56話 私のコウハイ君と潔く別れることなんてできない
『帰るのがちょっと遅くなるかもしれません』
『残業なの?』
『……ノーコメントで』
「……ふふっ、嘘が下手くそなんだから」
ソファーにもたれかかったまま、私は文字を打っていく。
『分かった。それじゃ夕飯はどうするの?』
『少し待ってもらってもいいですか?たぶん1時間くらいしかかからないと思うので』
『分かった、じゃ待ってるね』
『はい』
コウハイ君からいきなりメッセージが届いたと思ったら、内容がこれだった。
今日はいつもより帰るのが遅くなるかもしれない、という内容。
こういう内容を律儀に報告する辺り、地味に優しいんだなと思う。
私に告白したから報告すべきだと思ったのか。もしくは、一緒に住んでいるから報告すべきだと思ったのか。
どちらかは分からないけど、どうでもいい。
コウハイ君が私を気にかけてくれていることが、純粋に嬉しいから。
「ううん……」
今日の夕飯は私が作ろうかな。
そんなことを思っている最中にも、私はだらしなくソファーで横になって天井を仰ぎ見ていた。
コウハイ君のいない家は寂しくて、不気味なくらい静かで、気に入らない。
私が求めるのはこの家じゃなくてコウハイ君だなと、改めて気づくことができた。
「……作らなきゃ」
このまま目をつぶりたいのを我慢して、私は立ち上がる。
いつもコウハイ君が着ているエプロンを着て、私は冷蔵庫から食材を取り出していく。
コウハイ君に食べさせるほどの自信のある料理は、肉じゃがくらいしかない。
いつもご馳走を作ってくれるコウハイ君に申し訳ないなと思いつつ、私は味噌と豆腐や油揚げみたいな具を取り出した。
それから、茶色のエプロンを見下ろした後に布を摘まんで、私は匂いを嗅いでみる。
「………コウハイ君だ」
このエプロンには、ちゃんとコウハイ君の匂いが染みついている。
ヤバいな、と思った。
コウハイ君が料理を作る頻度が多いから、コウハイ君の匂いが染みついて当然だと思う。でも、このエプロンは私も使ってるのに。
なのに、コウハイ君の匂いしか感じられないのが歪すぎる。
こんな変態的な真似をして勝手に胸を弾ませる私も、歪すぎる。
匂いフェチの自覚はあるけど、これはちょっと酷いんじゃないかな。
「ふぅ……何やってんだか」
私は苦笑を零しつつ、料理に取り掛かった。
いつもコウハイ君にはお世話になっているんだし、今日は皿洗いまで全部やるか。
機械的に手を動かしつつ、私は孤独を味わう。
コウハイ君は滅多に家を空けない。たまに部署の飲み会とか友達と飲みに行ったりはしてるけど、それほど頻度が高いわけでもなかった。
私だってあまり飲み会に行かないから、必然的に私たちは一緒に時間が多かった。
その時間が、孤独に慣れていた私を殺していた。
今頭をもたげている孤独な私も、頭の隅では分かっている。
もうすぐコウハイ君が帰ってきて、私はまたコウハイ君の熱に濡れられると。
「……………………………」
間もなくして、肉じゃがの香ばしい匂いがキッチンを包み込む。味噌汁のためのお湯も、鍋の中で湧いている。
私はコウハイ君のために料理を作っている。
それになんの違和感も抱かないほど、私はコウハイ君色になっている。
もはや、
私も最後は他の人たちのように、別れたくないと心の中で無様に追い縋りながら、泣きわめくだろう。
コウハイ君と別れるという選択肢はもう、私の中で消えてしまったのだ。
「………そろそろ出来上がりか」
いつ帰ってくるのかな。
味噌汁まで完成させた。コウハイ君が来るまでは後30分しか残ってないけど、私はその30分を埋められない。
一人では絶対に埋められない。コウハイ君と一緒にいなきゃ、私の時間は埋まらない。
動画も、映画も、本も、コウハイ君よりは刺激的じゃない。
こんなになるくらいなら、知らない方がよかったなと自分を
テーブルの椅子にもたれかかって、ぼんやりと壁掛け時計だけを眺めていた、その時。
家に鍵が差される音が聞こえて、私は即座に立ち上がる。
「あ、ただいま……って、えっ?料理してたんですか?」
「………………」
「………………どうしました?」
「……………ううん、おかえり」
……ああ、もう。
なんでこんなに遅く帰ってくるのかな。そう思いつつ、私は首を傾げる。
コウハイ君は愛おしそうな目つきのまま、ゆっくりと頷いた。
「ただいまです、センパイ」
「うん」
よかった。このまま、また同じ日常が繰り返される。
私が作った料理を一緒に食べて、コーヒーを飲んで映画を見て、たまに膝枕をして、ノリでエッチないたずらもして……そんな日常がまた、始まる。
コウハイ君が家に上がって、私に近づいてきたその瞬間。
「…………ん?」
「うん?どうしました?」
「……コウハイ君」
私は、ある違和感に気付いてしまって。
考えるよりも先に、私は口を動かしていた。
「違う女の匂いがするけど?」
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