29話 センパイの言葉にはいつも裏がある
「暇だね」
「ですね」
結局、今日は有休を取ってしまった。
幸い、有休はまだけっこう残っていたのであまり困る場面もなかった。
体調不良で休みますと言ったら、課長はすぐにお大事にと言いながら色々心配の言葉をかけてくれた。
そうやって、じりじりと良心が痛むのをこらえながら迎えた、気怠い平日の午前。
「旅行に行こうよ」
突然、隣に座っているセンパイからの提案を聞いて、俺は目を丸くしてしまった。
「はい?旅行?」
「うん、旅行」
「急にどうしたんですか?旅行なんて」
「うん……行きたくなったから?」
首を傾げているセンパイの意図を、俺は読めない。
何を考えているのか、何を企んでいるのか探ろうとしても無駄だ。
だから、俺は軽い口調で言ってみる。
「センパイ、インドア派じゃないんでしたっけ」
「うん、コウハイ君と同じインドア派だね」
「なのに、マジでどうして旅行に?」
「今週の週末がいいよね?一泊二日で温泉でも行こうか」
「……俺の声、聞こえてますか?」
「場所は私が探しておく。あ、経費は割り勘ね」
「聞こえてないか」
センパイは何がそんなに楽しいのか、クスクス笑うだけだった。赤い瞳にはいたずらっ子のような感情が滲んでいる。
でも、温泉か。悪くはないなと思いつつ、俺は目の前に流れている映画のワンシーンを目で追いつく。
手に持っていたハイボール缶をもう一度呷ったところで、再びセンパイの声が鳴った。
「旅行、あまり行ったことないよね?コウハイ君」
「……………………」
他の人に聞かれたら、たぶん当たり障りのない話題だと考えたんだろうけど。
センパイからその質問が飛んできた瞬間、それはとてつもない鮮明な色を持って俺に届く。
この質問はたぶん、核に触れている質問だと思った。
「ないですね。家族旅行とかも行ったことないですし、大学のサークルでも1回か2回くらいしか行ってないので」
「社会人になってからは?」
「……センパイ」
雲行きが怪しい。センパイがこういう質問をしてくる人だとは思わなかった。
今日の夜だってそうだ。
センパイは俺の家庭事情を聞いて、俺を慰めるような長いキスを送って、同じベッドで寝てくれた。
固まった心を包むように、俺を抱きしめてくれた。
だから、親から長文のメッセージが届いたにも関わらず、熟睡することができたのだ。
それについては感謝している。でも、今日のセンパイは俺が今まで知っているセンパイとはちょっと違う気がした。
俺のことをもっと知りたいと思うセンパイがいるなんて、違和感しか抱けない。
いや、これは俺がただセンシティブになっているだけかもしれないが……。
「うん?」
「どうしたんですか?」
「なにが?」
「今日のセンパイ、やけに俺に優しいですから」
「急に童貞みたいな反応しないでよ。自然な流れでしょ?自然な流れ」
「…………」
「……もう」
センパイはリモコンを取って、一時停止ボタンを押す。
それからぐっと俺に近づいてきて、俺が持っていた缶を奪ってサイドテーブルに置いた。
「そんなに不気味なの?今日の私って」
「………俺はセンパイを分かりませんから」
「私って、けっこう見た目通りの人間なんだよ?すべての行動に裏があるわけじゃないし」
「旅行に行こうって言葉も、ありのまま解釈してもいいんですか?」
「……ううん、その言葉にはちゃんと裏があるかな」
やっぱり裏があるじゃんか、と言い出そうとしたところで。
センパイは、片手で俺の頬を撫でてくる。
「君を痛めつけるためだよ、コウハイ君」
「………」
「君の初めてを奪った相手も私で、社会人になってから初めての旅行を一緒に行った相手も私。愉快なことじゃない?」
「……なにが愉快なんですか?」
「君の人生にどんどん私を刻んでいけるからさ。いいことじゃない」
久しぶりに、センパイはもう片方の手で俺の胸板をコンコンとノックしてくる。
「この穴が、大きくなるってことだから」
「………それだけですか?」
「それ以外になんか必要あるの?」
「センパイって」
言っていい言葉かどうか迷ったけれど、俺は素直に言うことにした。
「酷いですよね、けっこう」
「……………そう、私は酷い人間だよ」
そのまま、センパイは俺の首元に優しく両腕を巻いて、キスをしてきた。
深夜にもされた、触れ合って熱を通わすだけのキス。
暖かくて、鮮烈ではないけど、記憶にはちゃんと残るような感覚。そんなキス。
……やっぱり、このキスにも裏があるとしか思えない。さっきの言葉はウソだ。
センパイは、酷い人間なんかじゃない。キスに浸っていると、そう確信することができた。
「…………」
「…………」
「……なんで、何も言わないの?コウハイ君」
ただの、俺を痛めつけるキスだと言うには。
センパイの瞳はあまりにも、大きく揺れている。
「行きましょうか、旅行」
「……うん」
どうしてこうなったんだろう。
そんなことを考えるよりも先に、唇の温もりがすべてを奪って行った。
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