慟哭の心 4


                    5



 さく……

 彼女は踏みしめた砂の音の静けさに聞き入りながらかなたで光るまだ細い月、その下できれいにシルエットをつくる城の影を見て唇を噛みしめた。

 身体は重く砂に足をとられ目がかすむ。唇は渇き頭がふらつき、どちらが上かもよくわからない。

 ---------倒れちゃいけない。

 彼女は必死になった。やっとここまで来たのに今更こんなところで倒れるわけにはいかない。ここまで来たのだから。砂竜の攻撃を避け、少ない水に頼り、手形もないまま、女一人剣も鎧も持たず。不屈、そう不屈の一文字で。

 よろめきながら、彼女はまた、歩きだした。



 春---------。

 砂漠は砂嵐の季節となる。普段よりも多く長く、激しい砂嵐。ひどいときには、民は表へは出ず家の中でじっと砂嵐が通りすぎるのをじっと待つことも少なくない。砂嵐の前兆は砂漠に住んでいればすぐわかるので、一刻ほど前から家に入っていれば大丈夫だ。砂嵐の恐ろしさはただ聞くだけよりも凄まじい。熱風で息ができず激しい風に吹き飛ばされ遭遇すれば生命はまずない。だからこそ彼らは砂嵐に対しては時間も労力も惜しまない。

 それだけ脅威されているのだ。五番目の月、葉緑の月になると砂鎮祭というものを催すのも、今はお祭りだがもとは砂嵐をおさめ、共存していくための儀式だ。ルイガが横行した昨年は祭りどころではなかったし、今年もリザレアにはそんな余裕は精神的にも経済的にもない。各国援助は下火といえどまだ続いているのだ。

 強い風がガタガタと窓を揺らして、アスティはその窓から砂漠を見てそっとため息をついた。

「どうした」

 セスラスは珍しく自分の前でため息をついたアスティに顔を上げて問いかけた。

「いえ……気が……滅入ると……」

「うん?」

「……砂嵐は……」

「……ああ……」

 セスラスは尋ねたことを少しだけ後悔していた。

 アスティは変わらず窓の外を見ている。

「…………」

 息を大きく吸って瞳を閉じると……こんな日は思い出す……。

(砂嵐の日は思い出す……)

(……兵士たちの声が聞こえる)

(砂漠戦争の兵士たちの声が)

 アスティの傷は消えていない。

 セスラスはわかっていた。そして一生、どんなことがあってもこれだけは、アスティは永遠に立ち直れないということも。

 あの時……方法さえ間違わなければ、アスティはイムラルの妃にだってなれたはず。 ただ、イラルの長老たちがリザレアに「頼む」という形でアスティをもらいうけることを、その誇りの高さゆえに拒んだために。イムラルは必要のない死を迎え、アスティは、彼女を愛した男のもとへも、自分が一番愛する男のもとへも、行くことができなかった。 立場さえ許されれば、セスラスは思ったものだった。

(立場さえ許されれば、オレはお前と結ばれていたに違いない)

 しかし許されなかった。

 長い戦乱、部族同士の戦いのあとでは、彼のとった策が一番なのは言うまでもない。移民は多いものの、基本的には、根本はリザレアは天と大地の部族の国なのだ。だからこそ部族の者ではないアスティは枠の外だった。では、と思う。

 アスティが部族の人間だったなのなら。

(いや……)

 セスラスはあえて否定した。

 なにも考えまい。今自分は妃を迎えている。それなりに愛しているし今に不満はない。 もしこうだったら、そう考えては人間きりがないのだ。

 しかしアスティは、ふたつの国が奪い合ったアスティは、「大国に戦をしてまで求められた女」として見られるアスティは、並みの人間では釣り合わないことを誰もが知っているがゆえに、もう多分誰かと結ばれることはないだろう。それにリザレアの人間が許さないだろう。あの戦は民も承知の上でしたこと。アスティの相手がつまらない男だったら民がそれを認めない。

 つまりアスティは、その血がリザレアのものにならないかぎり、結局誰のものにもなれないのだ。

 しかし、彼は今でも思う。

(お前をあれだけ愛した男)

(お前も本物ではないにしろ、あの男となら、幸せな生活を送れただろうに)

 そして自分は彼とよい友となれたはず。アスティもセスラスも、とても大切な人間を失ってしまったのだ。

 ただ、あの時、イラルの高すぎる誇りが邪魔さえしなければ。

「王、謁見のお時間です」

「ああ」

 彼は立ち上がった。考えるときりがない。後悔してもあとがない。もうやめよう。自分もアスティも、王妃も誰も彼もが不幸になってしまう。

「ファル公国、派遣団一行」

 扉の前の兵士が言うのを遠くで聞いて、セスラスはあの青年のことを思い出していた。

 銀の髪、蒼い瞳……

「王」

 アスティに囁かれて我に返る。目の前では派遣団の一行の代表が彼に一通りの挨拶をしている。

 太公の言葉を伝え聞き、リザレアでの利益、色々なことを話し合い、さて一行が退出しようとしたとき。

 突然一番前にいた赤い髪の女が吃となって顔を上げ、玉座を見上げたかと思ったら、どこに隠しもっていたものか短剣を引き抜き派遣団の者も兵士も止める余裕を失うほどの速さで、飛びかかった。

「---------」

 アスティは一瞬の判断で玉座の前にセスラスと王妃を守るように立ちはだかった。

 が。

「!?」

 女は国王を狙うどころか、まっすぐ、迷わずにアスティの胸元へと短剣を突き立てようとしてきた。

「---------」

 思わぬことに硬直するアスティ。そのアスティの胸に短剣が迫る!

