誇り高く。
「一人でも残っているのならそれでよろしい。私は残るのにはふさわしくない。ラウラは兄妹のなかでも幼くとも一番気が強い。あの人の血をひく人間が一人でもいるのなら、それだけでも彼に対する復讐です。ラウラはそして成長したのち、必ず父を討つでしょう」
「---------」
「さあリリア早く。急ぎましょう。私たちでこの殺戮に対する彼への復讐をしなければ」 リリアはうなづいた。
「油を部屋にまきます。それまでになんとか」
「わかりました」
「開けろ! 鍵をかけても無駄だ!」
表で一層激しく扉を叩く音。二人はそちらへ目をやり、そして向き合った。
「最後に、リリア。私はあなたたちのような忠義深い母子を側に置いて幸せです。なによりも誇りに思います」
「奥様……」
リリアも感極まったらしい。
「ありがとうございます。なによりのお言葉です」
二人はしばらくの間抱き合った。まるで消えゆく己れと相手の生命を惜しみその暖かさを忘れまいとして。
「開けろ!」
「奥様、お早く。扉を開けられては」
マリアはうなづいた。彼女が出ていくとリリアは時間が勝負と言わんばかりに迅速に、しかし物音ひとつたてずに行動を始めた。まず壁に取り付けられている扉の奥の物置から埃だらけになって鉄の箱をいくつも出した。中には、暖をとるときや灯りをともすときのための油が入っていた。鉄の箱なのもそのためだ。リリアはそれを急ぎ部屋にまいた。遺体が焼けていれば、怪しまれる心配もないというもの。
リリアは汗だくになりながら頭のどこかで少し前までのマリアの顔を思い出していた。 その顔は、口元は、瞳は、明らかにお前たち母子がそこまでやる意味がわからないと言っていた。自分でもそう思った。ここまでやることはないのでは。
しかし違うのだ。助けられた恩には、それ以上のもので報いるもの。生命を助けられたのだ、彼ら母子は。生命以上のものなどないから、自分たちの生命、しかも血族を助け身
代わりになるという生命以上のものを代償にして報いなければ。
(奥様……)
(乞食同然の私たちを拾って仕事を与えてくれたのはあなたです)
(あの時……)
リリアの口元に穏やかな笑いが広がった。
(あなたが助けて下さらなかったら、私たちは死んでいた)
(……やりすぎだなんて)
リリアは部屋の隅に火種を投げた。
ゴォォォオオオオオ……!
たちまち凄まじい勢いで炎が生を得、襲いかからんばかりの激しさで部屋をなめつくしはじめた。業火の中、リリアはそのあかりに照らされ、恐ろしいまでに美しかった。身悶えせんばかりの熱さに汗を流しながら、リリアはゆらりと炎の向こうに幻を見た。
(…………)
熱さで頭がぼんやりとしている。唇をぎゅっと噛むとリリアは、シャッと短剣を引き抜いてその冷たい輝きの白刃を見つめた。そして呟く、
「奥様……お先に」
そして今、短剣を胸へと貫く、お前の鞘こそ今我が胸と、迷いも恐れもなく。
「! ---------」
赤い炎に照らされた白い顔が苦渋に歪む。叫び声すら許されなかった。リリアは最後の力を振り絞って剣を抜いた。激痛、そしてさらなる出血。このふたつからリリアの意識が奪われていく、力がなくなる、震えがとまらない。リリアは剣を業火のなかへと投げやった。剣が熱に溶かされていくのがかすむ視界のなか見えた。
そして少女は倒れた……。
目を開けていた最後の瞬間、炎がこちらまでやってこようとするのが見えた。
リリアは穏やかに息を吐き、そしてとうとう瞳を閉じた。口元には微笑み、瞳には苦渋の影なく優しさすら。
ゴオオオオォォ……
ああ……。
早く来て。来て私を焼きつくして。
顔も型も、髪も骨すらも、私が私とわからないように。
私を燃やし尽くして……。
「どけといっているのがわからないのか!」
「わかりません! あなたは……息子まで殺したのですね!」
マリアも必死だった。リリアの自刃が済むまでは、夫を中に入れてはならない。目の前で顔を真っ赤にして怒り狂う夫、その手に下げられた剣を濡らしているのは真っ赤な血だった。夫は眉すら動かさずにやりと笑った。その笑いだけでマリアは、息子たちの命運を悟った。
その時だった。扉の向こうから白い煙が幾重にも漏れてきた。それはマリアに時を告げ
る合図でもあった。マリアはわざと顔色を変え、動揺し、次いでノブに手をかけて、扉が
開かないふりをした。
「ラ、ラウラ……」
「ラウラか、中に残っているのは」
夫は彼女を押し退けて扉を開いた。しかし凄まじい勢いで炎が襲ってきて、彼はすぐに扉を閉めた。炎のなかに茶色の髪が倒れているのを確認するのも忘れなかった。
「あなた……!」
「ペリムの血はいらん」
呟くと、彼は息子を斬った剣で妻も貫いた。声なく倒れ、その瞬間で息絶えたマリア。 それには目もくれず、最初から殺戮残る屋敷を残すつもりはなかったのか、火を消そうともせず、彼は表へと向かった。
「ステア……しっかりしろステア」
遠くなっていた意識が急に戻った。その声、この意識の戻り方、
(ジムルだ)
そう思った。
瞳を開けると案の定彼だった。二十五年前と少しも変わらない彼。
「ジム……うっ」
背中が痛かった。血が流れていくのがよくわかる。そして目の前のジムルと一緒に、そこにはラウラがいた。
「…………」
「ステア、しっかりしろ。今……」
「無駄です」
自分でも驚くほど声はしっかりしていた。
「ステア……」
「ジムル……あなたに最後の頼みが……この方を……ラウラ様を……」
ステアの、ジムルに握られていた右手、ラウラに触れていた左手から、急速に力が抜けていった。
チャリ……
ステアの握っていた銀の牙が、音をたてた。
「こんなことのためにお前に渡したつもりではなかった……」
ジムル師は呟いた。霧たちこめる草原。ステアは自分を呼び、そしてピルエ近くに逗留していた魔法院にまで銀の牙の力で呼び寄せられ、そしてそこで力つきた。声を感じて表へ出ると、彼女が倒れていた。……そう、この、茶色の髪の少女と共に。
ジムル師はステアの「最後のお願い」を見た。彼女に託された小さな生命。
見ると、彼女もまた自分を見上げていた。
「---------」
無垢な瞳だった。子供の瞳、なによりも純粋に自分を見ていた。
「ステア……しんじゃったの?」
ジムル師は息がつまるのを感じた。
「……後にノスティの惨劇といわれる事件です。もっともそれも覆されてみな病死と発表されましたが」
ラウラ。
五人の人間の生命をもってして生き延びた幼子。
どうしてあんなに笑えるのか……。
アスティは目を閉じた。
『だって、せっかく生き延びたんだもの。みんなのぶんも笑わなくちゃ。それが唯一できるお返しってもんでしょ』
でもその瞳は遠くを見ていた。瞳の奥には微かな憎しみが渦巻いていた。
アスティは目を開けて再び砂漠を見る。
そして彼女は見事母の言葉通り仇を討つ。
自らの忌まわしい血を断つため、そして本当の「ペリム」、その名を名乗るために。
「……リューンの出身地は光神レディバを主教とするアガステス領のウェンカです」
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