夫婦
87話 結婚指輪
GWが終わって一週間後、有休を合わせた俺たちは区役所を訪ねた。
手続きは簡単だった。必要な書類を揃えて区役所に行って、窓口を2回行き来して終わりだった。
たった15分で、俺たちは夫婦になったのだ。
俺のプロポーズほど味気ない時間だったと思う。こうして、俺とセンパイは夫婦と言う肩書を得た。
これでいいのか。いや、いいわけないだろうな。
そんなことを思いながら、俺は隣を歩いているセンパイを見つめる。
「……センパイ」
「うん?」
「よかったんですか、これで?」
「よかったよ、私は。私たちらしくて」
「いや……何から何までちょっと、あまりにも準備性がないというか。酷く言えば雑と言うか」
「それは、いきなりプロポーズをしてくれたコウハイ君が悪いと思うな」
クスクスと笑いながら、センパイは街中に並んである看板を見ている。
やっぱり、これでいいわけがない。
俺はセンパイの手を強く握ってから、言いかけた。
「指輪でも買いに行きましょうか」
「それって、結婚指輪?」
「はい。本当になにもないじゃないですか。結婚式も挙げなかったですし、指輪の交換やご挨拶とかも……いえ、俺たちですから、家族へのご挨拶は必要なかったかもしれませんが」
「その通り。私もご挨拶は要らないと思うな……でも、そうだね」
センパイは突然足を止めてから、俺をジッと見上げてくる。
「指輪くらいはいいかもしれないね。社会のルールみたいなものだし」
「……センパイって、ルールを気にする人でしたっけ」
「ううん?ただ、私がコウハイ君と同じ指輪をしたいだけだよ」
ぐっとつき込まれた言葉に、心臓が激しく鳴る。
目を細めていると、センパイはまた愉快そうにくすくすと笑い出した。
「行こうか、コウハイ君」
「…………」
特別感など欠片もない雰囲気のまま、俺たちはジュエリーショップを検索して、店を訪ねた。
入ってすぐ、店員さんが笑顔のまま案内をしてくる。オーダーメイドになさいますかという質問に、センパイは首を振った。
「ほら、これとかどう?デザインもシンプルだし、コウハイ君にも似合いそうだけど」
センパイが指さしたのは、なんの変哲もチャームポイントない、質素なプラチナのリングだった。
俺はその品物をしばらく見つめてから、センパイに言う。
「センパイ、もっと高めのヤツにしてもいいんですよ?」
「………」
「大事な指輪じゃないですか。もっと遠慮なく選んでください」
もちろん、俺はお金持ちじゃない。普段お金をあんまり使わないから貯蓄こそあるけど、高いジュエリーを値札も見ずに買えるほどのお金はなかった。
でも、センパイは特別で、センパイとの関係を象徴する指輪も、同じくらい特別だから。
本音を込めて言うと、センパイは俺を一度見上げた後に、幸せそうに微笑む。
「コウハイ君」
「はい」
「私に必要なのは宝石じゃないの。私は、コウハイ君と繋がっているという証が欲しいだけ。その証が宝石である必要はない」
「いや、でも」
「私ね、車も買いたいんだ」
センパイは俺の言葉を遮って、陳列棚を見下ろしながら言葉を紡ぐ。
「君と色んな所に旅行も行きたいし、面白い映画が出たら一緒にデートもしたいの。美味しいデザートとコーヒー豆を買って一緒の時間を飾りたいし、私の部屋にあるベッドももっと大きなものに変えたい」
「……………………………………」
「支出は、この先いくらでも増えるはずだから」
センパイは、さっきからずっと見ていたプラチナのリングを手に取ってから、俺の手に握らせてくる。
「私は、これで大丈夫だよ。大事なのはダイヤが刻まれた指輪じゃなく、コウハイ君なの」
「……………」
「もし、ダイヤの指輪をプレゼントできなくてくよくよしているなら、その分私の時間を輝かせて。私は、その方が嬉しいから」
……………ああ。
ああ、あ………あ、あ…………あ。
………ああ、くそぉ……。
「……ぷふっ」
「……なんですか」
「幸せすぎて死んじゃいそうな顔してる」
「……死にそうですよ、割とマジで」
「死なないで。私まで死にたくはないから」
「…………」
しれっと自分も死ぬと伝えてきたセンパイを相手に、俺はどんな言葉を紡げばいいか分からなくなる。
ただただ、目の前のこの人が愛おしすぎて。この瞬間があまりにも強烈で、精神が持って行かれそうで、理性を保つのだけでも精いっぱいになる。
こんな感情も初めてで、俺の時間はセンパイによってずっと彩られて行くんだろうと、そう感じることができて。
俺は、手に握られているシンプルなプラチナのリングを見下ろしてから、センパイの手を取る。
「センパイがよければ、それで」
「うん。お願いします」
宝石が埋め込まれなくても、実物のプラチナはそこそこ高かった。それに、その高さにあんまり似合わないほど、リングのデザインには面白味がなかった。
でも、センパイは薬指に嵌められているリングを、心底愛おしそうに見つめていて。
俺は、そんなセンパイがまた愛おしすぎて、どうにかなりそうだった。
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