 ダン!

 凄い音がして、たちまち短剣が弾かれた。横から伸びた手は誰のものかと思って見ると、それはディレムのものであった。

「連れていけ」

 無表情に言うとディレムは短剣を拾い上げた。兵士が近寄って乱暴に女を連れて行こうとするのに気付いて、アスティが慌てて言った。

「待って。そのひとを乱暴に扱ってはだめ。そのひと……」

「衛兵。放してやれ」

 アスティの言葉をセスラスが遮って低い声で言った。

「身籠もった者には罪人でも丁重にするのが礼儀というものだ」

 放心硬直するアスティをそのままにして、ディレムは素直に引き下がり衛兵に目で合図をした。その日の当番で登城し王妃の側にいた勇女軍の者とマンファルスが女の側に歩み寄って左右に立った。これ以上の危険な真似をさせないためだ。同行の派遣団の者はすっかり青くなっている。

「一体これはどういう事かな」

 セスラスは肘をつきながら派遣団を睨みおろすようにして言った。青くなっているアスティのかわりに、怪訝そうな顔のディレムのかわりに、彼は派遣団の代表の言葉を待った。 代表はがたがたと震え、汗をびっしょりとかいている。とてもではないが、彼が女に命じたとは考えにくい。

「ままままことにもって申し訳なく……で、ですが、この女は我々とは直接の関係を持たぬ者でございます。ご当地に到着しまして、雇ってほしいと言われ、雇ったことは雇ったのですが、今日は陛下に謁見するので他の者たちと残れと言ったのですが……知らないうちに紛れ込んでおりまして……お城に入ってから気付いたもので、追い返すわけにもいかず……」

 セスラスは小さく息をついた。

「まあいい。おって沙汰するまでしばらく謹慎して頂く。その女の罪状がはっきりしないことには。よろしいな?」

 代表はてっきり罪に問われるかと思って牢屋入りを覚悟していたものだから、汗だらだ

らになりながら這う這うの体で退室していった。

「さて……」

 セスラスは向き直って、今は膝まづいてうなだれている女の方を見た。

「参謀の生命を狙うとは酔狂な。これはリザレアにとっても私にとっても大切な人間。しかしながら身重の身体でそんなことをするのもまたうなづけん。特別に身体のことを考えて、今ここで裁きを行なう。話してみろ」

 女は黙っていた。それは、……気が遠くなるのではないかと思うほどに長い間。

 アスティは身の縮む思いでそれをひたすら待った。時は無常にも遅く、アスティは嵐のただなかにいるほど心細く、宇宙に放り出されたかのように孤独だった。

「私の夫は……砂漠戦争で戦死した平常兵士でした」

「!」

 砂漠戦争……!

 アスティの全身が激しく震えた。

「身籠もっているのは、夫の子です」

 セスラスは眉をひそめた。

「おかしいではないか。砂漠戦争が終結したのは何年も前のことだぞ。なぜその時の子供がまだ産まれない」

「イラルは薬草の国。成長を止める作用のある薬草もあるのです」

 アスティがはじかれたように呟いた。

「緑止草……」

 女もうなづいた。

「でももう服用をやめました」

「……あれは……三年以上服用すると……」

「賭けでしたから」

 アスティは倒れそうになるのを必死になって押さえていた。いや、もしかしてもう倒れているのかもしれない。どちらなのだ? 身体の震えが止まらない。暗闇のなかそのまま落下しているような感覚を感じる。

「しかしなぜそんなことを」

「……仇を討ちたかったのです。産まれてくる子供の……夫の」

 アスティの震えは止められなかった。誰もが気が付いていて、そして彼女を愛し気遣うあまりに気付かないふりをしていた。アスティの腰にさげてある剣の鞘がカタカタと鳴っている。それが水を打ったように静かな玉座の間に響きわたる。

「では最後に聞く。その身重の身体で、一体イラルからこのリザレアまで誰と来た? 苛酷な旅であったろうに」

「---------誰も」

「なに?」

「誰も一緒ではありません。この身一つ、砂漠を歩いて渡ってきました」

 何という事!

 そこにいた全員が驚愕に打ち拉がれた。徒歩で歩いてきたというのか? 馬もなく?

 あの呪われたといっても過言でもない、アデュヴェリアで一番苛酷な土地を、女一人、剣も鎧も馬なく、ただひとりで、砂竜も、野盗の手も逃れて? それは並々ならぬ苦労たったに違いない。男でも根を上げる過程だ。

「---------裁きを言い渡す。三年間の国外追放と五年間の自国謹慎を申し付ける。

 すぐさまイラルの公王に連絡をとりイラルまで護送せよ。閉廷する」

 一方的に言い放ってセスラスは立ち上がると、敢然と玉座の間から立ち去った。参謀と宰相と預言者は頭を下げて彼を見送り、王妃のあとからついて退室した。

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