57話  俺はセンパイだけが好きなんです

「違う女の匂いがするけど?」



俺はその言葉を聞いて、つい目を見開いてしまった。


センパイがあらゆる感覚に敏感なのは分かっていたけど、まさか気づくとは思わなかったから。



「……香水の匂い。コウハイ君の匂いじゃない」

「いや、センパイ」

「……誰?女の人なんでしょ?」

「ちょっ、違うんです、センパイ」



みるみるうちにセンパイの顔が曇って、信じられないくらいに冷たいものになって行く。


この瞬間、俺は始めてセンパイが本気で怒った顔を見ているのかもしれないと思った。



「……いや、当たり前だよね。あはっ」

「センパイ、ちょっと」

「ううん、コウハイ君こそなんでそんなに慌ててるの?」

「……………え?」

「私たち、セフレなんでしょ?それに、コウハイ君は前に私に告白したのだから道徳的には間違っているけど、心情的には理解できるよ?告白の答えをずっと保留されて、ストレスも溜まっているはずだから」

「待ってください、センパイ」

「謝ろうとしないで。どうせこんなもんだから」

「………っ!」



壊れている、としか思えなかった。


こんな反応は歪すぎる。センパイは言葉では理解していると言いつつ、表情は文字通り凍り付いていた。


一枚省けたら、すぐにでも泣き出しそうな顔をしている。なのに外面だけ冷酷さに装って、自分自身を騙そうとしている。


このままじゃいけない。いや、その前に。


俺が先ず、こんなセンパイを見たくなかった。


だから、私はセンパイの肩を強く掴んで、今まで出したことのない大きな声で叫んだ。



「俺はセンパイが好きなんですよ!!!」

「……………………………え、え?」



勢い任せの行動に驚いたのか、センパイは一瞬目を見開く。



「センパイ以外の女の人には全く興味ないですから!俺はセンパイだけ……っ、センパイだけが好きなんですよ!!」

「…………………」

「たぶん、これからもずっと、センパイのことだけ好きになれると思いますから……!そんな俺が、センパイ以外の女に見向きするはずないじゃないですか!!!」



その言葉をかけられたセンパイは、まるで頭を殴られたかのように呆然と私を見上げてくる。


少しだけの沈黙が流れて、俺はようやくさっきの言葉の意味を知る。自分が何を言ったのかを、噛みしめる。


………………………………ぶっちゃけに言うと、死にたくなってきた。



「あ、え、えっと……………」

「…………………」

「さ、さっきのはその……あ、いや。その、ウソじゃないんですけど、でも……えっと」

「……………………………………………」



顔に熱が上がってきて、何を言えばいいか分からなくなる。こんなにも頭が真っ白になったのは初めてだった。


告白の時でさえ、こんなに戸惑うことはなかったのに。でも、なんで?なんで今になってこんなに恥ずかしくなるんだろう。


ああ、くそ……ああ、くそ。


死にたい……死にたい。穴があったら潜りたい……。



「……………ぷふっ」

「……え?」

「ぷふっ、あはっ、あははっ……!あははっ、あははははっ!!」

「………っ、笑わないでください」

「あははははっ!!あああ……無理。笑わないなんて、無理……」



片手で頭を抱えたままちょっとだけ顔を上げると、センパイの真っ赤になった顔と、今まで見たことのない豪快な表情が見えてくる。


……ああ、くそ。死にたい。あああ………。



「あはっ、あはははっ……そっか。コウハイ君は私のことが好きなんだ」

「…………………………………………………………っ」

「……ああ、なんかバカらしくなってきた。何やってんだか」



嘆息するように言って、センパイは相変わらずの笑顔のまま俺の胸板をトントンと叩いてきた。



「肉じゃが」

「はい?」

「肉じゃが作っておいたから、一緒に食べよう」

「………ちょっと外で涼んできてもいいですか」

「ダメに決まってるじゃん」



センパイは俺の手首を掴んで、徐々に俺を引っ張る。


センパイの視線にはちゃんと、愛おしさというものが込められているように感じられた。



「説明は、その後でちゃんとしてもらおうかな」






「ふうん。エレベーターが混雑してつい密着する状況になってしまった、と……その相手は、前にコウハイ君に告白したことのある同期ちゃんで」

「……………」

「事件の説明はこれで終わりですか?被告人」

「……………はい」



一緒に夕飯を食べた後、俺は俯きながらセンパイにことの事情を全部説明するハメになった。


といっても、別に大したことじゃない。加藤にホワイトデーのお返しについて相談をして、1時間くらい商業施設を歩き回っていただけだ。


もちろん、ホワイトデーのお返しは秘密だからなにをしたのかは最後まで黙っていたけど、センパイはもう感づいたらしく。



「ふうん、そっかそっか」



非常に面白がる面持ちで、両手で頬杖をついて俺を見ているだけだった。


こうしていると、さっき冷え切っていたセンパイと本当に同一人物なのかが疑わしくなる。



「ふふっ」

「……笑わないでください」

「コウハイ君ってさ、意外と可愛いところがあるよね」

「だから、笑わないでくださいってば。あと、からかうのも禁止です」

「はいはい、尋問はこれくらいにしとくよ」



それからセンパイは深呼吸をして、俺をジッと見据えて来た。



「ごめんね、コウハイ君」

「はい?」

「ヒステリックになってて、ごめん」



………確かに、さっきのセンパイはかなりヤバかった気がする。


あんなセンパイを見るのは初めてだった。あんなにも冷たくて、軽蔑して、無理やり強がろうとするセンパイなんて、見たことがなかった。


願わくば、これからもずっと見たくないと思う。



「……俺の方こそ、ごめんなさい」

「うん?なんで?」

「いや、その……なんとなく」

「…………なんとなく、か」



俺はセンパイに告白をしたけど、恋人ではない。


だから、加藤に会っていることを報告する義務はないのかもしれない。


それでも、俺の心にはちゃんとした後ろめたさがあった。センパイの言う通り、加藤は他の女、だから。


それに、さっきのセンパイの顔を思い返すと……。



「…………………」



すぐにでも胸が痛んできて、罪悪感が湧き上がってくる。


アレは、すぐにでも崩れそうな表情だった。明らかに歪んでいる人の顔だった。


好きな人があんな顔をするのを、俺はもう二度と目にしたくない。


センパイは俺を宥めるように、落ち着いた口調で言った。



「コウハイ君が謝罪する必要はないよ」

「でも……」

「ううん、本当にいいの。これ、私の問題だもん」

「…………センパイ」

「あはっ」



それから、まるで自嘲するようにセンパイが言った。



「私、こんなに弱い人間だったんだね」



俺はその言葉に対して、まともな答えを言い返せなかった。

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