あれから 2
2
九番目の月、鏡空の月も半ばに入り、リザレアにもやっと静けさが訪れようとしている。 多忙期の影響はひっそりと影をひそめつつあり、アスティやセスラスやディヴァはまた、玉座の間で各々の場所にて務めを果たすという日常を迎えつつあった。いつもならまだこの時期は大忙しなのだが、ルイガの暗黒時代の影響のせいだろうか、商人たちの数もあまりない。
つい最近私有化された勇女軍の人間もいつもどおり月番の交替で登城している。美しい砂漠の夏が終わりを迎え、時は収穫と狩猟の月に入ろうとする頃、国王はごく少数の親衛隊をひきいて偵察へでかけた。
「今日はどちらへ偵察へ?」
「ノスティの辺りだな。あまり最近治安がよくないらしい」
「しかし陛下自らが行かれなくとも」
「ディレム。アスティを見ろ。とっくに諦めて護衛に専念しているぞ。少しは見習え」
「アスティ殿がご一緒ならいいのですが」
無表情に送り出すと、ディレムはため息をついた。
どうにも主君のあの放浪癖だけはとめることができない。宮廷の体面を考えると、国王が軽々しく外へ出るのはあまりよくないのだが、しかし今までの彼の生活を考え、また自分が彼から自由を奪う原因のひとつになったとも思うと、強くは意見できないディレムであった。時々馬で偵察と称して辺りを出歩く、それが国王の唯一の楽しみなのかもしれない。
そしてその頃アスティは、珍しくラウラの来訪をうけて、二人でおしゃべりに興じていた。アスティは普段忙しいので、アスティ自身が魔法院に来ることはあっても、こちらから訪ねるということはできなかったのだ。アスティは手放しでラウラの来訪を歓迎した。「陛下は?」
「偵察に行かれてるわ。最近ノスティはあまり治安がよくないから、おすすめしなかったんだけど」
「……」
「あ、……ごめん」
「いいよ。もう忘れた」
ラウラは笑って窓の外を見た。
しかしその茶色の美しい瞳には、今が映っていなかった。ひどく透明で、ひどく悲しい瞳をしていた。
「……」
アスティはその横顔を見て胸がひどく痛むのを覚えた。魔法院のなかで数多いみなしごや戦災孤児はたいてい悲惨な経験のあと魔法院に来ているが、ラウラはそのなかでもかなり悲惨な部類にあたる。アスティはそれを知っているだけに、謝ることも、慰めることもできなかった。
「お昼はなに食べさせてくれるの?」
ラウラが振り払うように明るく言った。場を沈めてしまったと思ったのだろう。アスティも合わせて明るく振る舞う。こうして会えることは滅多にないのだから……もっと楽しく時を過ごそう。
「そうね……二人で作ろっか」
「あ、いいね。久しぶりにやろっか」
「昔はよく試験中にお腹がすいてさ。夜中にこっそり二人で厨房で夜食を作ったわね」
「そしたらモムラスたちも来ちゃって」
「他の仲間たちも来て、結局導師さまに見つかって。あの時は大目玉だったわね」
「でもあれ以来食堂は試験期間中ずっと開いてるの。年下の院生たちにとっても感謝されてるんだよ」
アスティはふふと笑った。光がにじむような笑顔だ。
「食事は普段ひとり?」
「うん、昔はね……レヴァがいた頃は……王もレヴァも食堂に出てきていたのだけれど」
アスティは言ってから、わざと笑顔になって言った。
「でも、ほら、ご結婚なさったら、王妃さまとお部屋で食べるでしょう?」
まずいことを聞いた、口ではそうだねと言っておきながら、ラウラは内心そう思っていた。これはさっきの自分のときよりもまずかった。なによりラウラはあの日の……式の終わった夜のことをよく記憶している。また、式のために、アスティがどれだけの努力をして平然と振る舞えるようになるまでも。
ラウラは夕方まで一緒にいた。楽しい時間はすぐに過ぎ去る。日が沈む頃になっても国王が帰ってこないことに、アスティが不審に思ったのもその頃だった。
「変ね……いつもは二、三時間で戻ってこられるのに」
アスティが呟いて誰かを呼ぼうと立ち上がったときだ。廊下でひどく慌ただしい足音がして、伝令の格好をした兵士が飛びこんできた。兵士がアスティの私室に来るという普段は絶対に考えられない状況にアスティは不吉を覚えた。あの日の、夜古神殿でおこった爆発を思い出した。
「伝令!」
「何事です」
「たった今ノスティからの書状で……」
(---------ノスティ!)
