慟哭の心 1
2
建物のまえに着くと、ますますその美しさを見せ付けられた。全体が青水晶でつくられていて、柱などの向こうは青く透けて見える。ふたりがその階段へ向かおうとしたとき、なにやら側にあった茂み---------植物か、海藻の類かはわからぬが---------から、なにかガサリと音がした。アスティはぎくりとして立ち止まった。ただでさえ、海が割れるというこの異常な事態、帯剣していないというのは、こんなにも不安になる。
ザッ。
茂みから出てきたのは、右から二体、左からも二体、みたこともない生物---------
といっていいものなのか---------だった。左右からこちらを威嚇するかのように近付
いてくるのはさながら獅子、あるいは蛇。
なんともおかしな生き物だった。
全身は黒く、金属質なのか時々月光を浴びてきらりと光る。四本の足が蟹のようで、地面から四十センチくらいの高さで本体を支えている。不気味な赤い目だけがこちらを見ている。
ギッ。
無機質な音をたてて生き物が二人に飛びかかった。意外に素早い動き。
「---------!」
パリ……ィ……ン……
パ……アァ……ン……
本当に寸前だった。二人の胸元までその長い足の爪のようなもので刺そうとしていた生き物を、まるで叱責するかのように、呼びもしないのに渦が、ジルヴィスとジルヴェスが突然現われたのだ。
ギッ……
渦を見た途端、生き物は後退しつつふたりを赤い目で見ていたようだった。
明らかに怯えている。
番人……なのだろうか。二人があっけにとられている間に、黒い生き物はいつのまにかどこかへ消えていた。今まで入ることを許されなかった者、あるいは海底の無法者達は、あの番人の前に倒れたのだろうか。
ふたりは中へ入った。
内部は定間隔で太い柱が林立しており、まっすぐ続くホールのような廊下は、このまま永遠に続くかとも思われた。
「…………」
耳鳴りすらしない静寂。二人の微かな息遣い、静かに、まるではばかるような足音だけが、熱い鼓動のように響いている。
なんて荘厳な。
そしてなんて美しい。こんなに純度の高くて、こんなにおおきな青水晶のかたまりを、アスティは見たことがない。耳飾りも同類を見つけたかのようにキラと光る。
ここは一体?
スッ……
「!」
二人はとっさに身構えた。左右から、突然各六人の男女が現われたのだ。
アスティの立つ左側からは、女。
セスラスの立つ右側からは、男。
おとなしい、彫刻のような顔立ちだ。そう、古代の壁画の人物画を思わせる。しかも身体の向こう側が透けて見える。
「……この人たち全員……」
「亡霊……?」
彼らは静かにふたりの前に膝まづくと、忠実な家来のような瞳でふたりを見た。
「害意は……ないのか……」
なんという澄んだ瞳をしているのだろう。
まるで、ずっと王を迎えられず、侵略と攻防の繰り返しに疲れ、共に死を選ぼうとしたときにとうとう主君を見いだした者達の、待ち焦がれ続けた瞳にも似ている。
男女はそれぞれ申し合わせたように立ち上がり、女性はアスティを、男性はセスラスを、それぞれ両脇の扉へと連れて行った。亡霊のように実体のないものは肉体あるものに触れるとその生体エネルギーを吸収する。彼らはしっかりと自分を掴み、冷たいが、血が通ったようには感じないが、確かに腕の感触が伝わっている。
「……! 王……」
アスティは抗ったが、どうにもできないほど相手の力は強い。まるで彫像に掴まれたかのように、びくとも動かない。
「従おう。傷つけるつもりはないようだ」
「…………」
そのまま、奥へと連れていかれた。廊下や天井はもちろん、床に至るすべてが青水晶だった。これのかけらだけでも庶民の一生分の値打ちがあるに違いない。
アスティの連れていかれた部屋は入ってすぐ長い通路が一本通っており、両脇にはなにかとても大きな、アスティが見上げるような大きな生物の肋の骨のような先のとがったものが等間隔で配置され、終着点には青い浴槽が湯気をたてて彼女を待っていた。
アスティはまるで王女のように手を引かれ、その浴槽の前で六人の女たちに手伝われ服を脱がされた。それは優雅で、流れるようなやさしいしぐさで。
「これに……入れっていうの?」
アスティは浴槽を指差しながらこわごわ聞いた。
誰もうなづかず、誰もこたえない。
仕方なしにアスティはそっと青水晶の浴槽に入った。湯はあふれず、湯気ばかりが豊かにたつ。途端に、六人の女たちがアスティの腕や手をとって、湯をかけたり、側にあった壺のなかのいい香りのする油を塗ったり、またはその長い髪を湯で梳ったりし始めた。
