第Ⅰ章 あれから

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 全面的な諸国復興が終了し、各国への援助からは離脱したものの、リザレアの水面下の協力は続いていた。人材や物資の派遣の手続きは牡鹿の角の月をもってすべて終え、人材はやるべきことを終えてからリザレアに帰還、物資は「義勇」という名目でなんの代償もなしに各国へ供給されていた。以前はリザレアの王城の窓から一晩中灯りが途絶えなかった日が続いていたというのに、それからもやっと解放されつつあり、しかしそのリザレアも自国の多忙期に突入しており、先年の国王と参謀の不在も手伝って、首脳たちは文字どおり目の回るような忙しさに毎日を奪われていた。

 あの預言の開かれたの凍天の月から五か月---------。

 世界は新たな出発を迎えようとしている。

 領土の悉くを魔物に支配されていた北レンドリ王国は結成された討伐軍とリザレアの騎士団の不眠の努力によって人の住める状態に戻ったし、北西フィラーレァ王国の瘴気と毒の沼に覆われた大地も、三大国家の国王たちの協力で、再び元の草原に戻りつつある。

 また救援活動の中心となって各国に援助と派遣を続けていたリザレアも、二人の英雄を迎えて活気づこうとしている。先月式を終えたばかりの国王セスラスは、共に旅を終えたアスティと預言者ディヴァ、片腕のディレムと、多くの協力者と共に、日夜公務に励んでいる。王妃シリアは天の部族の長ヴェクシロイド老の娘で、同時にディレムの妹にあたる。 傭兵として大地の部族の側につき、戦っていたセスラスがやがて王になったことからも、この結婚はどう見ても政略の意図が強いものだったが、なかなかどうして評判がいい。無論のことこの二つの部族のより強い結合を願っての国王の希望であったろうし、リザレアをめぐる二部族の歴史を見ると、彼の選んだ相手は正に正解といえるものであると言える。 それに部族統一が目的であっても、それなりに愛情をそそぐことのできる相手を選んだのだということは、側の人間には誰にでもわかっていた。式は至って簡素で、つい先月挙げられたものだから、他国の国王などを招待するいとまもなかった。本当は時期が時期だけに、先送りも随分提案されたが、国民が不安な状態にある中、安心させられる最良の手段と、援助活動のなか式は挙げられたのであった。

 緑まぶしい葉緑の月、まだ各国の援助活動をしていた頃、アスティはセスラスから九か月遅れの誕生日の贈り物として香水を受け取った。感想は、こんな忙しい時に、よく思いついたもの、また、よく覚えていたものと、感心したくらいだろうか。

 各国への援助活動は信じられないくらいに仕事が山積みされていたものであったが、約一年国を放り出して戻ってきた後の公務というのも、また馬鹿にできなかった。

 援助活動を終えたのが七番目の月、牡鹿の角の月で既に多忙期に入っていたので王城は休む暇もない。特にアスティは今までの参謀という役目柄の他、新設された取り締まり局の長官を任命され、おまけに戦時の作戦時総司令官という大層なものまで任命されてしまったので、その忙しさは筆舌できない。後者はいいとして、街の治安を預かるのが主な役目の取り締まり局の長官の仕事は、そう暇なものはなかった。南のマハティエル大陸との交易もいよいよ決定しアスティの仕事は増える一方だ。

 そう南のマハティエルといえば……。あの預言を開いた凍天の月、あのあとすぐにルイガの屋敷へ数人の部下と赴いたアスティが、魔導師が、アスティたちの住む北のレヴラデスだけてなく、南のマハティエルまでも支配しようとしていたことを、彼のつけていた書物から発見して、本当にアデュヴェリアを支配しようとしていたのだと改めて知り、ぞっとした記憶は、まだ新しい。リザレアのある北の大陸をレヴラデス、そこから南へ一万キロほど行った大陸をマハティエルといい、この二つの大陸を総称してアデュヴェリアと呼ぶ。

