第1話 いねむり道中
どこからか、甘く高貴な香りが漂ってくる。
乗客の少ない昼下がりの列車の中で、
リズミカルに揺れる車両と暖かな日差しは申し分なく、こっくり、こくりと気持ちが良い。
リュックを膝に座っていると、どうやら睡魔の方が勝ってしまいそうだった。
瞼も降りては上がり、視界は途切れ気味だ。
そのさなか、とても良い香りがしたかと思うと、着物の裾と草履が目に入った。
上品に揃えられた脚から視線を上げれば、一人の若い女が立っている。
「……どの」
色深い紫色の着物を身にまとう女は、口元豊かに微笑み、志門を見下ろしていた。
どうやら自分を呼んでいるらしいと気付いた青年は再度耳を傾ける。
「
今度ははっきりと聞き取れた声だが、自分の名ではないようだった。
姿勢を改めると、志門は返答する。
「失礼ですが人違いですよ」
「うん……おかしいのう。そなたは青戸龍志殿であろう? 我のことを忘れたのか」
とっくに成人しているであろうその姿とは裏腹に、小首を傾げる様子は可愛らしい。
「いえ、青戸龍志は祖父です。自分は青戸志門といいます――」
「なんと、そうであったか!」
表情をぱぁっと明るくさせると、女は密着するように左隣に座り込んだ。
深い香りと共に、薄い花びらが舞ったように見える。
膝と身体を志門の方に向け、右手を膝に添えてきた。
面食らった志門は女の顔を見つめてしまう。
長く艶やかな髪は後ろへと簡素にまとめられており、動きに合わせて髪飾りが煌めく。
整った顔立ちに、碧眼の瞳からは強い意志が感じられた。
女は続ける。
「志門とやら、そなたは龍志殿にそっくりではないか。……じゃが、ちょっと華奢な気もするのう」
「はは、確かに祖父は骨太な感じですね。ええと、それであなたはどちら様ですか?」
女の手は志門の膝から腕へと、体格を確かめるようにぺたぺたと移動した。
自らの裾を持ちながら、艶めかしい手つきで、逃げようにも逃げられない。
「これは俗にいう、細マッチョというやつじゃな!?」
しばらくは全く話を聞く様子もなく、女は志門の身体を触り続けている。
膝から腕、肩に背中、ついには胸まで、真顔だが楽しそうな動きだった。
手の温もりが衣類越しに伝わってくる。
そろそろ恥ずかしくなってきた志門が堪らず遮った。
「――あの」
「おおっと、すまぬ。つい、な」
ゆっくりとその手を自身の元へとおさめ、女は我に戻った。
「我が名はカンザシヒメノミコト。龍志殿とは古い知り合いでな。どうもそなたのことを他人とは思えなんだ」
「カンザシヒメノミコトさん……ですか。なんというか、立派なお名前ですね」
「そうであろう。なんといっても神であるからな」
「ああ、確かに神様っぽい名前ですね」
「いや、れっきとした女神であるぞ」
「しかしあの祖父にこんな美人の知り合いがいたなんて、驚きです」
「これこれ、志門よ。ほんとうじゃ。美人は否定せぬが、我は神よ」
「それにしてもミコトさんは大変お若く見えますが、祖父とはどのような関係で……」
少々顔を曇らせ、自身とは対照的に微笑んでいる青年を見た。
「うぬぅ、シンプルに略してきたな。……まあよい。一応神じゃからな、歳はあって無いようなものだ。 ……こほん。龍志殿が若かりし頃に出会ってな、それからは時折過ごすようになった。しかし事情があり、奴が成人して以降は顔を見ることはなくなったのじゃ。息災であればよいと想いつつ、月日は流れながれてしもうた。我にとってはほんの一時ではあったが、……そうか、孫までできておったか」
志門は、自らを神と名乗る女など信用するわけではない。
ただ祖父との思い出を語るその横顔に混じる淋しさのようなものが見て取れると、この点は嘘ではなさそうであった。
