21gの浮力

秋錆 融雪

Ophelia's Weight

 うめく肉塊。おそらく唇であろう部位から絶えず声にもならぬ息を漏らしている。糜爛びらんした皮膚から生えた手や足に似た無数の痕跡器官。それらが蠕動ぜんどうして地をいざり廻る様は、土中の安寧を笠に着てぶくぶくと肥え太った幼虫を思わせた。


「具合でも悪いの?」


 ただれ崩れた土気色のはだえを撫ぜ安んずる左手と、四囲を無遠慮に赤橙で染める地平線上の夕照を疎んじて日傘をかざす右手。白磁のように透き通った氷の肌の目もあや幼い彼女は甲斐甲斐しくを介抱する。手慣れた挙措きょそは付き合いの長さをもまた想起させた。


「そっか、もう声も出せないんだ……」


 言葉の掉尾ちょうびは山間に落ちる夕陽と共に夜闇へ融けて消えた。


「覚えてる?君がここで、私に言ったこと」


 湖水は波一つ立てず月を映す。

 ほんのささやかな回顧レトロスペクト


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「私と結婚したい……って?」

「ダメ……かい?」

「いや、ダメと言うか……そうだな〜。じゃあ、交換条件を一つ」

「何だい!?言ってご覧!!僕は君の為なら何でもするよ!全てをなげうったって構わない!」

「私に永遠の美しさを頂戴?もし叶えられたのなら、私は君を死ぬまで愛したげる。約束」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「まさか、本当に……永遠をくれるなんて」


 水面を覗く彼女の面映えは、最早この世の全てに飽き果てていた。破滅に陶酔し、転落する悪女のうれいと自嘲に満ちた笑まい。


「君のおかげで私はこんなにも美しい姿を手に入れた……ありがと、感謝してるよ。でもね」


 声は震え、掠れ、上擦っている。

 夜の水辺の冷気がそうさせるのではない。


「あなたが居ない永遠せかいなら、要らないや」


 審判を受け入れるように目を閉じる。傘の持ち手を捻って外し、親骨の中から取り出した小さな注射器を首筋に突き立てた。投げ捨てられる空のシリンジ。これが総花的結末ハッピーエンドでないことは彼女自身にも判っている。


「二人は迷い星、月まで昇って行こう」


 当座はそれきり静かな星月夜。時計は零時、黎明は未だ遥か先。

 彼女は何も言わずの手を握って一歩を踏み出した。


「あなたは私が待ち焦がれた全て、尊敬と愛情の全て」


 旧い歌の一節を口遊くちずさむ。

 波立つ水面の月が揺れる。

 足裏を突き刺す程冱えた夜の湖。

 脚から腰から胸から首へと水位が上がる。

 私は今この瞬間こそが、幸せ。

 

「最期まで、一緒に居るよ……」


 身体が重力から解放される刹那、彼の声が聴こえた気がした。

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21gの浮力 秋錆 融雪 @Qrulogy_who_ring

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