 しかしレヴラデスでもマハティエルでも不思議なことに相互の交易などの接触はまったく皆無であったので、北でアデュヴェリアといえばレヴラデス、南でアデュヴェリアといえばマハティエルという認識が人々の間にある。接触の今までなかった理由は簡単、遠すぎるのだ。大陸の間を挟む海はいくつもの暗礁などがありとても危険で、それに北のレヴラデスは、元は一つであった大陸だったというのになぜか石版の集中した大陸で、それが南の大陸の人間に恐れられ、接触を長い間避けてきたという理由もある。

 そう、なぜか、ローディウェールの時代、ひとつであった大陸が王国の崩壊と共に二分されたとはいっても、元は同じ大陸、北だけに石版が集中しているのは、不可思議なことといわねばなるまい。また南のマハティエルは国王セスラスの本当の出身地だという噂があり、若い頃の当時の彼のレヴラデスでの足跡の少なさ、またこれだけ彼の名声が全土に広がっているにも関わらず、彼の出身である、という確たる証拠のある国がないことから、流浪王の出身地はどうやら南の大陸のようだ。

 ---------そんな夏の日のことであった、宰相ディレムが、アスティの元へと訪れたのは。

「---------王妃さまが倒られた……?」

 花を活けていたアスティは振り向いて訝しげに問うた。ディレムは相変わらずの無表情でうなづいたのみだ。

「ちっとも知らなかったわ。いつ……?」

「昨夜だそうだ。なにしろ忙しくて、君のところへ伝わるのが遅れた」

「なんで……原因はなんなの?」

「今神殿の者が来ている。薬師が首を傾げていたぞ」

「……」

 アスティは眉をひそめて王妃の元へ行った。

 部屋から出て別室へ行くと、そこには主君が先程から彼女を待ち受けていた。

 伝染性のものかもしれないので、王妃は塔の国王の私室の隣の、自分の部屋から別の場所へ移されている。

「見たか」

「はい……」

 アスティはついさっきまで間近にあった王妃の表情を思い出して、わずかに眉を寄せながら答えた。

「おいたわしい……あんなに苦しまれて」

(---------)

 昨夜倒れた時……王妃は一人で自分の部屋にいたのだろうか? それとも彼といたのだろうか?

 あの夜……忘れられない二人の夜。

 あの日のことは、セスラスもアスティも口の端にも出そうとしない。

 あの時の自分たちは、今のような国王と部下という関係にあって結ばれていたのではない。名もない男と女として過ごした短い、しかし永遠の夜だったのだ。それはあたかも神聖なもののように、触れることで失うのを恐れるがごとく、二人の暗黙の合間にしっとりとしたまま保たれ続けていた。

「あれをどう見た?」

「神殿の方が首を傾げておられました。それに聞くところによると薬師も」

「うむ」

「呪い、かと思われます」

 セスラスは何も言わなかったが、そっと閉じられた瞳の静けさに、アスティは彼も自分と同じ考えであったということに気付いた。

「そうするとちょっと私の手には負えません。呪いは呪いをかけた本人が死ぬか、自らの意志で呪いを解く他には」

「方法がない。しかしあれではじきに体力を消耗して身体が弱っていってしまう。呪いの波動をつきつめることはできないか」

「……時間をかければ……」

 アスティは申し訳なさそうに答えた。この時期、波動をたどるだけの時間に自分が専念すれば、それだけ公務の滞りが著しくなる。それをよくわかっていて言っているのだ。  無論一日も早く王妃を呪いの呪縛から解いてやりたい。しかしいくら王妃のためとはいえアスティの携わる仕事には国民の生活に直接影響するものが非常に多いのだ。

 こんな時に何を思ったのか、アスティはふと、もし王妃さまがこの方の妃にならなくても、と考えていた。

(きっとお友達になっていただろう)

(素晴らしい方だもの)

 それは偽善でもごまかしでもなく、本心だった。美しいというのにちっとも鼻にかけていないし、朗らかで優しくて、セスラスが彼女を選んだ理由はよくわかる。剣の腕も確かなもので、勇女軍の精鋭も三本に二本はとられる。遠乗りも、油断すると供の者はすぐに離されてしまうほどに馬の扱いが上手い。恐らくちゃんとついていけるのはアスティくらいのものだろう。

(……ただ……)

