旅行
28話 私のコウハイ君の親
新年の目標か。
そんなものを意識したことはなかった。
私は、大洋に浮かんでいる筏に過ぎない。
乗っている人のいない、帆も舵もないボロボロの筏。行く先が分からない人間。
「……酒でも飲もうかな」
今日は有休を取ってるから、深夜にお酒を飲んでも咎める人はない。コウハイ君も今は眠っているはず。
ゆっくりとベッドから起き上がってリビングに入ると、そこにはなんと。
「……コウハイ君?」
「えっ、センパイ?」
テーブルに座っている、寝間着用のスウェットを着ているコウハイ君がいて。
私はとっさに、さっきスマホで確認した時間を思い返す。確か、深夜の2時10分だった。
どうして?コウハイ君は今日会社なのに?
「眠れないんですか?」
「……なんとなく。コウハイ君も?」
「まあ、眠れない理由ができてしまったので」
そう言いながら、コウハイ君は片手で持っていたスマホを振り始める。
私はその姿を見てしばらく沈黙を保ってから、コウハイ君を通り抜けて冷蔵庫に向かう。
そして、缶ビール2個を取り出して、一つをコウハイ君の前に置いた。
照明が消されている暗いリビングの中、コウハイ君は説明を要求するように私を見上げてくる。
「飲んで」
「……今日会社ですよ?俺は」
「有給取ったらいいんじゃない?コウハイ君も」
「いえ、そういうわけには……」
「飲んで、話してくれない?」
ポツンと放たれた言葉を聞いて、コウハイ君は驚愕したかのように目を見開く。
私は、いつも通り彼と向かい合うように座って、言葉を付け加えた。
「辛いことなんでしょ?」
「……………………センパイ」
「だったら、飲んだ方がいいよ。逃げた先に楽園なんてないとか言うけど、逃げるのが間違っているわけじゃないから」
「あはっ……それ、どこのセリフですか?普段のセンパイが思い出せるようなセリフじゃない気がしますが」
「うるさいな、コウハイ君は」
自分でも、この状況は不思議だった。
コウハイ君の事情に足を突っ込むような真似をするなんて、普段の私なら絶対にしない行動だ。
でも、私は当たり前のようにコウハイ君の話を聞く気になって、お酒を持ってきて、恥ずかしいセリフまで引用した。
どうして自分がこんな風に行動しているのか、この期に及んでも分からない。
でも、私はこうするのが正しくて、当たり前だった。間違っているけど、当たり前だった。
たぶん、コウハイ君が私を変えたからだと思う。
「父親が会いたいってメッセージを送って来たんですよ」
「……それで、実家に帰りたくないわけ?」
「ですね」
コウハイ君は立ち上がってから常夜灯をつけて、席に戻って缶を開ける。
目配せで乾杯するかと問われて、私は即座に持っていた缶ビールを前に出す。
あまり爽やかではない濁った音が、二人の間で鳴る。
「二十歳になってからずっと地元には行かなかったので」
「……じゃ、5年くらい行ってないんだ」
「そうなりますね。どうしても行く気になれなくて」
「毒親だったの?」
「それは、もう」
コウハイ君は淡々と、自分の話を繰り広げていく。
「母はヒステリックで、感情変化がけっこう激しい人間でしたね。ある日は誰よりも幸せそうな顔をして愛してるわとか言うくせに、ある日は悲劇のヒロインみたいな面で暴力を振るう………そういう人間」
「……………」
「まあ、父はいつもお酒に酔った状態でそんな母を殴ってましたから、ある意味マシかもしれません。たまに俺も殴りましたけど、父がのさばる日はとにかく母が静かだったので」
「そっか」
「はい。だから、まあ……帰る気に全くならないというか、そういう話です」
コウハイ君はビールをぐびぐび飲み込みながら、ふうと深い息をつく。
「たまに、こういうメッセージが届くんですよ。センパイと暮らす前には母からけっこう執拗に連絡されたんですよ。たぶん、病院代がないから連絡してきたんでしょうけど」
「なら、行かない方がいいわね」
「はい」
割と酷いことを言ったつもりなのに、コウハイ君は即座に頷いた。その反応だけでも、彼が親をどう思っているのかが感じ取れる。
それでも、心には拭いきれない何かがくすぶっているのだろう。
コウハイ君はそれをアルコールで流していた。目を背けて、ため息をつくことで見て見ぬふりをしている。
私はそんなコウハイ君を、理解できる。
「……コウハイ君」
「はい」
「大丈夫じゃないよね?」
「大丈夫です」
「大丈夫な人の顔じゃない」
「お酒飲んでいるから、大丈夫じゃないですか」
コウハイ君は優しい人だ。
だから、深夜の2時に起きて一人で憂鬱になっていたのだ。
自分を虐待した毒親が嫌いなのに、お金をせびってくる親に会いたくもないのに、心の奥底では悩みが湧き上がっている。
きっぱり切り捨てられないから眠れなかったのだ。その迷いの根源が優しさだから、コウハイ君はお酒に逃げているだけ。
「コウハイ君」
「はい」
「他に逃げる場所、作ってあげようか?」
「……エッチは遠慮しておきます」
「ふふっ」
察しがいいな、と思いつつ。
私はお酒を呷ってから立ち上がって、コウハイ君の隣に行った。
「コウハイ君、私を見て」
「……………」
「コウハイ君」
「別れるんじゃないんでしたっけ」
唐突に押し付けられた、私たちの関係の結末。
でも、私は淡い笑みを浮かべながら、無理やりコウハイ君の顔を両手で引き寄せる。
「……どうして優しくするんですか、センパイ」
「コウハイ君が普段から生意気すぎるからだよ」
「……俺で遊んでいませんか?」
「半分は、遊んでる」
一番つらい時に隣にいてくれた人間は、永遠に残る。
死んだ親友の顔が今も私に残っているみたいに、コウハイ君にもきっと私が残る。
そうすれば、別れる時の悲しさがもっと激しいものになる。生意気なコウハイ君を痛めつけることができる。
………でも。
「じゃ、残り半分は?」
「…………教えてあげない」
このキスの意味がそれだけじゃないってことを、私はもう知っている。
ゆっくりと目を閉じて、私はコウハイ君の唇を自分の唇で包む。
柔らかくて、熱っぽくて、アルコールが少し混ざっているキス。
私のキスには、コウハイ君の穴を大きくするという目的以外の、別の何かが混ざっている。
同情心ではない。頑張ったね、とかの励ましとかでもない。労いでもない。
愛でもない。愛だと……困る。
これは、たぶん願いなんだと思う。
「…………………ふぅ」
「…………………キス、長すぎませんか?」
「夜じゃん」
「はい?」
「夜だから、キスがもうちょっと長くてもいいんじゃない?」
「……………………」
コウハイ君の苦しむ姿は好きだけど、嫌いだ。
コウハイ君が悩んでいる姿を見たいと思う自分がいて、見たくないと思う自分がいる。
このキスも同じだ。私のキスでコウハイ君がもっと悶えて欲しい。でも、それと同時に……。
「……そうですね」
「……うん、きっとそうだよ」
私のキスで、コウハイ君が癒されて欲しい気持ちもちゃんとあって。
そんな理不尽で矛盾だらけのキスを、私はまた重ねる。
一枚一枚を丁寧に重ねて、私の願いを届けていく。
もしかしたら、私は。
コウハイ君のことが、そこまで嫌いではないかもしれないと思ってしまった。
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