31話 センパイの手
旅館に入ってチェックインをしてから、俺たちはとりあえず街の風景を眺めながらゆっくりと散歩をすることにした。
一回目の温泉に入ってから、部屋でいつも通りの服に着替えていたその時。
「じゃじゃ~ん」
「………」
なんと、浴衣姿のセンパイが目の前に表れて、俺は口をあんぐりと開けてしまう。
「それ着るんですか?」
「うん、そうだよ?」
「外に出るのに?」
「他の人たちもみんな着てたじゃん。何か問題でも?」
「いや、問題はないんですけど……」
センパイが浴衣を着るとは思わなかったから、つい言葉が濁ってしまう。
本当に、想像もしていなかった。普段の素っ気ないセンパイなら間違いなく、旅行に来てもいつも通り行動すると思ってたから。
でも、浴衣はいい兆しだった。
センパイがこの旅行を楽しんでいるという、もっともの証拠だから。
「行きましょうか」
「うん」
センパイはそう答えたにも関わらず、俺の服装をジッと眺めながら言う。
「コウハイ君も浴衣着たらどう?」
「それじゃ、まるでカップルじゃないですか」
軽はずみで言った言葉に、センパイはクスリと笑いながら頷く。
「だね、行こっか」
「はい」
温泉街だからか、周りには確かに洋服より浴衣を着ている人たちが多かった。
逆に俺が目立つ感じになってしまい、浴衣を着るべきだったかと少しだけ後悔する。
センパイは、俺と触れるか触れないかの距離を保ったまま周りの風景に目を向けていた。
「いい雰囲気だね、本当」
「……センパイが楽しそうでよかったです」
「あはっ、確かに。ちょっと舞い上がっているかもしれないね……私」
「別にいいじゃないですか、旅行ですから」
下駄を履いているセンパイの歩調に合わせようと注意しながら、俺は木製の建物が並んだ風景に目を奪われる。
「日常じゃないから?」
「ですね、非日常ですから」
「……そっか。非日常か」
その言葉を咀嚼するように呟くセンパイを見てから、俺は目を逸らす。
やはりと言うべきか、センパイは綺麗だった。
たぶん、俺が見て来たセンパイの中で、今日のセンパイが一番きれいな気もする。
ハーフアップにした黒い髪と、鮮烈な赤い瞳。シミ一つない肌と、淡く微笑んでいる余裕たっぷりな表情。
浴衣を着ているにも関わらず、ちゃんと存在を主張しているその胸まで。
理想的な大人の女性という感じがして、素敵だと思う。その証拠に、今も行き交う男たちがセンパイに視線を投げていた。
全く知らない人たちに、センパイが注目されている。
俺はたぶん、それが気に入らない。
「……コウハイ君?」
だから、手を繋いでみた。
さっきから手の甲同士がけっこうぶつかっていたから、繋いでも別に平気だと思う。
ここで断られたら、この関係の終わりをもう一度思い出せるからよし。
ここでセンパイが受け入れてくれたら、センパイがいやらしい視線に晒される頻度が減るはずだから、なおよし。
そんな投げやり感覚で繋いだ手を、センパイはじっと見下ろした。
「はい?」
「……これ」
「…………」
「……ふふっ」
「……なんで笑うんですか」
「コウハイ君にも、ちゃんと独占欲という概念があるんだね」
「……そんなんじゃないですよ、別に」
込み上がってくるくすぐったい感覚を押し殺しながら、俺は言う。
「非日常ですから」
「……」
「だから、こうしているだけです」
変な話だ。
セックスするよりも、キスするよりも手を繋ぐのに緊張を感じるなんて。
順番が真逆になっているなと感じつつ、それが俺たちだと思うと妙に納得できる気がする。
センパイは、俺の手を振りほどいたりしなかった。
「お土産買って行かなきゃ」
「誰のためのお土産ですか?」
「会社の人たちね。クッキーとかけっこうご馳走になったから」
「……センパイがそういうことを気にするとは思いませんでした」
「また私をいじめる」
センパイは一度立ち止まって、ジッと目を細めて俺を見上げてくる。
でも、その次の瞬間にはぷふっと噴き出して、繋いでいる手に力を入れた。
「行こう、コウハイ君」
「…………はい」
本当に、最近のセンパイはおかしい。
頭と感覚が狂いそうなほど、優しすぎる。
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