 ただ、……あのままでいたら本当に仲の良い友達になれた二人を、王妃はともかくアスティにとって、彼女が「妃」だということで多少の複雑な気持ちが抑えられないのは否めない。大好きだけれども、素晴らしいひとだけれども、でも自分の愛する人の妃という強烈にして究極の矛盾は、アスティを今まで以上に苦悩させているのかもしれない。

 誰もが尊敬をこめて『泉の女』と呼び親しむ英雄は、人並み以上の能力、人並み以上の名声を得るのと同時に、また人並み以上の悩みを抱えているのだ。

 アスティが『泉の女』と呼ばれる由来の一つは、その汲んでも尽きせぬ泉のような知識と、泉のような瑞々しさをもつという所から来ているのだが、最近この『預言の二人』にはまた、新たなる敬称が与えられている。

 流浪王にして封印王セスラスには世の剣士すべての畏敬をこめて『剣聖』と、『泉の女』アスティには女性剣士に対する最高の敬称の一つ、『魁』をとって『剣魁』と、それぞれ

これは、封印王だとか『泉の女』だとかの通り名ではなく、正式名称に近い。「魁」とは、優れているという意味の他に、空に輝く七つの星の第一を数えるものの呼称で、七つのなかで一番輝きが強い。その意味も含めてだろう。

(封印王……)

 しかしアスティは、セスラスがこの名で呼ばれるということを実は、あまり好いていないということを知っていた。そして多分、それはアスティだけが気付いたことだろう。

 昔は---------彼がまだ独身だった頃には、そうしょっちゅうにではないが、口癖の

ように言っていた、国が安定したらディレムに王位を譲り、またきままな放浪の旅を続けたいと言っていたその言葉を、妃を迎え、国にも世界にもなくてはならない「英雄」となってしまってからむこう、彼の口から一度もそれを耳にしていないことを、アスティは気付いていた。そして口にはしなくても、心のどこかでそれを強く想っているという事も。

「---------どれくらいかかる?」

「……急いで五日……---------いえ、三日でやります」

「三日か」

 セスラスは呟いた。その三日の空白でさえ、ふつうの時期ならいざ知らず、多忙期には重要な問題だ。しかしだからといって、五日かかるところを三日でつきとめると言い切ったアスティの王妃に対する思いもふみにじれない。

「よし許す。お前が死ぬ気で三日、その間オレもディレムも死ぬ気になれば間に合うだろう」

「ありがとうございます」

 しかし突然三日も留守にはできない。今片付けなくてはならないものはそれを始末してからでなくてはならないのだ。そのためアスティが許された三日を呪いの波動をつきとめるのに没頭するには、まる二週間かかった。

 そんなある日のことだった。

 アスティは内心歯軋りをする思いで廊下を歩いていた。焦燥が全身を貫く。早く、早く呪いの根源をつきとめたいというのに、この仕事の進みののろさはどうだ。自分で腹が立ってくる。王妃は相変わらず意識不明だが単に苦しいだけで、命に関わる呪いではないらしい。しかしアスティにはそんなことは問題ではなかった。

 と……。

 何気なく通りかかった一室の中から、そのまま通りすぎるのは到底無理かと思われるような会話が、アスティの耳に飛び込んできた。

「……妃は…… ……のようですな……」

「左様……このままでは……お世継ぎ……も……」

「……ここはひとつ……で、身代わりを……」

「……では……のように、…………アスティ殿を……」

(! ---------)

 アスティは硬直した。

 何と……?

 しかし彼女の思考はそこで中断された。部屋から人が出てくるべく、立ち上がる気配がしたのだ。アスティは咄嗟に〈移動〉の呪文を唱えた。

「……」

 中庭に出て、アスティは今聞いた話を信じられないような思いで頭のなかで反芻していた。

(私を身代わり……?)

 何のだ。わかりきっている。

(---------馬鹿馬鹿しい!)

 まるで借り腹ではないか。このまま王妃の容体が思わしくなければ、自分をその代わりにたてるというのだ。では、そうなってから王妃が回復したら? そして自分の立場や王妃の気持ちやセスラスの意志はどうなるのだ?

 無礼な!