まるで、これから初夜を迎える姫のために、精一杯磨いてさしあげようと励む侍女のように。
「…………」
アスティは彼女たちを放心して驚きの目で見つめ、そして初めて、自分のつかっている湯がとてつもなく濃厚で良い香りを放っているのに気付いた。それで髪を梳かれて、アスティはいくぶん落ち着いた気分になった。
(いいにおい……)
しばらくして女たちが立ち上がったので、これで終わりかと思ってアスティが立ち上がると、大きな白布で迎えられ、そのまままた手を引かれるまま骨の間を歩くと、残り三人の女たちが、いつのまにかそこで青い布を持ってアスティを待っていた。
それは……薄絹のような手触りだった。着ると暖かく、幾重にも重ねて着たのに指でつまむと一枚だった。それゆえ透けて見えるかとも思ったがそれも違った。透けるのは重なった内の一番外側が微かに透けるくらいで、この青水晶のように、すべてを向こう側に映しだしたりはしない。
女たちは幾度も廊下を曲がって彼女を案内したが、最後に扉の前につくと、また膝まづいて一人で行けとでも言うかのようにアスティを見上げた。
アスティが扉を開け、ホールの向こうに消えたとき、女達の姿は、忽然と消えていた。
廊下はえんえんと左に続いていた。右には、青水晶の壁が行く手を阻んでいて、よく見るとその向こうに先程自分たちが入って来た入り口が見えた。
アスティはしばらく辺りを歩いた。あちこちに絵が飾られ、調度品の見事さはため息の一言。その素晴らしさにほっと息をついていたとき、後ろでカチャリという音がしたと思って振り向くと、全身黒ずくめのセスラスがいた。長袖の上下を着ている。その黒は、上位魔導師の清冽なる黒の美しさにも勝る。
「王……」
「早かったな」
彼は後ろ手に扉を閉めながら言った。アスティはそんな主君に放心したように見とれ、「どうやらおかしな儀式に参加させられたようだな」
との彼の言葉にハッとして、慌ててあいまいな返事をした。
「入浴させられました」
「オレもだ。その後これに着替えさせられた」
連れ立って二人は、青水晶の建物のなかを歩いた。ただ道は廊下の一本、えんえんと、歩けとでも言いたげに。
「ここはどうやら神殿みたいですね」
アスティは天井いっぱいに刻まれた文字を見ながら言った。絵が見られることもしばしば。
「すごい……保存が完璧です」
「あの細工も見事だ」
「こんな海底で……いったいどうやって?」
アスティが呟いたとき、二人はびっしりと文字の刻まれた、一段と太い柱を見つけた。 それらの文字に指を這わせ、アスティは言った。
「……これは……超古代の文字です」
「読めるか」
「なんとか……少々お待ちを」
アスティは柱の途中あたりで中途半端に途切れている最後の文字に指を這わせた。これら超古代の文字は、もともと古代文字の原型となっているものだから、古代文字を徹底して修学していれば、いくつか滅びた文字はあるものの、解読は不可能ではない。
「……ナ……ジェ・・ナ……。カー……ファ……ジェナ」
!
アスティは口に出してから初めて驚愕した。
カーファジェナ!
あの運命のお告げ所の、巫女のことではないか。
ふたりは顔を見合わせた。
「もっと前の文字は読めるか」
「やってみます」
アスティは「失礼します」と言って短くなにかを詠唱すると、フッと浮遊してセスラスの遥か頭上、柱の上のほうまで飛んだ。
「ジャ……ス……ミーナ……。……リ……ユリアナ。……ビ……ア……ジュビア……。……これはみんな女性の名前です」
アスティはさらに上まで行くと、一番初めの文字に指を這わせゆっくりと読み始めた。
「……命……の……お……げ所の……---------代の……巫……」
セスラスはアスティを見上げた。
「運命のお告げ所の代々の巫女か」
アスティはうなづいて、スッと彼の側に降りたった。そしてまた並んで歩き始める。
「いったいここは……どこ……なのでしょう」
「うむ」
「一体……」
アスティは言いかけてハッと口をつぐんだ。廊下の行き止まりだった。
そこには祭壇があった。神像はないが、その前で一人の男が、こちらに背を向けて何事か祈っていた。
そしてふたりが近付くと、振り返って言った。
「ようこそ、運命の神殿へ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます