39話 おかえりなさい
「やぁ」
「…………………………」
「やぁ」
「…………………………」
「なにしてるのよ、本当に」
家のドアを何度閉じて開こうが、センパイはソファーに座っていた。
俺はその光景に驚愕するしかなくて、またもや家のドアを閉じて、また開く。
今度こそ怒ったのか、センパイは目を細めて俺をジッと睨んで来た。
「もう一度それしたら、出て行くから」
「……おかえりなさい」
「……うん、ただいま」
おかえりなさい、か。
慣れない言葉だなと思いつつ、俺は家に上がって立ったままセンパイを見つめる。
ワイン色のニットカーディガンに緩くて白いボトムズを合わせているセンパイは、俺が知っているセンパイだった。
「今日、何日でしたっけ」
「知らない」
「15日ですよね?今日」
「違うよ?19日なの」
「ちょっとスマホ見てもいいですか」
「意地悪なコウハイ君は嫌い」
ああ、やっぱりいつものセンパイだなと苦笑しつつ。
俺はジャケットのポケットに手を入れて、もう一度正式に言った。
「おかえりなさい、センパイ」
「…………」
センパイの赤い瞳はしばらく憂いを浴びて、ゆっくりと閉ざされる。
その状態のまま、センパイは言う。
「ただいま」
たった三日だった。
三日くらい会ってなかっただけなのに、センパイが目の前にいる光景が不思議で、新鮮で、たまらない。
この気持ちをどう表現したらいいか分からない。でも、確かなのは。
俺は、嬉しさを感じていた。
「着替えてきます」
「うん」
「夕飯、何か食べたいものありますか?」
「……コウハイ君が作りやすいものにして」
「嫌いなんじゃないんでしたっけ、俺の料理」
「私、ウソつきだから」
お互いウソつきだなと思いつつ、俺は部屋で着替えてからいつもより早いスピードでリビングに出た。
センパイはふかふかなクッションを抱えたまま、テレビをずっと見つめている。
「コウハイ君」
「はい」
「私がいない間、どうだった?」
「寂しかったです」
反射的に言って、次にその言葉を口にした自分自身に驚く。
内容が嘘だからじゃない。ただ、そんな答えが咄嗟に出てしまうほど寂しがっていたのに対して、驚いているのだ。
センパイは、俺をゆっくり見上げてくる。
「私も」
「はい?」
「たぶんだけど」
……………………………何が起こった?本当に。
何が起こったら人がこんなに変わるんだろう。呆然としている俺を見て、センパイはまたもや目を細める。
「たぶんって言ったじゃん」
「………センパイですよね?」
「やっぱりもう一度家出する」
「ああ、センパイですね」
「………」
「分かりました、分かりましたから!!」
急に自分の部屋に駆け込もうとするセンパイの腕を掴んで、引っ張る。
そうしたら、俺より小さな体がすんなりと引き寄せられて、びっくりしてしまう。
センパイも驚いたように、目を丸くしていた。
「…………………」
「…………………」
近い距離でお互いを見つめる。
何度も味わった距離だ。何度も交えた視線だ。何度も経験した沈黙だ。
でも、決定的に何かが違う。俺もセンパイも、違う何かが視線に混ざっている。
温泉旅行に行った夜、最後に交わしたキスと同じような気持ちが、頭をもたげる。
「…………おかえりなさい」
「…………さっき2回も言った」
「言うことがなかったので」
「じゃ、何も言わないで」
センパイの香りが漂って、心臓が勝手に早く鳴り出す。顔が少しずつ上気し始めて、自分が自分じゃなくなる。
ああ………これは。
「……分かりました」
ヤバいなと思った。
厄介だとも思った。センパイはこんな類の感情を欲しがらないはずだから。
視線を外すと、センパイは再びソファーに戻ってからクッションに顔を埋める。
なにをしているんだろうとぼんやり眺めながら、夕飯を作るためにキッチンに戻ろうとした。
でも、センパイのその仕草に目が離せなくなる。
「……コウハイ君」
「はい」
「ごめんね、勝手に家出して」
3分くらいして顔を上げたセンパイに、謝罪の言葉をもらって。
俺は苦笑を滲ませて、いやいやと首を振る。
「気にしないでください」
「……」
「なにも、気にしなくていいんですよ。なにも」
センパイは複雑な表情になる。
その表情の意味を探るも前に、俺は背を向けてキッチンに戻った。
テレビの音が段々と大きくなって、俺の気を紛らわせてくる。分かっているじゃないか、センパイと褒め称えたくなる。
センパイの家出は終わった。
そして、俺の気持ちの片付けも、ある程度は終わったと思う。離れていたからこそ、感じられたことだ。
俺は、たぶん。
少なくとも2年以上は、センパイと一緒にいたいと願っている。
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