88話  コウハイ君と、結婚式の話

夫婦になったとはいえ、特別に何かが変わったわけでもなかった。


ただ、隠さなきゃいけなかった好きを表現できるようになったのが、一番の変化だった。それ以外には、すべてが以前と同じだ。



「ほら、ドーナツ食べよう?」

「最近やたらドーナツにハマってますね、センパイ」

「だって美味しいし、コーヒーにもよく合うから」



私たちの日常には相変わらず色彩があって、コウハイ君と一緒に楽しむデザートタイムもいつものように、楽しいものだった。


こうなってみると、本当に自分は結婚をしたのかと思えるほど現実味がない。ただただ夢見心地で、宙に浮いているような感覚だった。


でも、薬指に嵌められた指輪が、私を現実に縫い留めてくれる。


このシンプルな指輪は、繋がりの証だった。



「そういえば」



コウハイ君はコールドブリューを一口飲んでから、言葉を紡ぐ。



「センパイの会社は大丈夫でしたか?突然、指輪を嵌めて行ったんですから」

「うん?ああ……ちょっとは騒ぎになったかもね」

「へぇ、ちょっとは」

「うんうん。同じ部署の人たちのおばさんたちからけっこう言われたの。式を挙げたのなら呼んでくれればよかったのに~とか、初々しいから羨ましいとか。まあ、式を挙げてないとは言ってないけどね」

「似たような感じですね」



コウハイ君はくすっと笑いながら、自分の薬指に嵌められている指輪を見下ろす。



「俺も、いつ結婚したのかってけっこうしつこく言われてましたから。同期からはなんで式に呼ばないんだよとしつこく言われてて……とにかく、疲れました」

「私より人間関係広いもんね、コウハイ君」

「センパイが狭すぎるだけなのでは?」

「……………」

「……分かりました。ごめんなさい。だから、足を下ろしてください」



ちょっとムッとなって、コウハイ君の太ももに足を乗せて見る。


コウハイ君は下ろしてと言いながらも、そこまで嫌がるそぶりは見せなかった。



「ところで、センパイ」

「うん?」

「式は挙げなくてもよかったんですか?」

「………」



その言葉に、私はしばらく沈黙を保つ。正直に言って、結婚式にはそこまで関心がなかった。


私には式に呼びたい友達もあまりいないし、喜んでくれるような親もいないから。


それに、プロポーズをすぐ承諾して結婚届を出すのがなんとなく当たり前に思えて来て、結婚のための準備とかも全くしていなかった。


こうしてみると、かなり衝動的に決めたなとまたもや思ってしまう。


恋人という階段を超えて、結婚のための準備過程も超えて、未来に対する不安やその他の考えも無視して、私はコウハイ君の妻になった。


でも、私に不満はなかった。



「うん、私はいいよ。コウハイ君が挙げたいというのなら、別にいいけど」

「……でも」

「私は、コウハイ君との日常を積み重ねるだけでいいの。式は社会的な儀式みたいなものでしょ?私は……あまりその儀式に拘りたくもないし、式を挙げたところで呼びたい人もいないから、いいよ」

「……分かりました。センパイがそう言うのなら」



コウハイ君は納得したように頷いて、小皿に乗せられたドーナツをフォークでつつく。


ふと気になって、私はコウハイ君に問いかけてみた。



「そういうコウハイ君は?式を挙げなくても本当に大丈夫?」

「俺ですか?まあ、挙げたい気持ちが全くないといえばウソになりますけど……」



そして、ドーナツに向けていた視線を私に戻して、コウハイ君は微笑む。



「好きな人に無理させてまでしたくはないですからね。そういったわがままを突き通したくもないですし、なにより……俺も、社交辞令よりセンパイの方が大事ですから」

「………私に配慮しすぎじゃない?コウハイ君」

「配慮しますよ、そりゃ。好きな人ですから」

「………」



私は、思い出す。あの田舎の海辺で、コウハイ君が私にかけてくれた言葉を。


自分の存在が私の悲しみに変質すれば、いつでもそばを離れると。


私の幸せが、自分にとって一番大事だと。


それは、呆れるくらいに献身的で重い宣言だった。一生という言葉を突きつけたかった私に、恥ずかしさを呼び起こすような文章だった。


コウハイ君はいつも私を思ってくれている。私を幸せにするために、コウハイ君は全力を出そうとしてくれている。


……だから、私もなにかを返さなきゃいけない。当たり前の話だ。


私は、この人の妻だから。



「後で」

「はい?」

「後で、挙げよう?歳を取った後でもいいし、近いうちにでも構わないから。私のウェディングドレス姿、見たいんじゃない?」

「……いや、でも」

「私だって、コウハイ君を我慢させたいわけじゃないから」



私はゆっくりと立ち上がって、コウハイ君に近づく。


コウハイ君は目を見開きながら、俺を見上げてくる。視線が混ざり合って、甘い空気が漂う。


私は、コウハイ君の頬に両手を当てた。



「好きな人に我慢を強いるつもりはないの、私だって」

「……セン、パイ」

「だから、いつかは挙げよう。必ず」



式を挙げるのが今年になるか、10年後になるか20年後になるかは分からないけど。


でも、なるべく長い時間が経ってから挙げたらいいなとは思う。


その時になっても、私の隣にはコウハイ君がいてくれるってことだから。



「ん……ちゅっ」

「…………」



好きな人にキスを送る。コウハイ君は、当たり前のように目をつぶってくれる。


この当たり前の中で、私は幸せを感じていた。

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