32話  私のコウハイ君の卑怯な二者択一

コウハイ君を慰めるための旅行だったと思う。


深夜に、暗闇が滲んだまま見たコウハイ君の顔があまりにも死んでいたから、やつれていたから。


だから、コウハイ君の話を聞いてあげて、物の弾みで旅行に行こうと誘った。初めての旅行だった。


そして、コウハイ君のための時間だったはずのこの温泉旅行は。



「暖かいね」

「ですね」



時間が経つにつれて、少しずつ変質して。


今は、コウハイ君と私のための旅行になってしまっている。



「足湯なんて初めてだから、なんか新鮮」

「俺も初めてですから、新鮮ですね」

「ふふっ、浴衣着て来ればよかったのにね、コウハイ君」

「実を言うと、ちょっとだけ後悔してます」



コウハイ君の顔には、あの時のような憂いはなかった。


しみじみと広がるような幸せと、静かな平和だけが浮かんでいる。私はその顔が嫌いじゃないと思っている。


足湯は不思議だ。足を暖かくするだけなのに、心が満たされている感覚がする。


そして、その心が満たされる感覚は勘違いをしてしまいそうなほど、甘い。



「はいっ、チーズ」



隣で、カップルに見える男女が仲良くツーショットを決めていた。


私とコウハイ君はその姿を眺めてから、お互いの顔を見合わす。



「しないから」

「しませんから、俺も」



そのまま5秒くらいお互いを見つめた後、ほとんど同時にぷふっと噴き出してしまった。


愉快で、楽しい。初めての旅行は、暖色に彩られていた。


そのままくだらない話を何十分も重ねた後に、コウハイ君は先に言う。



「センパイ」

「うん?」

「写真撮ってもいいですか?」



その言葉に、私は思うよりも先に首を振った。



「ダメ」

「………へぇ」

「……そんな関係じゃないから」

「どんな関係なんでしょうか、俺たち」

「セフレじゃん」



公衆の面前で言うには恥ずかしい言葉を口にして、私は先に立ち上がる。



「コウハイ君」

「はい」

「私を好きにならないで」

「……はい」

「私も、コウハイ君のことを好きにならないよう、努力するから」



……やっぱり、今までが非日常すぎた。


酷い言葉を浴びせた後、私は足湯から出て貸しタオルで足を拭いた。


それからすぐに下駄を履いて、コウハイ君に顔を見せないように俯きながら歩き始める。


コウハイ君は、サラッと私の横に立って歩調を合わせる。でも、手を繋ぐことはなかった。



「………………………………ぁ」



そして、頭が少しずつ冷えてきたところで、私はようやくさっきの発言の危なさを知る。


コウハイ君のことを好きにならないよう、努力するから。


それは咄嗟に出た言葉だった。考えずに、心からこみ上がって来たそのままを発した気持ちだった。


だから、その言葉は穴だらけだ。好きにならないように努力するなんて。


それじゃまるで、自然体でいれば。



「……センパイ?」

「…………………」



私が、コウハイ君のことが好きになるということじゃないか。


危機感を感じて、私は立ち止まる。コウハイ君は目を丸くして私を見つめる。


周りには大勢の人たちが私たちをすり抜けて前を歩き、私たちだけが立ち止まっている。


コウハイ君は、やがて完全に私に向き直って、私をジッと見つめてくる。



「……コウハイ君」

「はい」

「今日のエッチは、なし」

「…………………」



これ以上、コウハイ君と一緒にいたら危ない。


これ以上、この非日常に浸っていたら、取り返しのつかないことになる。


私には時間が必要だ。いつもの自分に戻るための、心に仮面を被せるための時間が必要だ。


なのに、コウハイ君の熱が体に入ってきてしまったら、私はきっと壊れてしまう。


綱渡りに失敗して、感情だけが丸出しになってしまう。その時になったら、もう遅い。


お互いの理性ではコントロールできないほどに、私たちの関係が変わってしまう。


コウハイ君は、口角を上げてから囁くように言った。


不思議なことに、喧騒に包まれている中でもコウハイ君の声だけははっきり聞こえた。



「なら、条件があります」

「……なに?」

「センパイの写真を撮らせてください」

「…………………………………」

「それが嫌だったら、今夜襲います」



ムッと怒りが湧き上がって、私はコウハイ君にすり寄る。



「私がいやだって言ったら?」

「センパイは、嫌がるはずがありません」

「え?」

「センパイが言ったんじゃないですか。人間として見ないでって」



私は言葉に詰まって、何も言えなくなる。


そう、さっきも言った通りだ。私たちの関係はセフレ。


セックスの快楽と刺激だけで繋がっている、仮初の関係。


セックスを拒んでもいいけど、それを拒んだら私たちの関係の意義がなくなる。



「………なんで?」

「はい?」



だから、私は恨みの言葉しか投げられない。



「なんで、すべてを崩そうとするの?」

「………」

「コウハイ君、君がやっている行為がどんな意味なのか、ちゃんと分かっている?」

「センパイと一緒に暮らす時間を減らす行為ですね」

「……なのに、止まらないんだ?」

「今の幸せを噛みしめると、前に言ってたので」



コウハイ君は深呼吸をしてから、再び私を見下ろす。



「それで、どっちですか?写真とエッチ」

「…………………」

「……どっちも嫌いという返事は、なしにしてもらえると嬉しいですが」

「……………」



どっちも嫌いじゃない。


嫌いじゃないけど、私は言うしかなかった。



「どっちも嫌い」

「……………」

「コウハイ君なんて、大嫌い」



周りの人たちが、怪訝そうな顔で私たちを見つめている。


それに関わらず、私たちはお互いのことだけを見つめている。群衆の中の孤独だ。


それがきっと、私たちだ。



「俺は、センパイのこと」



そして、コウハイ君はまた生意気なことを言う。



「そこまで、嫌いじゃありません」

「……………………」



その言葉を聞いて、私は。


やっぱり今夜襲われるなと、感じるしかなかった。

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