家出

34話  私はコウハイ君から離れなきゃいけない

コウハイ君から離れなきゃいけない。


ここまで強く感じたのは、今回が初めてだった。私はコウハイ君から離れなきゃいけない。


そもそも、おかしすぎる。私たちはまだ2ヶ月も一緒に住んでいない。コウハイ君との関係が始まったのは半年ちょっと前のことだ。


なのに、私が20年以上も積み重ねて来たすべてが瓦解しようとしている。


私の培ってきた固いエゴと痛みの中で、コウハイ君という例外が生まれようとしている。


私は、それが好ましいとは思えない。



「まさか、この歳で家出するとは思わなかったな……」



だから、旅行から帰って来た次の日、私はさっそく半休を取ってキャリーバッグに服を詰めた。


なんの計画性もなく、なんの現実性もない衝動。不安に駆られて突っ走った失敗。


でも、私はこうしなきゃいけなかった。コウハイ君が隣にいると、いつの間にか調子が狂うようになった。


だから、これはコウハイ君のせいだ。コウハイ君が全部悪い。



「…………」



とりあえずビジネスホテルの部屋を取った私は、ベッドに横たわったままスマホの画面を見つめていた。


正確には、コウハイ君との会話履歴を見ていた。


なんの愛嬌もなく、躍動感もなく、ただただ静かに浮かぶだけの会話。


私は、このチャットルームに波紋を広げなければならない。


コウハイ君にちゃんと家出の事実を伝えて、警察沙汰になるのを防がなきゃいけない。


なのに、私の指はさっきからちっとも動こうとしない。私は、未だに逃げている。


コウハイ君があまりにもグイグイ来るから、怖気づいて逃げてしまっている。



「………バカ」



結局スマホを下ろして、私は目を閉じてふうとため息を零す。


あのキスは二日が経った今でも、鮮明に生きていた。


私は言った。永遠に傍にいてくれるわけじゃないなら、退けって。キスもエッチもなにもしないでって。


コウハイ君にはその意図がちゃんと伝わったはずだ。他の誰でもないコウハイ君なら、私の意図をちゃんと汲んだはずだ。


なのに、コウハイ君の答えはキスだった。


それも、貪るキスじゃなくて伝えるキスだった。背筋がゾッとするほどの優しいキスで、私を溶かすキスだった。


それにまんまと溶かされる私は最悪だと思う。自分自身のことが一段と嫌いになる。


でも、私はパブロフの犬みたいにあのキスを思い出し続けている。



「………嫌い」



リモコンで部屋の明かりを全部消した後、私は片腕で目元を覆い隠す。


暗闇に満ちた世界は、安らぎを与えてくれる。


この安らぎの中でずっと浸っていたい。光りなんか、必要ない。


これからコウハイ君にどう接したらいいのか。コウハイ君に今の状況と気持ちをどんな風に上手く丸め込めばいいのか。


そんな面倒なことは吹き飛ばして、安全なモラトリアムの中に閉じこもっていたい。


あの旅行先でのキスは、最悪だった。吐き気がするくらい甘かったから、最悪だ。


そして、私に最悪ばかりを与えるコウハイ君は。



「………………………………あぁ、もう」



私を、どうしても一人にはしてくれないらしい。


うるさく鳴り出すスマホを取り上げて確認すると、相手は予想通りコウハイ君だった。


私は赤いボタンをスライドして電話を切る。またもや電話がかかってくる。


切って、かかってきて、切って、かかってきて。


私は、4回目になってようやく負けを認める。



『今、どこですか?』



あんなに執着的に電話をした割には、落ち着いている口調だった。


私は、片腕で目を隠したまま口角を上げる。



「コウハイ君のいない世界」

『……………センパイ』

「だからね、私の世界に入って来ないで」

『……………』

「コウハイ君」



私は、笑顔のまま次の言葉を続ける。



「これから、エッチとキスは禁止だよ。何があっても、絶対にダメ」

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