50話  私のコウハイ君は穴が埋まると言う

絶対にわざとだ。


一人で使うと言っておいて、私に選択肢を与えて混乱させようとしている。本当に悪質。



「あ、コスタリカってけっこう酸味が強いですね」

「……………」



そして、選択肢を与えられた私は、机に置かれている赤いマグカップを見てため息をつきそうになっていた。


白をベースに赤が絵の具のように滲んだデザインのマグカップ。私が数時間前に、店でずっと見ていたマグカップ。


デザインはそこそこ気に入ったけど、肝心なのはそこじゃない。


私は明らかに、隣にこれとペアの……空色のマグカップがあったから、このカップをずっと眺めていた。


コウハイ君がこのコップを使う姿を、思い浮かべながら。



「ドーナツ食べないんですか?センパイ」

「……さっきイチゴのヤツ食べたから、コウハイ君が好きなの選んで」

「じゃ、もらいます」



チョコリングを手に取ったコウハイ君は、そのままドーナツを一口かじる。


しばらく咀嚼した後に、その空色のマグカップでコーヒーを飲んで。


私は不意に、負けたくないという衝動に駆られて、コウハイ君に言う。



「カップルじゃない」

「はい?」

「そんなんじゃないから」

「……………………」



唐突に言われた言葉に目を丸くしつつも、コウハイ君は頷いた。



「ですね、俺たちは別にそんな関係じゃないですから」

「……だから、これを買う必要もなかったの」



こんな場面でこんなことを言う自分は、つくづく面倒な女で、救いようがないと思う。


それでも、コウハイ君は淡く微笑みながら頷いた。



「ですね、買う必要はなかったかもしれません」

「なら、なんで――――」

「必要に駆られなくてもいいじゃないですか」



私の言葉を遮るように、コウハイ君は言う。



「たまには、必要だから買うんじゃなくて、買いたいから買ってもいいんですから」

「……コウハイ君は、これが買いたかったの?」

「………………」



コウハイ君は食べかけのチョコリングを見下ろした後、すぐに私に視線を戻した。



「はい、俺はこれを買いたかったです」

「……………………」



本当に、コウハイ君は悪質だ。


意地悪で、悪質で、大事な言葉をよく口にして、私を惑わして、平静を保とうとする私の心を勝手にかき混ぜる。


コウハイ君のこのような言葉を浴びるたびに、こんな気持ちに触れるたびに、私はどうすればいいか分からなくなる。


人生の中で感じたことのない感情だったから。


私には無縁だと思った、そんな類の熱だから。セックスなどでは味わえない類の。



「ずるいよね、コウハイ君は」

「そうでしょうか」

「そうだよ。ずっとずるかった。コウハイ君はいつだって生意気で、意地悪だったの」

「俺からすりゃ、センパイの方こそ意地悪だと思いますけど」

「……」



否定はできない。実際、私はけっこうコウハイ君をいいように扱ってきたから。


今も、コウハイ君を一方的に支配したいという歪んだ執念に囚われているから。



「コウハイ君」

「はい」

「なんで、そんな私と2年以上も一緒に住む気になったの?」



言い放ったそれは、核に触れる質問だった。


コウハイ君は私を襲う前に、私を言いなりにできる権利を行使した。


それによって、私たちは元の契約期間であった2年が経っても、一緒に住むことに合意した。


あの瞬間には、それが自然だった。あの瞬間にはそれが当たり前だった。


でも、振り返ってみるとやっぱり理解ができない。


どうして、こんなに歪んでいる女とずっと住む気になるのか、私は理解できない。



「……センパイなら」

「…………」

「……センパイなら、賭けをしてみてもいいんじゃないかと、思いましたから」



賭け、という単語に私の目が見開かれる。


コウハイ君はもう一度コーヒーを口に含んでから、しぶしぶ言い始めた。



「誰かと一緒に住む気になったのは初めてで、どうやって行動すればいいか分からなくて」

「……」

「でも、センパイとは色々気が合いますから……なんとなく、本当になんとなく思ったんですよ。賭けをしてもいいんじゃないかって」

「……なんのための賭けなの?」

「ここの」



コウハイ君は自分の胸板をトントンと叩きながら言う。



「ここの穴が本当に埋められるかどうかを確かめるための、賭けです」

「……」

「俺は、ずっとこの穴が空いたまま生きていくのだろうと、思い込んでましたから」



願いの方向が違う。


手段が真逆だ。コウハイ君がそれを望むなら、私じゃなくて他の女に頼るべきだ。


なにもない私にそんなことを期待されても、私は答えられない。


私にはコウハイ君の穴が埋められない。そもそも、私はコウハイ君の穴を開けるために一緒に暮らしているのだ。


なのに、コウハイ君は真逆のことを言っている。



「私に、コウハイ君の穴は埋められないよ?」

「……いえ」



コウハイ君はしばらく間を開けてから、ゆっくりと首を振った。



「埋まってます」

「…………………は?」

「埋まってますよ?ちゃんと」



………その言葉を聞いて。


私は勢いよく立ち上がって、コウハイ君の前まで詰め寄った。


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