(私に対しても王妃さまに対してもだわ)

 そう思うと逃げるようにして中庭に来たのが悔やまれる。誰があんなことを話し合っていたのかつきとめるべきだった。

(……)

 とにかく、と思った。

(とにかく、あまり長く王宮にいては危険だわ)

 自分の意志に関係なく、いつのまにか担ぎあげられる可能性は充分ある。その危機感はアスティの事務処理能力にさらに拍車をかけた。

 そもそも自分がこんな風に扱われるのは、あのことが原因しているのだ---------

 アスティはあの日のことを思い出していた。



 それは諸国復活援助の忙しさが頂点に達していたときの、葉緑の月のことであった。

「エクノバから……?」

 玉座の間でセスラスは少々訝しげに問い返した。謁見を申し込んできた者たちは一見してどこかの従者ふうで、三人連れ、いずれも男だった。多忙とはいえ申し込まれた謁見はしなくてはならないというのがリザレア王宮の姿勢だ。もっとも、このような忙しい時期だから、相手もよほどのことがなくては謁見を申し入れない。こちらの事情をわきまえているからだ。言い返せば、このような時に謁見を申し入れるというのは、よほどのことともいえる。

「真理王どのの国の者が何用かな」

 エクノバは真理王レオールの治める豊穣の王国だ。草原があたりに広がり、季節の実りは豊富で、リザレアのような砂漠とは正反対の土地だ。セスラスが真理王、と言ったとき、アスティはなにか、嫌な予感がした。

「は……。このようなお忙しい時にはばかられるような気も致しましたが、なにぶんこういう機会を失っては、またいつお目にかかれるかと……」

「ふむ」

「陛下。実は、我々はそこにおられる参謀殿に一目お会いしたく、こうして参上致しましたのです」

「参謀に……?」

 アスティはハッとした。今まで聞くふりをして考え事をしていた頭が、従者たちの話をとらえて一気に回転した。

 エクノバの使者。自分に会いたいという人たち。そしてこの年齢。

「我々は、その昔リンドクェスト家にお仕えしていた者です」

 やはり……!

 アスティは秘かに唇を噛んだ。

「なるほど……よく似ておられる……」

 従者たちはそんなことを言い合って互いに顔を見合っている。

 困惑しきってアスティは、そんな彼らから目を離せずにいた。

「アスティ殿、どういうことですかな」

「エクノバの方が貴殿を……?」

 長老たちが訝しげにアスティに問う。それはそうだろう。なぜこんな従者ふうの男たちが、わざわざアスティに会いに来るというのだ。

 従者たちはあえて何も言わずアスティを見ただけであった。そんな視線すら、アスティには辛い以外のなにものでもなかった。セスラスは、ただじっと展開を聞いているのみ。

「……私の父は、ヴェヴ王家分家の末子エーリック・ハーラル・ユーデルフェルト。  母は、……母は……下級貴族の末娘、……マリエ・イザベル・シグティエナ・リンドクェスト。---------……エクノバ王家の血をひく家の者です」

 おお……!

 途端にざわめきがあちらこちらから漏れた。予測はしていたがやはりそのざわめきに、アスティは苦痛を感じて瞳を閉じ眉を寄せた。

「なんとそれほどとは……」

「……それでは王妃さまとならぶではないか……」

「血筋としては……」

「……いやそれ以上……」

 多くの者はこれは使える、そう思ったことだろう。なにかあったとき、地位も能力も高いアスティを、その血筋の良さを引き合いにして担ぎだすこともできると。

 アスティはこれを恐れていたのだ。

 こんなことが知れたところで、なにが変わるというのだ。決していい方にではない。

 どころか、王妃が聞けば伝わりようによってはいい気持ちはしないだろうし、自分の政治的な立場もひどく曖昧なものになる。確かに二つの王家の血をひいてはいるが、たったひとりの末裔というわけではないのだ。

 アスティは、どちらかの国に戻れば、王女として優遇される血を持っている。

『我々は、ただイザベル様のお子という方を、一目この目に焼き付けておきたかったのです』

『あなたのお祖父さまは、ご両親に追っ手をかけたことを悔やんでおられました』

 アスティは庭の樹によりかかってあの日の従者たちの言葉を思い出していた。

 早く……早くここを離れないと。


 次の日、アスティは魔法院へ向かった。



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