35話  怖がりなセンパイ

全く予想していなかったと言えば、ウソになる。


それくらい、昨日のセンパイはおかしかった。


ずっと俺と目を合わせようとせず、固まったまま前だけを向いていた。手も繋ぐことなく、俺に近づくこともなかった。


家に帰って来てからも、センパイが俺の隣に座ることはなかった。


いつもの映画鑑賞は一人だけで行われて、俺はなんとなくこのままじゃマズいなと思っていた。


でも、こんなに早いうちに事件が起きるなんて。



「今、どこですか?」



センパイはいつも、俺より先に家に着く。通勤時間も短いし飲み会も行かない人だから、当たり前といえば当たり前だ。


なのに、今日の家はずっと暗かった。俺が電気をつける前まで、暗いままだった。


ドアが空いているセンパイの部屋の中には、服が散らかっていてキャリーバッグがなくなっていた。


だから、自然と家出という二文字が頭の中で浮かび上がった。だから、電話をした。



『コウハイ君のいない世界』



そして、センパイは俺から逃げている事実を全く否定もせずに、平然と言ってきた。



「……センパイ」

『私の世界に入って来ないで』

「……………」

『コウハイ君』



少しだけ間を置いて、センパイは次の言葉を紡ぐ。



『これから、エッチとキスは禁止だよ。何があっても、絶対にダメ』

「…………………」



……この人は、本当に。


気持ちを隠すのが下手くそな人だなと、そう感じてしまう。



「なら、俺たちはなんで一緒にいるんですか?」

『……なに言ってるの?一緒にいないじゃん』

「今は、一緒にいないですね。でも、いつかは帰ってくるんじゃないですか?」

『帰らない』

「……センパイ」

『帰らない。絶対に』



どうしてこんなに子供っぽくなってしまったんだろう。


現実的に考えれば、帰らないという選択肢が出てくるはずがない。センパイの家はここだ。


なのに、センパイは衝動に任せて外を出歩いている。



「……俺が悪かったです、センパイ」

『………………』

「分かりました。もうキスもエッチもしません。だから、帰って来た方が―――」

『なら、私たちはなんで一緒にいるの?』



聞き違いかな、と一瞬思った。センパイが投げた質問は、さっき俺が飛ばした質問だったから。


俺は大きく目を見開いてから、センパイのベッドに腰かけて俯く。



『……コウハイ君』

「はい」

『私たち、セフレだよね?』

「はい」

『なら、君の口から出るべき言葉は謝罪じゃなかったよ。今までありがとうございました、なの。私が君とセックスするのを拒んだから』

「………」

『なんで、そこで受け入れるの?』



センパイの声は、分かりやすく震えている。


そして、その震えを鎮めるための言葉は、もう俺の中にはいなかった。



『なんか言ってよ、コウハイ君』

「………」

『セフレじゃない私たちってなんなの?そもそも、なんでセックスしないって言うの?我慢させられるのは辛いじゃん。君は……私とセックス、したいじゃん』

「……………」

『なのに、君は―――』

「エッチの刺激よりは」



センパイが言おうとしている言葉を横取りして、俺は伝える。



「センパイの存在の方が、大事です」

『………………』

「だから、謝りました。すべてセンパイの思う通りです。何一つ間違っていないですよ、センパイ」



センパイはたぶん、もう知っている。


俺がセフレ以外の……いや、セフレ以上の何かをセンパイに求め始めていることに、きっと気付いている。


そして、センパイ自身もまた無意識に、俺にセフレ以上の何かを求めている。


じゃなきゃ、永遠という言葉が出てくるはずがない。


あの単語は、口が滑ったと言うにはあまりにも重々しくて、大切な言葉だ。



『……コウハイ君』

「はい」

『今までありがとうございました、と言って』

「………………」

『楽しかったです。残念でしたね。週末に不動産行きましょうと……言って』

「センパイが言ってください」



この返しは当たり前だと思う。


俺はセンパイにキスしたのを謝ってまで、センパイを取り戻そうとした。


なのに、センパイとの別れを象徴するようなくだりを俺が言えるわけがない。


だから、さっきの言葉を口にするのはセンパイでなければいけない。センパイが言うべき言葉で、センパイが伝えた方がいい言葉だ。



「知ってるじゃないですか、センパイ」

『………』

「別れの言葉はもう、俺の中にはいないんですよ」



センパイが家出をした理由は、俺から逃げるためだ。


センパイが逃げた理由は、俺との関係を長引かせるため。


だから、俺は知っている。センパイは言えない。


別れようって言葉は、俺たちには無理だ。



『………勝手に入って来ないでよ』

「……はい?」

『なんなの?なんで?なんで………?本当に、わけわかんない』

「……………」

『気休め程度の気持ちで、人を紛らわせないでよ。どうせ私の体が目的なんでしょ?』

「……………センパイ」

『あんたも、いつかはどうせ私を捨てる』

「落ち着いてください」

『だから、近づかないでよ。お願いだから』

「センパイ」



あえて声に力を入れることで、俺はセンパイの理性を取り戻せようとする。


俺が送れる言葉は、これだけだった。



「気休め程度の気持ちだから、永遠に傍にいてあげるとか、絶対に捨てないとかのキザなセリフは言えません」

『……なら、とっとと私を捨てて―――』

「でも、俺の気持ちは二日前のあのキスに、ちゃんと込められていました」



言葉は虚しい。


今のセンパイにはどんな言葉を送っても追い返されるだけだ。


怖がっているセンパイは周りが見えなくなって、沼に自分から足を突っ込んで這いずり回ろうともしていない。


今のセンパイは、壊れている。


必要なのは言葉じゃなくて、もっと確かな熱だ。



「一緒にいたいです、センパイ」

『…………………………』

「だから、帰ってきてくれると嬉しいです」



センパイは、10秒くらい経って。


喉から無理やり引き出したかのような口調で、そう言った。



『……時間をちょうだい』

「……どれくらいですか?」

『一週間』

「長いですね」

『短いよ。私の本来の気持ちよりずっとずっと、短い』

「……食べたい料理とかありますか?」

『コウハイ君の料理なんて食べたくない』



一々棘があるなと苦笑しつつ、俺は顔を上げて部屋を見回す。


先ず、掃除からしなきゃいけないか。



「待ってます」

『…………………………コウハイ君』

「はい」

『本当に、私と一緒にいたい?』



怖気づいた子供なような質問に、俺は二つ返事で頷く。



「はい。一緒にいたいです」

『……………』

「待ってます、じゃぁ」

『…………ごめんね』



その言葉だけを残して、センパイは通話を切った。


最後のごめんねの意味は、未だに分からない。


ヒステリックになっていたことに対しての謝罪なのか、勝手に家出したことに対する謝罪なのか。


それとも、一緒にいたいという俺の願望に対する断りの謝罪なのか、分からない。


でも、あと1週間だ。


1週間だけ耐えれば、その意味を知ることができるだろう。クスリと笑って立ち上がって、センパイの服を取り上げた。


センパイがいない1週間の始まりは、センパイの部屋の掃除からだった。


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