「女性には全く抵抗が無い様子の祖父でしたが、ミコトさんは……その、もて遊ばれたりはしませんでしたか?」
「うむ、その点は問題ない。よこしまな心くらいは読める。なんじゃ、もっと深い仲を期待しておったか?」
いたずらな笑みで、横目に志門を見る顔はなんとも妖美だった。
列車内も外の風景も、いつの間にか虹色の貼り絵のように淡い光を帯びている。
乗客の姿もなく、明らかに現実とは違っていた。
自分は今どこにいるのか、目の前の女は何者なのか、今更になって微かな不安が募ってくる。
カンザシヒメノミコトはクスリと笑い、今度は志門の髪に手を伸ばすと、撫で始めた。
「奴の孫にしては、なかなか可愛らしい顔をしておるな。どうじゃ、今度はお主が我の相手をせぬか?」
「大変光栄ですが、ミコトさん。あなたを知るにはもっと時間が必要です」
「うむ、それもそうじゃ。なら今日はこれくらいにしておこうかの」
「……ふう」
女の手が離れると、威圧感から解放されたような気分だった。
そうしてすっと立ち上がり、志門へと向き直る。
「さて、そろそろお主の夢も解ける。またそのうち会おうぞ、志門」
「夢……ですか。分かりました、ではまたそのうちに」
眼を細め軽く頷くと、カンザシヒメノミコトは踵を返して隣車両の方へと歩んでいった。
扉が閉まり、姿が見えなくなった途端、香りまでもが遠のいた。
『次は神芝、神芝です。お出口は左側です』
車内アナウンスと共に現実に戻ったようで、車内を含めた風景までも元に戻っていた。
斜め向こうの親子連れも先ほどのままだ。
ただ穏やかな気候の中、背中には汗がびっしょりだった。
(やれやれ。妙にリアルな夢だったな)
志門はリュックを手に立ち上がると、神芝駅のホームへと降り立った。
◇
神芝駅。
この駅は日本西部の都市からはおよそ五十分、という非常に中途半端な位置に属する。
遠くもなく、近くもないがベッドタウンとしては人気らしく、利用客もそれなりだ。
ただ、列車は普通車両のみの停車なのがやや難点だろうか。
駅舎は線路をまたぐ形式の構造で、その改札を出ると、東西自由通路上には店舗もあり少し賑やかだった。
近くには学校や閑静な住宅街もある為、若い世代も行き来している。
(これからこの街に住むことになるんだな。なんか不思議な気分だ)
春休みという和やかな雰囲気の中、東口へと歩を進めて窓越しに駅前広場を見下ろす。
広場の向こうには店舗、商店街、マンションが程よい間隔で立ち並び、その間を幹線道路がまっすぐに伸びている。
父方の祖父母が健在であった頃は休みになる度に訪れたので、この街での思い出も多かった。
記憶のページをめくりつつ、振り返って反対出口の方へと向き直る。
すると、すぐ横の書店入り口で目一杯手を伸ばす少女がいた。
どうやら上の棚の書籍を取りたいが、わずかに背が足りないらしい。
強気な性格なのか、懸命に眉を寄せては片足で立つ様子は、大変声が掛けづらかった。
このような場合、志門は老若男女問わず手を差し伸べる性格だ。
貧乏くじを引くことも多少あるが、特に気にせず歩みを寄せる。
(ちょっとおっかない顔してるけど、女の子が手を伸ばす所はなんか可愛らしいな)
心の声が漏れたのか、視線に気づいた少女が志門の方へと振り向いた。
明らかに不快そうだ。
「ちょっとそこのあなた。なに変な顔してじっと見てんのよ」
両手を腰に、挑戦的な姿勢で少女は志門と対峙する。
その様はまるで、女武将のように勇ましかった。
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