ラウラの顔が強ばった。
「国王陛下以下全員を、全員捕縛したと……!」
(!)
「なんですって! どういうこと!」
「重臣がたが玉座の間に集まっておられます。参謀殿に、至急来て頂きたいと……!」
「わかりました」
出ていこうとするアスティの腕を、ラウラが掴んだ。白い顔はもっと白くなっていた。「アスティ……」
「ラウラ……」
「あたしも行かせて。邪魔しない。お願い」
強い、低い声だった。普段なら国のことに外部の人間を関わらせるようなことは、たとえ仲間でもしないアスティだったが、今回は違う。ラウラにも多少なりの関係がある。
「……いいわ」
アスティは言って、ラウラと共に玉座の間へ走っていった。
玉座の間は混乱状態であった。重臣たちも長老たちも、お互いにいま起こったことを口口に話し合っては、いったいどういうことかと言い合っている。王妃はひとり、青い顔をして不安気だった。
「参謀殿です!」
「おおアスティ殿……!」
アスティが入っていくと、たちまち彼ら長老たちが群がってきた。
「陛下が……」
「親衛隊の者も……」
「落ち着いてください。初めから状況を」
「たった今このような書簡が送られてきた。見ろ」
ディレムがいつもとあまり変わらない表情で書簡をアスティに渡した。アスティは震えがとまらない手でそれを受け取り、震える声で読み上げた。
「……貴国国王陛下及び兵士の方々を全員捕縛した。国王の安全は、そちらの出方次第……」
アスティはきっと顔を上げた。
ノスティは最近とみに治安が悪い。またつい先日南の街テュナスとの贈収賄が発覚し、罰としてその交易権の三分の二を剥奪した。そのことが関係しているのだろうか。どのみちセスラスのことを恨みに思っているはずだ。早く手を打って、しかるべき方法に出なければ……
『そちらの出方次第……』
(---------殺される!)
アスティは気が遠くなった。倒れる、そう思った。目の前が暗くなって、耳がひどく鳴った。
バターン!
しかし誰かが先に倒れる音で我に返った。
「王妃さま!」
誰かが叫んでいる。ディレムが早く別室へ連れていけと叫んでいる。アスティは冷たい唇をぎゅっと噛んで意識をはっきりさせた。自分を頼る視線を十重二十重に感じる。声が震える。手が震える。
(震えるな手!)
