慟哭の心 5
「よくあの女性が身籠もっているってわかりましたね」
ディヴァが感心したように言うと、セスラスはなんでもないようにさらりと言う。
「だからお前は若い。ちょっと気をつけていればわかることだ」
「裁きも思ったより軽くて安心致しましたわ」
「私事だ。それにあの身体ではな」
セスラスがため息まじりで王妃にこたえる頃、彼にしか聞こえない足音が彼の耳に届こうとしていた。
「アスティの前では普通に振る舞ってやれ」
「もちろんです。アスティさんのあの様子を見ればこそ」
扉がノックされた。アスティがなかに入ってきて、少し蒼白な顔でいつものように香茶を淹れる支度をし始めた。
「今日は何になさいますか」
「ニルギリ茶にしよう」
アスティはうなづき、茶器に湯を注ぎ、しばらくして葉が広がり濃厚なにおいが立ち籠める頃に三人分の香茶を淹れた。
カタカタ……
ディヴァが聞き慣れない音に顔を上げて何の音かと辺りを見た。
カタ……カタカタ……
セスラスも王妃も気付いた。
……カタ……
茶道具が鳴っているのだ。アスティが持ち、アスティが傾けるたび、カタカタと鳴る。その音の不気味なほどの静けさに、誰もが指摘することも、大丈夫かと聞くこともできなかった。香茶がはいって、アスティはうすい笑いを浮かべて、
「それでは失礼します」
と言うや、まったくいつものように部屋を出ていった。
「大丈夫みたいですね」
「うむ」
ディヴァの呼び掛けに、セスラスはつい、そうこたえてしまった。そして自分でも、大丈夫だと思った、アスティのその様子からして、少々傷ついているだけで、いつも以上に心配する必要はないと。
アスティの演技が完璧だった。だからセスラスも、セスラスでさえも、わかることができなかった。もう少し注意さえしていれば、あんな事にはならなかったのに。
6
空が微かに夕焼けの名残を残している。しかしそれも、だんだんと薄闇へと変わっていく。アスティはその薄闇のなかでシルエットとなりながら、もう長いことずっとそうやって動かなかった。灯かりもつけず、微動だにしない。
「……」
食事はとった。誰も怪しんだりはしていない。
(ロイ殿……)
アスティは拳をぎゅっと握った。
(あなたのおっしゃったことが本当かどうか、試すことができます)
(……)
アスティの眉に一瞬迷いが生じる。
わかっている。わかっているのだ。
(こんなことは無駄……)
(だって私と王の生命はつながっているのだもの。……ロイ殿によれば)
(【時】が来るまでは、何度でも渦に呼び返される。死んでいい日まで死ねない)
そして死の痛みまで、【時】でない場合は共有するのだ。今自分がしようとしていることはまったく無駄なこと、そして彼にいらぬ迷惑をかけるばかり。
しかし……しかし。
(ほんの少しだけ……【今】から逃げたい)
(辛い。愚かだけれど、……でも、でも……!)
(私は……!)
---------身籠もっている女性が一人で砂漠を渡り生命を狙おうとするほどに罪深い!
普通なら考えられないのだ。しかしそれをおしてまでここに訪れたということは、あの女性はそれだけ自分を憎んでいるからに違いないのだ。それだけのエネルギーがないとできないことなのだ。そして緑止草。賭けだと言っていた。---------賭け?
ならばなんと危険な賭けをしたことか! 彼女が健康な子供を産める確率はどう頑張っても三割、それほど自分は憎まれ恨まれているのだ!
アスティは嗚咽をこらえて泣いた。ただ泣いた。立っていられなかった。そして手のなかを見ると、一振りの短剣。
(……)
ほんのひととき、たった少しだけ、それでも私に安穏を与えてくれる。アスティはそっと短剣を握り、白く光る刀身を見つめた。
シャッ
「……!」
口から大量の血が流れるのが、わかった。口のなかが何かの液体で溢れ、血の味がするからだ。そのまま倒れて、床の力を借りてさらに深く突き刺した。凄まじい激痛、早鐘のような鼓動の声、アスティは薄くなる意識のなかその大きすぎる音に聞きいっていた。
痛い……痛くて……気分が悪くなる……吐く……
苦しくて苦しくて……でもこころの苦しみには勝てまい。この痛みは、この苦しみは、こころの苦しみから逃げるための別の手段。
---------くるしい……
セスラスは私室でひとり酒を飲んでいた。静けさのなか、ただ何もせず目に映るものだけを無心にとらえて。
「……!」
ガシャン!
突然胸に信じがたい激痛を感じた。血が流れる感触がして、思わず手で押さえた。が、血は出ていない。痛みはますますひどくなり、血の気が引いていく感触はまるで自分のものなのに、出血はいっさいない。しかし警告のように心臓が高鳴り、どんどん動悸が激しくなっていった。元は冒険者をしていた彼、どんな痛みで死か否かは、わかっているつもりだ。冷汗が流星のように疾った。
「陛下……? いかがなされました……?」
次の間の王妃の私室から声がする。胸を押さえながら彼は必死に平然の声を装った。
「大丈夫だ。なんでもない」
扉の向こうから王妃の安堵の声が聞こえるようだった。と、セスラスが歯噛みして激痛に耐えていたときだ。目の前に鏡のようなものが突然現われた。鏡には、部屋のなかで胸に剣を突き立て倒れているアスティがいた。
これか!
思った瞬間。
パ……ァァ……ンン……
クリスタルをはじくような音、ジルヴェスが現われた。
次の瞬間、彼はアスティの部屋にいた。
どうすればいい!
彼はまず血の始末に入った。騒ぎたてることはできなかった。一人知れば十人の知り及ぶことになる。なにもかも一人でしなければならなかった。まずベッドから敷布を引きはがしてそれを使いアスティの止血をした。次に床にしみこんだ血をきれいに始末した。これだけの血をきれいに拭いとれたのも、彼ならでは。それらの布は暖炉にくべてすべて燃やした。服に血がついてしまったが、気にならなかった。窓を開けて空気を入れ替えた。しかしこれだけではどうにもならないのは、よくわかっている。
セスラスは扉を見た。一か八か。
扉を開け辺りを慎重に見回した。思えばこれがよかったのかもしれない。
「アリス……アリス……いるか」
大声は立てられなかった。囁くように、しかし訴えるように呼び掛け、しばらくすると廊下の向こうから気配を感じる。
「陛下……!?」
いるはずもない場所にセスラスを見つけて、アリスは明らかに動揺していた。それもそうだ。もう夜も遅い。誰が国王が塔の私室から出るところを見たというのだ。
「どうしてこのような……」
「しっ、静かに。こっちへ」
彼は暗い部屋のなかへアリスを招き入れた。
「陛下……---------その血は」
「いいからこっちだ」
セスラスはアリスの手を強引に引っ張った。
「! ……アスティ様……!」
「オレ一人では処理できない。血の始末はする。お前は白くて清潔な布をなるべくたくさん持って来い。それから湯もだ。そしてこれは誰にも気が付かれずにやらなければならない。できるか」
アリスはまだ動揺を隠せないようだったが、しかしセスラスの瞳を見ると、こくりと小さくうなづいた。
「よし。行け」
慌てて出ていくアリスの背中を見送ると彼はアスティの方を向き直った。外の薄明りが彼の汗のじっとりにじんだ額を照らしていた。
短剣は深々とアスティの胸のなか。今これを抜けば、栓の役目をしていた剣を失って、たちまちひどい出血をするだろう。彼のまわりにはいつのまにかジルヴェスが現われている。セスラスの瞳がきらりと光った。
---------やれということか。
彼は決心した。剣に手をかけ、息をごくりと飲む。うまく呼吸を合わせろ。慌てるな。
パ……リィィ……ン
途端アスティのまわりにもジルヴィスが現われる。
グッ……
慎重に引き抜いた。血がどくどくと手を伝う。アスティが微かにうめいた。
バッ……
血が飛ぶ。
(死ぬな……)
アスティの顔は青ざめている。抱き抱えていても、腕に恐ろしいほどの冷たさが伝わってくる。しかし熱い血。まるで彼女から生命のすべてを奪ったかのように。
<……て……せ…………>
「!?」
<せて……死なせて…………>
<死ねない……死ねないから……その間だけ……楽になりたい……>
セスラスは歯噛みした。無意識の言葉だから、これがアスティの今の心中なのだろう。
バッ……
彼は昼間のことを思い出した。そして自分を激しく責めた。
---------わからなかったのか!
これだけアスティが苦しんだというのに、彼女の必死の振る舞いに何の疑問も浮かばなかったのか!
バッ……
<くるしい……>
<死にたい……>
アスティの抗うこころの声、しかしセスラスはかっと瞳を見開いた。
「死なせん。ジルヴィス。お前の好きなようにはさせない」
ガッ……
一気に剣を引き抜くと、肉を裂く音、生々しい手応え、熱い血がどくどくと流れ出してくる。アスティが大きくあえいだ。顔が苦しみに激しくゆがむ。
<嫌……死なせて……>
「---------だめだ! 今は許さん。自分の力で戻って来い! 全身全霊で、守ってみ
せる!」
バッ……
剣の切っ先が胸から出た。血は止まっていた。そうこれが、まだ宿主を死なすことのできぬジルヴィスのわざ。
セスラスは血まみれの自分の手とアスティの全身とを見た。そして祝福を与えるかのように傷口にそっとくちづけする。血の味。しかし生命の。
「陛下……!」
ちょうどいい具合にアリスが戻ってきた。彼は立ち上がり布を受け取ると床の血を拭うより前にアスティをそっと抱き上げた。まだ乱暴にしては、傷口が開くおそれがある。そして背中の下にいっぱいの布を敷くと彼女を横たえる。セスラスは口元を拭い、自ら血にまみれた身体を起こした。
「止血はしたが応急にすぎない。魔法院に連絡する。お前はアスティを着替えさせろ。後ろを向いているから」
「は、はい」
アリスは棚から鳩を出し自分はアスティの着替えにかかった。セスラスはアスティの机から羊皮紙を探しだしてペンを走らせている。
「陛下、お手を……」
「ああ。すまない」
セスラスは湯で手をすすぎ、渡された布できれいに拭くと、服を着替え鳩の足環に紙片を滑りこませ、窓から放った。
「……」
「陛下。終わりました」
「ああ」
彼は振り返った。そして床の血をぬぐった分も含めて、血のついた布や服を暖炉にもっていってくべた。
ボッ……
燃えさかる炎に不気味に照らされながら、それを見つめたままセスラスは言った。
「アリス……わかっているとは思うがこのことは一切口外ならんぞ」
「わかっております……私は何も知りません。アスティ様は、突然高熱を出してお倒れになってしまわれたのです」
「うむ」
パチ……パチ……
暖炉が布を焼き尽くし、薪だけが爆ぜる音が不気味に響いた。
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