「し……召集を!」
アスティは己れの弱い部分を叱咤するように叫んだ。一点に視線が集まる。
「至急会議室へ召集を。騎士団からは各隊隊長、勇女軍からは各分隊長を。大臣がた、長老がたは至急準備を。采配は宰相に任せます。マンファルス!」
「はっ!」
「緊急です。臨時の戦時作戦として総司令官が戒厳令を出す。準備が終わったら会議室へ来なさい」
「はっ!」
ラウラは動きだした人々を見て、それから彼らを動かしたアスティを見た。
全身の震えを押さえられないように、ぎゅっと唇を噛みしめていた。
(倒れるな)
(まだ倒れるな)
(私が倒れれば人が動けない)
(処置がそれだけ遅れる)
(倒れちゃいけない……)
アスティの瞳に涙がにじんでいた。
情けない。情けない。自分が憎らしいと思うのはこういう時。
(倒れちゃいけない)
(倒れちゃいけない……)
「偵察兵、報告を」
「ノスティ付近の街道は封じられております。また高台からの報告によると、街中でかなりの武装をしていると」
「まさか戦をするつもりか、リザレアと……?」
誰かが信じられないように呟いた。たかだか人口が何万ていどの街が、大国リザレアとの戦争を準備しているときけば、まず無謀だと思うだろうが、あちらには国王という切札がある。こちらの動きを封じこめる気だ。
(倒れるな)
(まだ倒れるな)
「では緊急手配を。ディヴァ、石版からの距離は?」
(倒れるな)
「配置はどうします」
「それから西の警備は……」
(---------倒れるな……)
そんなアスティの横顔を、ラウラはじっとみつめていた。額に汗を浮かべて、彼女はよく頑張っていた。
すべてが終わった頃には夜中になろうとしていた。しかし当分、リザレアに夜は来そうにもない。他国ならこういった状況下では民が動揺するのが常なのだろうが、リザレアのように部族集合体の場合は、普段よりも結束が固いといっても過言ではない。
廊下をアスティとラウラ、ディレムが歩きながら、堪え難い沈黙を耐えている。
(……)
この寒いというのに汗をにじませているアスティをちらりと見て、ディレムはそっと息をついた。
「---------ディレム」
「もういいぞ」
アスティは蒼白な顔を彼に向けた。
「……大丈夫?」
ディレムは黙ってうなづいた。その瞬間、アスティの全身から力が抜けた。
「---------」
アスティは倒れた。静かなものだった。何もかもわかっていたように、彼女の身体をディレムが受けとめ、ラウラの方を見て言った。
「少し休ませましょう」
ノスティは古くからある大きな街だ。今はリザレアの支配下にあったが、リザレアが国として成立する混乱期には、街の領主が自治していた。天と大地の部族の抗争が終わった後からは、リザレアの支配下に入った。
「本当はあの時倒れたかったんだろうね」
ラウラは眠るアスティの額にかかった髪にそっと触れて言った。今部屋にはアスティとラウラの他にディレムとディヴァがいる。
「でも耐えたんだね。自分が倒れたらその分陛下の救出が遅くなると思ったんだ。ねえアスティ」
夜明けにも導師たちが来るだろう。ラウラはスッと目を細めた。ディヴァが心配気にラウラに言う。
「でもこれからどうなるんでしょう。ノスティの領主は一体なにを……?」
「現在の領主はたしかケスイストⅢ世と名乗る男だ。通り名は確か『残虐王』……」
「そう。彼の祖先はノスティの統治者で、今は甥を傀儡目的で領主につけているわ。ケスイストⅢ世には妻がいて、彼の従姉妹でもあったの。男の子を二人、女の子を三人もうけたけれど、妻の方が直系に近かった。それで自分の立場を危んで、息子はおろか妻まで、皆殺しにしてしまったの」
「話には聞いたことがあります。でも、確か全員病死だと……」
ラウラは鼻白んだ。
「体裁が悪いからそうしただけよ」
「やけにお詳しいですな」
ディレムの言葉にラウラは言い淀んだ。
「それは……」
ラウラは時間を稼ごうとしてアスティの方を見た。驚いたことに目を覚ましている。
「あ……起きた?」
「……」
アスティは顔をしかめながら起き上がった。
「あれからどれだけ経ったの?」
「二、三時間かな。まだ返事が来ないの」
「……」
夕方の会議でリザレアはノスティに目的を糾すための書簡を送った。その時点で、国王の命が保障されているとは、限らなかった。
いくら彼が流浪王と呼ばれ北アデュヴェリア、レヴラデス一の剣士とはいっても、両手を縛られ、自由を奪われれば、どうすることもできないのは明らかなのだ。
「……」
アスティは目を瞑った。
(どうかご無事で……)
「アスティさん、これからどうすれば……?」
アスティは瞳を開け、ディヴァとディレムの方を見て言った。
「あちらの目的はわかっています。目的は私の生命で、王の生命ではありません」
「あんたの……? どういうこと」
ラウラが顔色を変えた。
「……修業時代、ケスイストⅢ世の生け贄の儀式を邪魔したことがあるの」
「生け贄の儀式……?」
ディレムが怪訝そうに呟いた。この時代に、またけったいなことだ。
「領内の処女全員を裸にして、広場で虐殺するつもりだったの。私は一年修業の折りにノスティに滞在して、それを妨害したわけ。街の男たちと協力してね。その時……」
まだ覚えている。
えらく恰幅がよく、鍛えられた身体、鋭く狡猾そうな瞳、その瞳は頭に髪がないことも手伝ってまるで蛇を連想するような鋭さだった。
『娘……名は』
今になって名乗ったことをアスティは後悔していた。事はいつも、予想もしない方向へと突き進むもの。
「とにかく返事を待つしかないでしょうね」
ディヴァの言葉を遠くに聞きながら、アスティは月の光を受けて青く冴え渡る砂漠に目を馳せ、同じくらいの強さで思いを馳せていた。
(どうかそれまで……ご無事で……)
次の朝もアスティは宮廷の中心になってよく働いた。色々な指示を出し、斥候の兵を派遣したり報告させたりした。また昼になってノスティからの書状が届いた。それはそちらがよくわかっているはず、という風な意味のものだった。アスティは思い切って長老たちにことの次第を打ち明け、反対を押し切って人質の交換を申し入れるための書簡を送った。 向こうの目当ては自分だとわかっている。つまり自分が行けばいいのだ。返事はすぐに返ってきた。ノスティはそれを受け入れた。アスティは勇女軍の精鋭を従え、夕方にノスティに到着する予定をたてて準備をすすめた。
「アスティ」
「ラウラ」
「導師さまたち遅れるんだって」
「そう……仕方がないわ。もう行かなくちゃ」
「ねえ……」
「---------え?」
「あたしも連れていって」
「---------ラウラ!」
「あたしも行く。もしかして十七年前の始末がつけられるかもしれない。あたしは、この手でそれをしたいの。ねえ、アスティならわかってくれるでしょ?」
「……」
その真剣な瞳。
普段明るいラウラが、ここまで思い詰めているなんて、アスティは考えもしなかった。 自分が己れの呪われた運命の始末をいつもつけたがっているように、ラウラも自分の手で決着をつけたいのだ。
十七年!
なんと気の遠くなるような年月だろう。時の流れは人それぞれによってまったく違った異なりを見せる。ラウラにとっての十七年とは、どんなものかすら、アスティは考えたことがなかった。
「……わかったわ」
「アスティ……!」
「支度が終わったらすぐ出るから」
「うん!」
アスティはラウラの背中を見送った。それからうつむいて、これから起こうることを予想し、そっとため息をついた。
疲れた。
出発まで一時間ほどある。それまで少し眠ろうか。一時間たったら起こすようアリスに頼んで、アスティは机につっ伏して眠った。
横になって眠るとそのまま起きられないことをアスティはよく知っていた。仮眠をとるには、不適切なのだ。
草が……
…………樹が……
……凍る…………
………………ジルヴェス…………
「アスティさん」
アスティは目を開けた。ディヴァだ。
「……あ……?」
「起きました? 時間ですよ」
「あ……そうか……」
アスティは立ち上がって水を飲んだ。夢を見ていたような気がするが。
「ディヴァ」
「は、はい」
「王妃さまを頼んだわね」
「はい……」
「……私は生きて帰らないかもしれない」
「! ……アスティさん」
「そんな気がする。ずっとずっと昔の頃から私の運命のことを知っていたのでしょう? なんだかすごく……予感がするの」
ディヴァは押し黙った。制約により渦の名を口にすることは禁じられている。そしてまだ、制約が解かれることはない。ふと視線を感じて、ディヴァが顔を上げると、時空の向こうからあの女が彼を睨んでいた。ディヴァはふうとため息をついて、一言、アスティに
「いってらっしゃい」
と言った。ひどく不釣り合いな言葉であったが、彼にこの他に言う言葉はなかった。
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